礼拝宣教 ルカ12章13-21節
イエスさまの教えを聞くために集まって来ていた群衆の中の一人が、イエスさまに嘆願して言います。「先生、私にも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。
彼は遺産相続の問題で、兄弟が自分に分け前をくれないから何とかしてほしいとイエスさまに訴えます。彼がそのように訴えたのは、当時の裁判や相続分配については、律法学者が主にそれを裁いていたからです。
旧約聖書の申命記やレビ記にある律法に基づく調停がなされていたので、イエスさまなら正しい裁きをして下さるだろう、と訴え出るのです。
それに対してイエスさまは、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言われます。それは一見冷たい答えのように思えますけど、この人の訴えや悩みを拒絶したというのではないのです。
実際に遺産相続の問題はほんとうに深刻で根深いものがあります。肉親という近い間での争いとなりますから、複雑に問題が絡みあい、憎しみや恨み、陰湿さの様相も呈します。そういう中で、この人もいたたまれない思いに苦しみ、イエスさまに何とかしてほしい、とその苦情を訴えたのでしょう。
イエスさまもこの人の怒りや悔しさ、苦悩や痛みをきっと察しておられたことでしょう。
それについては、勿論法的なかたちで律法学者に解決を仰ぐことを否定なさらなかったはずです。ただイエスさまは、ご自身については律法学者のように解決する者ではないとおっしゃっているのです。
ヨハネによる福音書の12章47節を見ますと、イエスさまは「わたしが来たのは世をさばくためではなくこの世を救うためである」と言っておられるとおりです。
また続けてこうおっしゃいます。「父なる神のご命令は永遠の命であることを、わたしは知っている。」
イエスさまは貪欲によって「命」、それも「永遠の命」が損なわれることを問題になさっておられるのです。
そこでこの遺産問題に関わる人だけでなく、その周囲にいた弟子やすべての群衆に対して、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と言われ、「ある金持ち」のたとえ話をなさるのです。
では、16節以降のたとえ話を丁寧に読んでまいりましょう。
「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らした」とあります。
彼は予想もしなかった豊作で、大喜びし、ふっと気づきます。作物を保管する場所がない。それであれやこれやと思い巡らした結果、「やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまおう』」。
この金持ちは大きな倉を新しく建替えることができたくらいですから、一介の農夫ではなかったのでしょう。多くの農夫を雇っていた大地主であったことが想像できます。彼はあり余る程の物をすでに持っていたということです。
ただこの人が残念なのは、「その倉に穀物や財産をみなしまいこんで」、一つ残らず自分の物としたことです。この人の他者との関係性はすでに損なわれているのです。
さらに19節、「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と」。その言葉に、この人の貪欲さがよく表されています。
ここを原文に沿って訳されている改訂版新共同訳聖書で読むと、「自分の魂にこう言ってやるのだ。『魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ』」となっています。
なんとこの人は財産をもっていることで気が大きくなり、自分の魂さえも自分の所有物のように思い違いをし、自分の欲望のみを満たそうとするのです。、
この魂はギリシャ語で「プシュケー」。それは、人が単に肉体的、身体的なものとは異なる霊的な存在であることを示しています。それは、天地万物の創造主であられる神が人をお造りになられたとき、土の塵からできたに過ぎないものに、神ご自身の息をその鼻から吹き入れられることによって、人は生きる者となった、と創世記2章に記されていますが。この神の息がまさに今日のところのギリシャ語で「プシュケー」「魂」なのです。
つまり、人は単に身体的、肉体的なものでなく、命の源であられる神の霊的いのちによって生かされている存在なのです。
ですから、「ある金持ち」のたとえで語られていますのは、単に地上における営みや寿命ではなく、人の本質である「魂」についてであります。それは永遠の命に通じる話ともいえるでしょう。
たとえの方に戻りますが。
先程も申しましたが、この金持ちは穀物や財産をしまいこめる大きな新しい倉を作り、そこに十分蓄えておけば自分の「魂」も同様に満たされ、満足のいく毎日が保証される、と考えました。
富の力は強いものです。いくら自分がそういうものに影響されないと思っていても、いざ財産や富を手にすると、それに捕らわれて人が変わったようになってしまう人もいます。失うのを恐れて家族や近しい人さえも縁を切ってしまう人もいます。
イエスさまに相談しようとしたこの人もそういったうめきがあったのかも知れません。
ここでイエスさまはきっぱりと、「有り余るほどのものを持っていても、人の命は財産や富によってどうすることもできない」とおっしゃいます。
富や財産そのものが悪いわけではありません。管理することも大事でしょう。問題は命の源である神との関係性が損なわれ、ひいては財産争いが生じたごとく人と人との関係性が損なわれてしまうことにもなるのです。
お金の使い方にその人の価値観や人生観が表わされると言われますが。生き生きとした価値ある人生とは、「いくら持っているか」ということにではなく、与えられた恵みに感謝し、それを「どのように用いるか」によって決まるのでしょう。
さて、イエスさまは多くのたとえ話をなさいましたが、その中で神さまが登場して直接お語りになっているのは、このたとえ話だけです。それは、神が直接登場なさるのでなければ言い表すことのできない、重要な事が語られているということです。
その20節のところをここも改訂版の新共同訳聖書でお読みします。
「しかし神はその人に言われた。『愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。』」
ここに、「魂の主人がだれであるのか」ということが語られているのです。
この金持ちは、「自分の魂にこう言ってやるのだ。魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ」と言うのであります。しかし、この魂を司っておられるお方は、唯おひとり、天創万物の創造主であり、すべてのいのちの源であられる神なのです。どんなに富や財産を持っている人も、あるいは、ときの支配者や権力者も、すべての魂は神さまに知られ、神さまが司っておられるのです。人の命も寿命も主なる神さまの領域の事柄であります。
自らの魂を保証したこの金持ちの命、魂は、この主なるお方によってその夜にでも取り上げられてしまう、ということであります。そのことを知らずに富や財産を蓄え、自らを保証しようとするのは、神さまがおっしゃっているように、「愚かな者」だということです。
人の貪欲は決して飽き足りず、満たされることを知りません。
それは魂の平安が損なわれた状態です。
22節以降でイエスさまは、生きるための「いのち」のことについて「何を食べようか、何を着ようかと思い悩むな、煩うな」とおっしゃっています。そして25節で「あなた方のうちで誰が思い悩んだからと言って寿命をわずかでも延ばすことができようか」と、続けておっしゃっています。
たとえの金持ちは豊作による作物に満たされました。それ自体は神さまの祝福といえますが、彼は18節にあるように、その神さまの恵みと祝福である豊作物をはじめ財産を、自分のためだけに大きな倉を建て、そこに「みなしまい」込んだのです。そうして自分のためだけのために使い果たしていこうとしました。さらに、多くの財産を前に自分の命さえ思い通りにできると思い違いをしていたのです。
イエスさまのお言葉で言えば、21節「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならなかった」者であったのです。それは実に残念な人生であり、魂が損なわれた状態であります。
それに対してイエスさまは、「すべての必要をご存じである神に信頼し、唯神の国と神の義を求めて生きる」ように招かれます。そこに命の必要、魂の必要が備えられると言われるのです。
私たちはどうでしょう。もちろん与えられた人生を喜び、楽しんで生きることは良いことであります。お金や財産に限らず、私たちの体、その命さえも、すべては主なる神さまのご支配の中で与えられている神の賜物、恵みです。
その上で私たちにとって何ものにも替えがたい財産。それは、主イエスが十字架の上で勝ち取って下さった「永遠のいのち」です。それは、いのちの源であられる神と結ばれて生きる新しい魂、「プシュケー」であります。私たちはこの神の命に生きるために神に日々招かれているのです。
使徒パウロはフィリピの信徒への手紙3章12節以降でこのように記しています。
「わたしは、既にそれを得たというのではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕えようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕えられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕えたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに前進を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
今週の22日水曜からレント、受難節に入ります。私たちが神の前に豊かな者となるために、主イエスがその命さえ惜しまずお与え下さったことを日々思い起こしつつ、神の前に豊かに歩んでまいりましょう。