礼拝宣教 ルカ8章16-18節
多くの人にとって日常に欠かすことのできないもの、それは「あかり」でしょう。
まあ、現代はたいがいの家庭でも電灯器具がついていて、壁際にあるスイッチやリモコンボタンを押せば、暗い部屋もまあ昼のようにすぐ明るくなりますけれども。この時代のユダヤでは週報の表にあるような、燭台の皿に油と灯芯を入れ、それに火を灯していました。
イエスさまはこうしたユダヤの人々が日常生活に欠かすことのできなかったこの「ともし火」を通して、神の国の奥義についてのたとえ話をなさるのです。
今日私たちに語りかけられる聖書のメッセージに耳を傾けてまいりましょう。
16節で、イエスさまは次のように言われます。
「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」
そのとおりです。器で覆えば何の役にも立たず消えてしまうでしょう。ベッドの下だと足元は照らしても暗く、第一危ないです。背の高い燭台にあかりを灯せば、部屋全体が照らし出され、明るくなります。
このイエスさまのおっしゃることを注意深く聞くと、イエスさまは入って来る人に「光が見えるように」と言われているのがわかります。自分以外の誰かが入った時、その光が見えるように光をかかげていることが大切なのです。
ではそもそも、この光とは何でしょうか。
それは、私たちのすべてを照らし出すことのできる何かです。
17節でイエスさまは、その光によって照らし出されるのなら、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず公にならないものはない」とおっしゃっています。
その後の18節でイエスさまは、「だから、どう聞くべきかに注意しなさい」と言われます。
と、言うことは、ともし火が「神の言葉」であり、それを覆い隠すか、人との関わりの中で活かすか否かという話であることがわります。
さらに、このともし火のお話は、「御言葉を私がどう聞くか」ということが、重要なメッセージとして語りかけられているのです。
それは、今日の個所の前にある「種を蒔く人」のたとえから語られていますように、その「種」とは「神の言葉」であると、イエスさまは言われます。
この御言葉の種をまく人は神さまご自身でありますが、そうしてまかれた御言葉の種について、まず、道端に落ちた種は人に踏まれ、鳥に食べられてしまうのですが。
それは、「御言葉を聞くが、信じて救われることがないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去られる人たちのことです。」
次に、石地に落ちた種は芽を出ても水気がないために枯れてしまいますが。
それは、「御言葉を聞いて喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである」ということです。茨の中に落ちた種は、その茨が押しかぶさってしまいます。
それは、「御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟すまでに至らない人たちである」と言うことです。
そして最後の良い地に落ちた種は、生え出て百倍もの実を結ぶものでありますが。それは、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」と言われるのです。ちなみに岩波訳では、「美しい善い心で御言葉を聞き、それを保ち、不屈の中で実を結ぶ者」となっています。そのような者に私共もなっていきたいと願うものでありますが。
さらに続けてイエスさまは、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない。だから、(御言葉を)どう聞くかに注意しなさい」とおっしゃいます。
この隠されてきたこと、秘められたこととは、まさにイエスさまによって顕された神の国、その御救い、福音であります。だからこそ、御言葉をどう聞くかに注意しなさい、とおっしゃるのです。
そうですね。どんなに聖書の言葉を暗唱しても、又知識として細かく知っていたとしても主イエスの福音を聞き取り、自分のこととして受け取らなければ一体何の益があるでしょうか。
以前にお話しましたが、同じルカ10章である律法の専門家がイエスさまを試そうとして、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねます。すると、イエスさまは、「律法に何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われます。彼はそこで、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えます。イエスさまは彼に、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われました。しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とは誰ですか」と言うのです。それを聞いたイエスさまは、「善きサマリア人」の話しをなさるのですが。律法の専門家は、律法をまる暗記するほどの知識を持っていました。確かに彼の答えは正しかったのです。
しかし、彼はイエスさまのもう一つの問いかけである、「あなたはそれをどう読んでいるか。」それをいかに聞き、いかに生きているか?という問いに対して答えられなかったのです。
本日個所に戻りますが。イエスさまは、「どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取りあげられる」と、仰せになります。
近年世界の至るところで、この「持っている人はさらに、持っていない人は持っているものまで」と言う言葉が悲観的に使われているようですが。イエスさまは何も経済至上主義的なことを言っておられるのではありません。
むしろ、そういった風潮を揶揄し、持っている、知っている、わかっている、そこに利があるのか。否、そうではない。「乏しい者は神の祝福に与ることはできない」というような者に対して、今一度御言葉をどう聞くかに注意しなさい、と呼びかけておられるのです。
イエスさまのおっしゃる「持っている人」とは、先に申しました「御言葉」を善い心で聞き、それをよく守り、忍耐して実らせる人のことです
イエスさまとその御言葉に救われ、神の福音に本当のゆたかさを見出す人こそ実は富める者であるのです。
このルカ8章において、イエスさまから話を聞こうと追い求め、集まって来た民衆の一人ひとりが、まさにそうであったのではないでしょうか。
一方で、「持っていない人」とは。せっかく神の御言葉が人となって目の前に現れたのに、自分たちの地位や立場が危うくなるという不安と嫉妬心から福音を拒み、受け入れることが出来なくなっているユダヤの宗教的、政治的地位や力を誇示していた指導者たちのことであったのです。
つまり、イエスさまは「自分たちは富んでいる、ゆたかだ」と思い込んでいる人たちのことを、「持っていない人」だと言っておられるのです。
水曜日の聖書の学び会の折にある方が、「近年耳が聞こえにくくなってきまして、なかなか人の声が聞きとることができないのですが、今日のこのイエスさまのお言葉に、聞く耳を持つことの大切さを強く感じます」と、おっしゃった言葉が心に留まりました。ほんとうですよね。私も何か聞こえることが当たり前のように思っているところがありますが。耳が遠くなられ、なかなか聞き取れなくなった方にとりましては、私よりもずっとずっと人の声に言葉に耳を澄ませて聞こうとされておられることを感じた次第です。そういった姿勢で御言葉を聞いていく者になっていきたいと改めて思わされました。
神の国の福音、その生ける御言葉の光が私たちの日々の生活を照らし出し、証しとなるまでに御言葉に聞き、実を結ぶ人生を送っていきたいと願います。
この福音の喜びを、共に分かち合う者とされてまいりましょう。