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教会看板 9月4日 今週の言葉

2020-10-04 19:58:19 | 教会案内

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空の空、いっさいは空しい

2020-10-04 14:38:11 | メッセージ

主日礼拝宣教 コヘレトの言葉1章 

 

本日より約二か月間、コヘレトの言葉より御言葉を聞いていきます。口語訳聖書では、伝道の書となっておりますが。それはコヘレトというヘブライ語には「集める」という意味をもつことから、集会を招集して語る人、伝道の書となったという説があります。又、この書には「知恵」や「格言」がたくさんありますように、それらを「集め」て記録し、編集する人という意味だという説もあります。いずれにしましても、こうした信仰の先人の知恵に与ることができるのは、「人の子らを集め」霊によるさとしを与えて下さる神に感謝して、学びを深め、信仰に生きる道を歩むうえで有意義なことであります。

1節の冒頭「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」、又12節の「わたしコヘレトはイスラエルの王としてエルサレムにいた」という記述から、作者は一世を風靡し栄華を極めたソロモン王かと考えることもできますが。聖書学者らの研究によれば、ソロモン王の時代からさらに700年後のギリシャ、ヘレニズム時代の影響下にユダヤ、イスラエルの民がおかれていた中で編集がなされたということであります。

ソロモン王は即位して間もなく神から、「あなたに何を与えようか、願え」と言われ、富や誉ではなく「民を正しく裁くための知恵」を求めました。それは神の御心に適い知恵とともに富も誉も受け、イスラエルの統一王国の時代に栄耀栄華を極めます。

しかしその一方で、自分が得た知恵と知識、経験をもってしても制御することのできないこと、理解も及ばず悟り得ないことがあることを知るに至るのです。いわゆる因果応報律では解決し得えない事ども、殊に不慮の禍や死があり、栄華を極めても自分の命さえどうすることもできず、やがて消え去ってゆく存在にすぎない。彼はそんな人の世のはかなさ、人生の空しさを知るのです。

先ほど申しましたそのソロモン王から700年後のコヘレトの言葉が編纂されたと言われるギリシャ・ヘレニズムの時代は、言語、文化、経済、学問などが新たに栄え、その後の多くの学者、芸術家、哲学者、科学者を輩出する西欧文明の土台となります。特に通商においては世界中の国から貴重な金をはじめ、特産物を輸入して繁栄しました。

ところが、そういった統治や社会から取り残される人も少なくなかったようであります。そして多くの人々は女神や偶像崇拝に傾斜し、自我の欲求や不老不死を求める神無き時代となっていくのです。

そういった今日の世界にも共通する時代背景があったことを踏まえてこのコヘレト1章を読みますと、より一層その言葉の深みを味わうことができるかと思うわけですが。

このコヘレトの言葉1章の中で最もよく知られている言葉は、2節の「なんという空しさ/何という空しさ、すべては空しい」、口語訳聖書では「空の空、空の空、いっさいは空である」というものです。この空とは、文字どおり空虚で、空しいということです。

その空しさむなしについてコヘレトは3節で「太陽の下、人は苦労するが/すべての労苦も何になろう」と語ります。口語訳ではちょっと違いまして「日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか」となっています。

この当時から社会生活に経済という概念があって、苦労が損得で計られていたというのが商人の街大阪人としては興味をそそるところかも知れませんが。まあ、働いても利益にならないとなれば大変なことです。が、ここで問うていますのは、人が苦労して働いていくら利益を得たとしても、人はいつ何が起こるかわからない。どんなに人に認められても、野の草花が、やがてしぼみ枯れてしまうように、地上を去ればもはや意味なく、その名も忘れ去られてしまう。「空の空、いっさいは空しい」と、コヘレトの言葉は伝えます。

4節以降には、世代は去り、また別の世代がやってくる。太陽は昇り、また沈む。風は南に向かい北へ巡り、再びもとに巡りくる。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく、その出て来た所に帰っていく、と。コヘレトは、確かに人間を見る限り、「太陽の下、新しいものは何ひとつない」と言うのです。

あの平家物語には「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす。奢れる人も久からずただ春の世のごとし、猛き者も遂には滅びぬ ひとへに風の前の塵に同じ」と、あります。古典の授業で学生の頃、暗唱させられた方もおられるかと思いますが。

「祇園精舍の鐘の音には、諸行無常、すなわちこの世のすべての現象は絶えず変化していくものだという響きがある。(沙羅双樹の花は、仏教では釈尊が生まれたインドに生息し、5~7月に枝の先端に白やクリーム色の小さな花を咲かせ、ジャスミンのような香りがする)。どんなに勢いが盛んな者も必ず衰えるものであるという道理をあらわしているそうです」。世に栄え得意になっている者も、その栄えはずっとは続かず、春の夜の夢のようである。又、勢い盛んではげしい者も、結局は滅び去り、まるで風に吹き飛ばされる塵と同じようである」。そのように解説されておりますが。不思議ですよね。聖書の中にも共通した言葉をいくつも見出せますね。現代もコヘレトの言葉のように世代はめぐりつつも、繰り返し物事は起こってくる。新しいものは何ひとつない。コロナ禍の騒動も実は人類がすでに形の違いはありましても、繰り返し経験してきたことではないでしょうか。

さて、聖書に戻りますが。コヘレトは13節のところで、「天の下に起こることをすべて知ろうと熱心に探究し、知恵を尽くして調べた。神はつらいことを人の子らの務めとなさったものだ」と言います。

これはコヘレトの言葉を読み解く上で重要な足がかりとなる言葉になるかと思います。ここに、初めて「神」の御名が出てまいります。コヘレト12章の全体に神の御名がざっと数えても35回は出てまいりますが、その最初に登場する「神」の御名です。大事な点は、このコヘレトは神の御名を知る者として、神との関係を日々築いてきたのです。つまり、彼が「空の空、いっさいは空しい」と言ったことも、この地上でおこるすべての不条理又、理不尽とも思えることさえも、天地創造の主であられる生ける神がすべ統め、御手のうちにおかれているとの確信のうえに語られているのです。まさにこれが平家物語のいわゆる無常感と大きく異なるところではないでしょうか。確かにこの地上に生きる限り、私たちは有限的存在であります。世にあって私たちの内外には闘いや苦労、様々な課題は尽きません。又、釈尊が人生には四苦八苦があると説いたように、悩みや苦しみもやってきます。家族や親しい者との地上での別れ、様々な出来事が起こってまいります。

けれども、絶対的御意志をもってお働きになられる生ける神を知るか否かで、全くその人生観、又日々の生き方も異なってくるでしょう。その真の愛と憐れみの神が私と共にいてくださることを確信できるとしたなら、何にも代え難い大きな慰め、大きな支えになるでしょうか。ギリシャ・ヘレニズムの異教の神なき世界において、物質的な繁栄を追い求める人々、又、神ならざる空しいものを神と崇め、そこにより頼もうとしている人々に、真の救いと慈愛の神を証し、伝える務めはある意味、骨折り、徒労のような働きであったといえるのかも知れません。

そして神は「つらいことを人の子らの務めとなさった」とつぶやくこのコヘレトの言葉から約300年後、滅びるばかりの人の世に、遂に神御自身が救いの御業を成し遂げてくださったのです。それは御独り子、イエス・キリストを世の人々の罪を贖う救い主として遣わしてくださることによってであります。まさに、神の御独り子、主イエス・キリストなる神が、人の子らに骨折らせられる苦しい業、自ら人となって知って下さり、神の愛と憐れみをもって救いの道を拓いて下さったのです。でありますから、私たちキリストを信じる者は、困難や苦しみや悲しみの中でさえ、神の救いを仰ぎ見るとき、ただ空しく思えた人生に喜びの歌と希望が生まれるのです。

本日は「空の空、いっさいは空しい」と題し、御言葉を聞いてきました。もし神無き世界であったなら、本当に私たちの生、人生とは何でしょうか。なんと空しく、なんと虚無といえるでしょう。世の中では悲しい残念なニュースが連日のように伝えられています。

先日、大阪キリスト教連合会の会合があった折、ある神父さんがこのようなことを仰っていました。「パンデミックのときを考えつつ、苦しみの人々が多い、人々はでも考えている、何が人生の中で一番大切なのかを。それは礼拝と日常のときをつなぐ神との関係の大切さを、又隣人や他者との関係を大切にもつことを。神にゆだねて主イエスに従う。シンプルに生きることを」と、その言葉が心に留まりました。又、もう一人の牧師の方が「コロナ禍前から教会を休んでおられた方が、コロナ病棟で勤務する中、死と向き合うと信仰を考えざるを得なくなり、礼拝に帰って来た。その方は『教会で祈っている姿や自分のために祈ってくださっている教会の方々の姿が思い出した』と仰っていたのです。礼拝に来れないということで信仰が無くなったということではない」と、そう言っておられました。

まあ、現在も様々なかたちで感染対策の工夫をしつつ、私たちも又この礼拝の場が祈りの家、主の家であり続けていきたいと切に願います。心が折れそうになるとき、無力感に打ちひしがれるとき、失望するとき、空しく思えるときがたとえありましても、神は生きておられ、愛と憐れみの主が共におられることを確認し、私たちも共に祈り続ける主の交わりを保ち、キリストのからだなる教会とされてまいりたいと願います。今週も主の道を共々にしっかりと歩んでまいりましょう。

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