本日はコヘレト3章の御言葉を聞いていきたいと思います。「神のなさることは皆その時にかなって美しい」。これは3章節11節の口語訳ですが。この聖句は多くの人に愛され、おぼえられてきた御言葉ではないかと思います。はかなく、苦悩多き人生に沁み込んでくるような御言葉の極意には後ほどお話しいたしますこととしまして。
☆「すべてに時がある」まずこの3章14節にこのコヘレトの言葉が書かれた目的についてこう記されています。「神は人間が神を畏れ敬うように定められた」。口語訳聖書では「神がこのようになされるのは、人々が神の前に恐れをもつようになるためである」。それは最終12章13節でコヘレトが「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、戒めを守れ。』」という命令形で締めくくられています。神を畏れ敬うことこそ人が真に人として生きる知恵のはじまりであり、そこに何者も奪うことのできない本物の幸いがあるのです。
冒頭1節「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」とありますが。これは口語訳聖書では「天の下のすべての事には季節があり、すべての業には時がある」と訳されております。「天の下」ですから、すべ統めておられる神のもとですべての業ということですから、その業を成したもう神が時をつくられたということで、その主体は神だということが示されているのです。それは又、17節で「すべての出来事には、定められた時がある」と、口語訳では「神はすべての事と、すべてのわざに、時を定められたからである」と、明確に神が時を定められる主体であるということを示しています。ところで今はどうかわかりませんが、クロノスという時計のメーカーがあったかと思いますが。クロノスは時という意味ですが。そのように時といえば時間であり私たちはその時間ともすれば秒刻みで動いているわけですが。けれど聖書には二つ「時」の概念がありまして、一つは時計の針のように流れゆく時間、クロノスですね。そしてもう一つは、その流れゆく時間軸に切り込んでくる「神の時」があるということです。これをギリシャ語で、「カイロス」と申します。今日のところに記されています「時」はみなカイロス、人や時代の時間軸に切り込んで来る神の時を言い表しているのです。
2節から8節には、私たちの生の全領域において起こる出来事が記されていますが。人の「生まれる時、死ぬ時」、人生の初めと終わりです。これはすべての人に例外なく臨む人にとって最も大きな出来事といえます。生命の誕生は人間の能力を超越した神秘であり、神の御業としか言い得ません。2019年の統計では地球上に77億人以上存在するという人類の中で、遺伝子や細胞が全く同じ人という人はだれ一人いません。まさに人は神の作品であり、生まれて来る時は神が造られた時なのです。
先週水曜日の祈祷会には昨年末、そして先月の9月に近しい家族を亡くした私含め5人も出席する中、この3章のコヘレトの言葉を読んだのでありますが。ほんとうにこの死の時は人間の力の及ばない領域であるということを思うわけであります。たとい治療が功を奏して少しは生き延びることができたとしても、人には寿命が定められていることに変わりありません。また、いつどうなるか人には分からないのです。「植える時、植えたものを抜く時」とありますが。植えつけと刈り入れの時期は農夫によって定められているように、人の生涯の初めと終わりの時を神がお定めになるのです。3-4節には「殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、躍る時」と記されています。「殺す時」とか「破壊する時」などと聞きますとドキっとしますけれど、残念なことに人の世には争いが絶えません。大なり小なり争いごとで人は泣き、また嘆きます。そういうある意味、悲観的、悲劇といえるような時がある一方で、まるでコインの表と裏のように「癒す時」「建てる時」「笑う時」「踊る時」と、神によって「時」が定められているということであります。5-8節にも「抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時」と続きます。人のその折々の心情感情までも神の時によって人に生じるのであり、そうして人は生きていくのです。
さて、この「コヘレトの言葉」は口語訳聖書では「伝道の書」と呼ばれてきましたが。ギリシャ語訳聖書では、エクレシア(教会)に由来する題になっています。英訳聖書にはコヘレトの言葉という表記はございません。「ECCLESIASTES(エクレシアステーツ)」との表記がなされ、それは「神に呼び集められ者の書」とでも言ったらよいのでしょうか。先週触れましたようにこの書が編集されたのは紀元前3世紀末頃といわれており、エルサレム神殿の崩壊、捕囚という辛い経験を経て、さらに捕囚からの解放とエルサレムへの帰還と第二神殿再建、ペルシャ文明の影響、さらにヘレニズム時代のギリシャの繁栄した文化の風習が押し寄せ蔓延していく時代の流れの中で、ユダヤの民ら神の民として如何にこの時代を生きるか。そういう事が問われた時代であったということであります。それはかつてイスラエルの統一王国の王として栄華を極めたソロモンが如何に思いめぐらし、何を見出したか、という事の中に、神の民として生きる知恵と教えを彼らも又見出そうとしたんですね。2節~8節に記されたごとく、壊され散らされ追いやられた時代、そして再び集められ建てられた時を自らに重ねつつ、ユダヤの民は集会においてこのコヘレトの書から、14節にありますとおり、時代や社会は変わろうとも、決して変わることのない真理、神を畏れ敬って生きることの重要性を、このコヘレトの言葉から聞いていったのではないでしょうか。
ユダヤではある一つの慣習があるという話を知りました。それは婚礼のセレモニーで、祝いのワイングラスを床に叩きつけて割る、というものです。それは紀元70年にエルサレム第二神殿が崩壊したその悲痛を決して忘れないということなんですね。婚礼という最も喜ばしい祝福もまた、ユダヤの民の苦難の歴史の上にある。その想起と祈りが婚礼の折も、込められているという事です。いわば一番自分たちが倖せな時、民族として最も不幸であった時の事を心に刻みつける。この慣習の中に、時に流されず、時と向き合って生きるユダヤの人びとの姿を垣間見る思いがいたしますが。そこにはユダヤの人々が、神の時を常におぼえつつ謙虚に、神の民として生きていくようにという強い願いと祈りが込められているように感じます。
聖書に戻りますが、コヘレトは12‐13節で次のように言います。「わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは/喜び楽しんで一生を送ることだ、と/人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは/神の賜物だ、と」。私たちが人生を労苦によって得たもので楽しんだり、飲み食いして満足することは「神の賜物」だ、と肯定されているのはうれしい気がします。同時に、私たちの日常の飲み食いといった普通に小さく思える事や出来事の中にも、主なる神さまのご意志が働いていることを忘れてはならないと、戒められているようにも思います。
続く14節には「すべて神の業は永遠に不変であり/付け加えることも除くことも許されない。神は人間が神を畏れ敬うように定められた」とありますように、神の存在とその働きを知らない、あるいは知ろうとしない人生の空しさは、「空の空、いっさいは空しい」ものでしかありません。しかし、いっさいが創造主なる神の御手のうちにあり、その神との関係を築いて生きることができるなら、私たちの人生は大きく変わります。
16-17節「太陽の下、更にわたしは見た。裁きの座に悪が、正義の座に悪があるのを。わたしはこうつぶやいた。正義を行う人も悪人も神は裁かれる。すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」。ここでコヘレトは人間の根源的な罪の問題をとりあげます。この時代が創造主を否定し、不正と不義を働く勢力と偶像礼拝がはびこっていた時代であったことが、読み取れます。コヘレトは真の義であられるお方による裁きの時が必ず来る、正しい者も悪人も、その大いなる主なる神の玉座の前で裁かれることになる、であるから「神を畏れ、敬い生きよ」と、語ります。いわばここまでがコヘレトの教えと戒めなのであります。
☆「神のなさることは皆その時にかなって美しい」しかし、それから約200数十年後。神は全人類に向けた決定的なご介入、「神の時」をもたらされます。神はすべての人に救いが開かれるために御独り子、イエス・キリストをお遣わしになられたのです。まさに神の義と愛による救いと裁きの「時は満ちた」のであります。それは人の姿となってお生まれくださった神の御子イエス・キリストの誕生の「時」であり、神の国の宣教開始の「時」であり、私たち人間の罪の身代わりに十字架におかかりになって罪を贖い死なれた「時」でした。それをイエスさまは「わたしの時」と仰いました。さらに神はその御子イエス・キリストを三日の後に死よりよみがえらせてくださったのです。今日の3章2-8節には「殺し、癒し、破壊し、建て、泣き、笑い、嘆き、踊る」に時とありますが。まさに予期せずしてそれらのコヘレトの言葉、出来事が、主イエス・キリストにおいて全人類の救いの出来事として実現していくのであります。それは私の罪がキリストを十字架につけて「殺し」、その打たれた傷によって私を「癒し」、古き自我は「壊され」、神のもと「建てられ」、「泣く」者が「笑う」者に、「嘆く」者が「踊る」者に変えられていく神の業が顕される時となるのです。
私たちを取り巻く神なき人生観・世界観は、すべてが偶然であると考えます。自分が今生きているのも偶然、人生の出会いも偶然、死んで行くのも偶然。それは空の空、いっさいが空しいばかりの人生です。しかしコヘレトは伝えます。「すべてに神の時があるのだ」と。神の業とご計画は偶然ではなく「必然」であると。そして遂に「時は満ちて」、天地万物を司られる主なる神さまは御独り子、イエス・キリストを人類の救い主としてお遣わしになり、主は空しき滅びより救われるいのち道を切り拓いて下さったのです。3章11節「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」、口語訳「神のなさることは皆その時にかなって美しい」との御言葉がまさに実現されるのです。今日は礼拝の招詞として、主イエスが福音を世に伝えるに最初に発せられたマルコ福音書1章14-15節の御言葉が読まれました。そこをもう一度お読みします。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」。悔い改めて神の救いの福音を信じるということは、神の裁きの前に立ち得ない罪の私に、神の側から近づいてくださった今この時、その神の愛と救いを受け入れるということです。すでに主の愛と救いを受け入れ、バプテスマ(洗礼)の恵みに与った人も、その主のゆえに日ごとに主を畏れ敬い、日ごとに生ける神さまとの関係を保つ人の魂に、神さまは心からの賛美と感謝、聖霊の喜びを溢れさせてくださるのです。今日というこの日も決して偶然ではありません。この礼拝に招かれ、導かれましたことも偶然ではありません。偶然ではない神の必然、今日は救いの日、恵みの日です。「あなたは今この時を、如何に生きますか」。今日の御言葉から受け取ってまいりましょう。