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ひとりよりもふたりが良い

2020-10-18 13:45:45 | メッセージ

礼拝宣教 コヘレト4・1-17

本日はコヘレト4章より「ひとりよりもふたりが良い」と題し、御言葉に聞いていきたいと思います。この言葉は9節の「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば。その報いは良い」から採ったものですが。まあ私もこの9節以降のコヘレトの言葉を、結婚式の折にお読みしたり、お奨めの言葉とさせていただくことがあります。しかし、それは単に男女間や結婚、夫婦といった間だけに限ったものではありません。先日こういうことがありました。この9節以降の聖書の言葉と宣教題「ひとりよりもふたりがよい」と書かれたいた用紙を看板に掲示していましたら、じっと見入っておられた一人のご婦人がおられたので「この聖書のみ言葉素晴らしいでしょう」と、声をおかけしますと、その方曰く「わたしは夫を亡くしてしまったものでもう、、、」と、そう言われたのです。私も先月母を亡くしていますので、その方のお気持ちがよくわかりました。私はその方に「お寂しくなられましたね。でもいろんな方のお支えがきっとおありでしょう」答え、その上で「人は一人では生きていけませんよね。だれかの支えがあってこそ、今、生きることができていますよね」と申しましたら、その方は「そのように考えますと、そうですね」と笑顔で答えられ、天王寺駅の方へと向かっていかれました。私の心も、何かさわやかな気持ちにされた出来事でしたが。

それでは、このコヘレトの言葉4章を少し丁寧に読んでいきましょう。まず冒頭1節に「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を」とあります。その社会を見渡した時、まずコヘレトの眼に映ったのは、虐げられている人間の姿でありました。これは「主イエスが、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた折、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」、主イエスの眼差しと重なってまいります。人の世で起こってくる虐げは古今東西どの時代然り、今私たちが生きるこの時代におきましても、絶えず繰り返されています。そして社会と人の無関心がそれを助長し、孤立する人、苦しみ倦みつかれている人の心を捉えていたのが2節-3節の「既に死んだ人を、幸いだと言おう。さらに生きていかなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれてこなかった者だ」との当時流行りの諺であったようです。しかし、コヘレトはこの刹那的な考えを支持しているわけではなく、このなにかと生きづらいような社会に神の義と平和が立てられていくことを強く願っていたのです。コヘレトは確かに裕福な生活者でした。しかし彼は力ある者に虐げられる人たちの涙に目が留まるのです。彼は伝道者である前に、まず神の前に立つ一人の人間でした。虐げられている人も又、自分と同じ人間であるということを創造主であられる神の御前で常に自覚していた。神の作品として造られただれもが、人としての尊厳が損なわれることのない社会、シャローム(平和)の実現を熱望し、神の義と平和が建て上げられていくこと祈り求めるコヘレト。しかしコヘレトと同様裕福な生活状況にあった人たちの中には、このコヘレトの発する言葉、いわば告発が自分たちに苦々しいものと感じ、その地位や立場すら揺るがしかねないものだと考えて彼をあざけり、非難していたようであります。                       

「嫉妬」~まあ、このような力ある人たちのことをも頭に置きながら、コヘレトは4節で次のように語ります。「人間が才知を尽くしても労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということが分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ」。口語訳では「わたしはすべての労苦と、すべての巧みなわざを見たが、これは人が互いに妬みあってなすものである」とあります。強い洞察力だと感心します。人はもう物心ついた子どもの頃から、そういった感情を持っているし、そこから自由になれないのです。ここでまずコヘレトは、人間の奥底に潜む「嫉妬心」を取り上げます。妬みや嫉妬から生まれるエネルギーは非常に強いものです。それは個々人ばかりか集団に働くと党派心や排他的差別となって社会までも悪い方に変えてしまいます。私たちが生きる社会の至る所でそういった力関係が働いていることを見るわけですが。いずれにしろ嫉妬心からは何も生まれません。それどころか他者を傷つけ、自分をもいやしめることになってしまいます。そこから解き放たれる道はコヘレトのように、この社会に神の義と平和が実現されるように切に願い祈り求め、又努めることをおいてほかにありません。                            

「忙しなさ」~コヘレトはさらに人間が人間性を失う時に陥りやすい「忙(せわ)しなさ」を取り上げます。よく仕事や家事に忙殺されるとか言いますけれど。「忙」は心を亡くすと漢字で書きます。私たちも時に日々の生活でそれを実感しているのではないでしょうか。先の人間の嫉妬心によって競争が生じ、多忙さに心を失ってしまう人の生活。そのことを踏まえたうえでコヘレトは次のように言いました。6節「片手を満たして、憩いを得るのは/両手を満たして、なお労苦するよりも良い。それは風を追うようなことだ」。天地創造の神は創世記にありますように、私たち人間が労働によって糧を得るように定められました。けれども休む間もなく働き続けるようにとはおっしゃいません。むしろ週に一度安息するようにお命じになったのです。神は人に労働の報いとして「休み」「憩い」の時をもつように促しておられるのです。神の安息日がそれでありますが。神を信じる私たちにとりまして週に一度、主イエス・キリストの贖いによりゆるしと和解の喜びと真の安息を得るのであります。その神の恵みによって私たちの魂は健全なものされ、新たな週を歩み続けることができるのです。この主の日によって忙しい者も忙殺され自分を見失う事から解放されるのです。今年は新型コロナウイルスによる感染拡大により世界中、この日本も、そして私たちの生活も一変してしまいました。それに伴い確かに厳しい生活を余儀なくされている人が増加しているのは憂うべき事であります。ただ、このコロナ禍によって現代に生きる私たちは「忙しすぎた」ということに気づかされたように思います。この強制的ともいえるようなストップがかからなければ、私たちはそのことに気づきもせず、多忙でいつも苛立ち、両手を満たしてまだ満足できない毎日を繰り返し、果ては人間らしい生き方や生活をも損う事態になっていったのではないでしょうか。私自身このコロナ禍を通して気づかされたことが本当にたくさんありました。教会で礼拝を捧げることが当たり前のように考えていた。それが見事に崩れました。当たり前じゃなかったのです。主なる神さまの前に兄弟姉妹と集いたくても集うことができないというのはどんなに寂しく苦しいことかを思い知らされました。けれどもそこで神さまとの一対一の交わり、お一人お一人との主にあるつながりの尊さにあらためて気づかされました。主なる神を共に礼拝できることは当たり前のことではなく「神が与えてくださったかけがえのない時」、まさに先週のコヘレト3章にあった時、カイロスなんですね。教会ではこれまで行って来た様々な諸集会もストップし、奉仕者もそれが可能な方々でまずは礼拝を捧げてまいりました。私はそれらのことを通して、もう一度、主が私たちにとって何が大切で、何が必要かということを少しずつ気づかせてくださっているように思えるのです。        

「孤立」~コヘレトはさらに人間の心の内に潜在する「孤独」について取り上げます。8節「ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限なく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。「自分の魂に快いものを欠いてまで/誰のために労苦するのかと思いもしない。これまた空しく。不幸なことだ」。コヘレトはここで、休む間もなく働き続け、ひたすら富を蓄える人を見ています。ワーカーホリックと言うのでしょうか。いわゆる仕事中毒でしょう。この人は友息子も兄弟もないとありますが。実際にいないというより、いてもいないのと同然に自分の事だけ、仕事で蓄えることだけに執着していたということでしょう。   

「ひとりよりふたりが良い」~そこで、コヘレトがこうした孤独な人間に対して語りますのが9-10節の次の言葉であります。「ひとりよりはふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れてれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のいない人は不幸だ」。        ここでコヘレトは人の交わり、人の関わりの大切さを語っています。神は人間が孤独であることを望まれません。神は最初の人アダムに「人がひとりでいるのは良くない」と言われたとおりです。なぜならそこには「慰める者」がいないから、良くないのです。コヘレトは「ひとりよりもふたりが良い」と言い、又「共に労苦すればその報いは良い」と言います。それは労苦で得た報酬だけではなく、共に労したというお金では計れない人としての喜びが伴うからです。「倒れても起こしてくれる友」。寒風が吹くような寒々しい厳しい状況も互いに励まし合える友がいる幸い。又、思いがけない攻撃を受ける折も友がいる心強さ。「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」。しかし、そこでふと気づきます。なぜ二つよりでなく三つよりなんでしょう?ふたりでこれに対するのに、なぜ三つよりの糸なんでしょう?不思議な気がします。この「三つよりの糸(綱)」については古来の諺ではないかとも言われているそうですが。いずれにしてもコヘレトはこのふたりにさらにひとりの友が加わり、縒(よ)り合わされることによって強く切れにくくなると言うのです。ここには見えない、隠れているその3人目の友は、主なる神と考えることができるでしょう。

「真の慰め主(ぬし)」~私たち新約の時代に生きる者にとりましては、まさに神の御独り子であられるイエス・キリストが人の姿となって世にお降りになられ、ひとりでは決して生きられない私たち人間の真の友、3人目の友となってくださった。この心強さ、うれしさであります。それだけではありません。主イエスの御業を通して降られた御聖霊は目には見えませんが慰め主として教会(エクレシア)を誕生させます。そのことによって世界中の誰もが神の家族として招かれるようになるのです。この神の愛とご聖霊を受け、主にある交わりを築いていくなら、罪に滅びゆくばかりの空しい人生が、主と共なる人生、実りある人生へと変えられていきます。又、御聖霊は様々な人との出会いを興され、他者との関り、肉親でもないけれど、とりなし祈り、覚え、ねぎらう主イエスにある交わりを興されます。時にすれ違いや意見の違いがあったとしても、御言葉の奨めに聞き、謙虚にされ、ゆるしゆるされる交わりを興こされます。ここに主を信じる一人ひとり、又その群れの大いなる慰めがございます。

「主の顧みを信じて」~最後に13‐16節をお読みします。「貧しくとも利口な少年の方が/老いて愚かななり/忠告を受け入れなくなった王よりも良い。捕らわれの身分に生まれても王となる者があり/王家に生まれながら、卑しくなる者がる。太陽の下、命あるもの皆が/代わって立ったこの少年に見方するのをわたしは見た。民は限りなく続く。先立つ代にも、また後に来る代にも/この少年について喜び祝う者はいない。これまた空しく、風を追うようなことだ」。ここに一人の少年が登場します。特別な教育を受けたわけでも、何か後楯があったわけでもありませんが、神の知恵と霊に満たされて立ったこの少年を民衆は王として喜び迎えます。おそらくヨセフのことがコヘレトのうちにあったのかも知れません。しかし時代が変わると民衆は気まぐれで、その王について喜び祝う者はいないのです。そしてこのコヘレトの言葉が編纂された時代から200数十年後、神の御独り子が人間の姿となってお生まれになられました。この御独り子は貧しく、虐げられ、捕らわれた者たちと共に歩まれます。神の霊と神のご計画の知恵に満たされ世にご自身を現されます。しかし、その十字架の無残な死はだれからも理解されず、それを喜び祝う者はいません。ところがまさに、その御独り子の十字架こそ全人類すべての罪をゆるし贖う、神との和解をもたらすための主の御業であったのです。貧しき少年であった主イエスは世界の王・メシヤ、救い主(ぬし)・キリストとなられたのです。私たちはこの真の王であり、真の友であられる主イエスの前にただ罪を告白し、その御救いに与って御言葉に生きる時、まさに三つより糸のように切れにくく確かな人の歩みと変えられていくのです。この地上の人生において、私たちの主との交わり、主にある友との交わりを大切に生き、共に祈り、労苦をねぎらい、心温め合う日々はすべて主が顧み、覚えてくださる。それは決して忘れられることはありません。一日一日を主の恵みの日、救いの日として私たちも共に歩んでまいりましょう。

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今週のことば

2020-10-18 07:49:15 | 教会案内

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