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教会設立73年 都会と下町とが交差する大阪のどまん中にある天王寺のキリスト教会 ぜひお立ち寄りください!

「今は見えるということです」

2024-02-11 17:38:55 | メッセージ
礼拝宣教    ヨハネ9章1-41節 

本日は「建国記念の日」、国民の祝日となっていますけれども。以前あるコラムに目が留まったのですが。それは昭和天皇の弟で歴史学者でもあった三笠宮さまがかつて、「紀元節についての私の信念」(文藝春秋昭和59年1月号)の中で、以下のようにお語りになった事が記されていました。
 「日本人である限り、正しい日本の歴史を知ることを喜ばない人はないであろう。紀元節の問題は、すなわち日本の古代史の問題である」「昭和十五年に紀元二千六百年の盛大な祝典を行った日本は、翌年には無謀な太平洋戦争に突入した。すなわち、架空な歴史、それは華やかではあるがそれを信じた人たちは、また勝算なき戦争、大義名分はりっぱであったがそれを始めた人たちでもあったのである」「もちろん私自身も旧陸軍軍人の一人としてこれらのことには大いに責任がある。だからこそ、再び国民をあのような一大惨禍に陥れないように努めることこそ、生き残った旧軍人としての私の、そしてまた今は学者としての責務だと考えている。」
ここまでご自身のことを掘り下げ発せられた言葉には重みがあります。又、古代オリエント学会名誉会長もなさり、歴史への造詣はさすがに優れた方でした。
キリスト教会は2月11日を「信教の自由を守る日」としておぼえ大切にしています。それは憲法が保障する思想信条の自由と政教分離は人間としての存在基盤にかかわる重大な事柄だからです。かつては日本のキリスト教界も国家総動員体制、宗教団体法による統合政策によって戦争に組してきた過ちを、神の前に悔い改め、同じ過ちに陥る事がないようにこの事を覚えて祈る祈念の日であります。
今ヨハネの福音書から御言葉を聞いておりますが、その時代は主イエスを信じる者が激しく迫害されていた時代でした。世の権力が信仰を利用したり、宗教が権力に癒着し神の御心が蔑ろにされていく時代でした。昨今の世界においても権力のもとで思想信条の自由が蔑ろにされています。信教(思想信条)の自由と政教分離が守られていくよう祈り、努めつつ、キリストが指示された平和を求めていくものでありたいと、切に願うものです。

本日は、生まれつき目の見えなかった人がイエスさまと出会うエピソードであります。
当時のユダヤ社会において、肉体的な病気は罪の報いであると考えられていました。イエスさまの弟子たちも同様の考えを持っていたのです。弟子たちは「先生、生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」とイエスさまに尋ねます。
弟子たちはこの目の見えない人の心の苦悩や痛みに目を向けません。ただ自分たちの宗教的関心でその人を観察し、ラビ(先生)「知りたいので教えてください」と言ったのです。
人はいつも何が原因か、又その理由を知りたがります。納得し安心を得たいという思いがあるからでしょう。そこに、目に見えないことに対する不安や恐れを抱えている人間の弱さが垣間見えます。
頭ではいくら迷信だとわかっていたとしても、「たたり」や「因縁」という言葉によるいわれなき差別や偏見に多くの人が苦しめられています。いわゆる因縁トークによって高額なお払いを強いられたり、因縁を絶ち切るために高額なものを買わされて被害に遭う人が後を絶ちません。
そのように人の生まれつきの特性や病気を当人や家族の罪の結果と決めつけることに対して、イエスさまが語られる言葉は明快です。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。」
イエスさまは世に対して、この人も両親も無罪であると宣言されました。このイエスさまのお言葉を、盲人であり物乞いをして生きてきたこの人はいかに聞いたでしょう。当事者、又家族にとってそれはまさに真の解放を告げる主のお言葉です。
イエスさまはさらに驚くべき事を口になさいます。「神の業がこの人に現れるためである」と言われるのです。この「神の業」とは、奇跡やしるしを言っているのではありません。
ヨハネ6章29に次のように記されています。28節から読みます。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」しるしや奇跡を欲しがる人びとに対してイエスさまはきっぱりと、「神がお遣わしになった者を信じる事、これが『神の業』なのです。それはヨハネ3章16節に「神がお遣わしになった独り子(御子)を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあるように、そのイエスさまを救いと解放の主と信じること、それが「神の業」であるのです。

さて、イエスさまは唾で土をこね、目の見えない人の眼に塗って、言われます。
「シロアムの池に行って洗いなさい。」
彼がイエスさまの言葉を聞いて従い、そのとおりに洗うと、目が見えるようになります。
弟子たちは、この人がなぜ生まれつき目が見えないかということに関心をもちますが、この人の苦悩や救われたいという切なる思いに寄り添うことはありませんでした。無関心でした。
一方イエスさまは、その彼を一人の大切な存在として向き合い、ずっと関わり続けられます。彼の心もそのイエスさまの前に次第に開かれていくのです。
ヨハネ1章9節にあるとおり「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのです。」
イエスさまはこの人の心を覆っていた闇までも、救いと解放の光で照らし出されるのです。

この眼が開かれた人がシロアムの池から帰ってきました。
彼を見た近所の人びとや彼が物乞いであったのを前に見ていた人びとが、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と聞くと、彼は「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、シロアムに行って洗いなさいと言われたので、そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」と答えます。彼はイエスさまが自分にしてくださったことをあかししました。
すると、人びとは彼をユダヤの指導者であったファリサイ派の人々のところへ連れて行きました。
そこでも、ユダヤ指導者たちから「どうして、見えるようになったのか」と彼に尋ねます。
ここでも彼は、前に近所の人びとに答えたように「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです」と、イエスさまがなしてくださったことをあかしします。

13節以降には、イエスさまがいやされたのが安息日であったという事を知ったユダヤのファリサイ派指導者たちが出てまいります。彼らはイエスさまの行為が労働や働きであり、安息日には何の仕事もしてはならないという律法に違反する行為にあたると判断し、彼を尋問し始めるのです。
そして、「一体、おまえはあの人をどう思うのか」と問うのです。
その問いかけに対して彼は、「あの方は預言者です」と答えます。
ユダヤの指導者たちは、それでも彼が盲人であったのに見えるようになったことを信じません。
とうとう彼の両親まで呼び出して尋問するのです。
両親は息子を前にして、生まれつき目が見えなかったことを証言しますが、「どうして今見えるようになったかわたしどもにはわかりません」と答えました。両親はおそらくイエスさまがおいやしになったことを本人から聞いていたのでしょう。しかしそれを話そうとはしません。「息子は大人ですから本人に直接聞いてください」と答えます。それは、イエスを神から遣わされたお方である、と認めれば厳しく咎められると知っていたからです。
21節に「ユダヤ指導者たちは既に、イエスをメシア(救い主)であると公に言い表わす者がいれば、会堂から閉め出すと決めていたのである」とあるように、主イエスを信じる者に対する激しい迫害はユダヤの社会で暮らしていくことができなくなり、そのコミュニティを失うことを意味していたのです。

ユダヤの指導者たちは再び彼を呼び出して尋問します。
「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
ユダヤ指導者たちの狙いは、彼から主イエスへの信仰を奪い取ることでした。
すると彼ははっきりと答えます。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
彼は自分が実際に経験した事実を事実として述べたのです。彼は、かつては見えなかったが、今は見えている、ということを真っ直ぐに証言したのです。
にもかかわらず、ユダヤの指導者たちは「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか」と同じ事を問い続けるのです。
彼はさすがにここで「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と、痛烈な言葉を彼らに返します。
この言葉を聞いたユダヤの指導者たちはイエスに対する妬みの念をこめて、「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語ったことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない」と、自己正当化し面目を保とうとします。

それに対して彼は答えます。「あの方がどこから来られたのか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。」
いつもはユダヤの指導者たちが人びとに教えていた言葉を、彼は何とも皮肉たっぷりに彼らに投げ返すのです。
彼はさらに「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と正々堂々と証言します。
彼の見えなかった心の目が開かれ、まことの世の光であるイエス・キリストを彼はまさに見出したのです。彼は目が見えるようになって待望のユダヤ会堂に入ることができました。そしてその時、多くのユダヤ人たちの前で、「わたしの目を開かれたのは、神のもとから来られたお方です」と、自分の信じているところに立ち恐れず、はっきりと言い表したのです。これこそ信仰の告白であり、あかしであります。

それらの事を見聞きしていたユダヤの指導者たちは、「お前はまったく罪の報いとして生まれたのに、我々にあつかましくも教えようというのか」と、ののしってユダヤの会堂から追い出しました。
イエスさまは、その彼を再び訪ね、出会われるのです。
そして彼に、「あなたは人の子を信じるか」と問いかけます。
「主よ、信じます」と、彼はイエスさまを救い主として受け入れました。
「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

イエスさまはおっしゃいました。
39節「わたしが世に来たのは裁くためである。こうして見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。
イエスさまはすべてを照らす光として世に来られました。暗闇も真理である主の前では闇とは言えず、すべてが明るみにされるのです。それでもなお自己正当化し続け、主の救いと解放の業を拒むなら「罪は残る」(41節)。主のみ業を信じ、喜びと感謝に満たされ、主の救いに与っている者として光りのうちを歩んでまいりましょう。
最後に、イギリスのジョン ニュートン牧師が作った詩がもとになったAmazing Graceの原訳に沿った邦訳の詩を読んで、「Amazing Grace」をもって主を賛美したいと思います。
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