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主イエスの復活を信じて

2024-02-26 11:02:35 | メッセージ
礼拝宣教    ヨハネ11章1-44節 
 
本日は、わたしたちの人生は「死で終わるものではない。」この救いの真実を、ラザロの死とよみがえりの記事を通して確認してまいりたいと思います。

今日登場いたしますベタニア村の兄弟たちは両親を早いうちに亡くしたのでしょうか。3人で寄り添うように生活をしていました。そういう中でイエスさまと出会った彼らは、イエスさま一行を家に招いて迎えます。食事でもてなそうととするマルタとイエスさまのお話を真ん前で聞いていたマリアのエピソードはよく知られておりますが。今日の箇所のすぐ後の12章はイエスさまが十字架におかかりになる6日前ですが、その時にもイエスさまはベタニア村に行かれ3人のもてなしをお受けになられています。そのように今日の11章5節にあるとおり、イエスさまはマルタとマリアとラザロを大変いつくしまれ、愛しておられたのであります。

そうした3人のうちのラザロが重い病気にかかり重篤になります。姉妹たちはイエスさまに使いを送り知らせるのでありますが、イエスさまは「なおも二日間同じ所に滞在された」というのです。弟子たちはイエスさまがラザロもその姉妹も愛しておられたことを知っていました。けれどラザロの住むユダヤに行くのは大変危険なことだとわかっていました。なぜならイエスさまは反対する者らから命を狙われていたからです。弟子たちも又、心配や不安の緊張感を持っていました。
そのようにこのラザロの出来事はいよいよイエスさまが十字架の道へ向かわれるその過程にあって起ったのです。イエスさまはこの事を通して、弟子たちにご自身を信じるようになることを強く願っておられたのです。

イエスさまは4節「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と謎めいたことをおっしゃっています。
これからラザロの上に起こる出来事が、「神の栄光のためであり、神の子が栄光を受けるためのものだ」と言われるのです。ラザロの上に起こる事とはなんでしょう?
それは「死」と「復活」です。
実はこのラザロの死、さらに死からのよみがえりは、迫りくるイエスさまご自身の十字架の死、そして復活を指し示す「しるし」なのです。

弟子たちはこの後イエスさまのむごたらしい死に直面することになります。イエスさまは彼らがどれほどの深い絶望感に襲われることになるかご存じでした。だからこそ、ラザロを通して「それは死で終わるものではない」こと。その出来事が「神の栄光のためであり、神の子が栄光を受けるため」のものだと、いわば宣言しておられるのです。
この出来事の目的は、奇跡現象にあるのではありません。イエスさまご自身の死と復活によって信じる者に与えられる救い、その神の栄光とイエスさまの神の子としての栄光が顕される。そこにイエスさまの目的があったのです。

さて、17節以降のところで、イエスさまがベタ二アに到着されたことを聞いたマルタは、イエスさまをすぐに迎えに行きます。
マルタはイエスさまに会うと、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、その心の思いのままを口にします。イエスさまには病人をいやす力があるとマルタは知っていたので、ラザロが生きている間にイエスさまが来られなかったことが残念でならなかったのです。妹のマリアも、イエスさまを見ると足元にひれ伏して、「主よ、もしあなたがここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(32)と嘆くのです。

マルタはそれでもしぼり出すようにして、「しかし、あなたが神にお願いなることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」というのです。
それをお聞きになったイエスさまはマルタに、「あなたの兄弟は復活する」(23)と言われました。
するとマルタは、「終りの日に復活することは存じております」と答えます。
それはユダヤの人々の間にある一般的な復活についての言い伝えをおっしゃったのではありません。

イエスさまは言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(26)
イエスさまは、「わたしこそが復活であり、命でさる」と力強く宣言なさいます。それは神の権能による宣言であります。そして、「あなたはこのことを信じるか」と問いかけられるのです。

「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
わたしどもの肉体は朽ちても、復活のキリストに結ばれる「命」は、死で、滅びに終わることはないのです。それはキリストを信じる私たちがキリストの十字架のあがないを受け、復活のキリストの命を受けているからです。
「生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない」というお言葉も同様です。復活のキリストにつながっているのなら、肉体の死はもはや死ではなく永遠の命にすでに入れられているのです。弟子たちにも、わたしたち一人ひとりにも「このことを信じるか」と問われているのです。
この問いかけは、人や世間がどうかということではなく、あなたはどうなのか。あなたはわたしが復活であり、命であると信じるのかと直接一人ひとりに向けらているです。
マルタはそのイエスさまの問いかけに対して、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(27)と答えました。

けれども彼女はその後で、そのまさに復活の主であるイエスさまご自身がラザロの墓の「石を取りのけなさい」(39)と仰せになった時、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」(39)と答えたのです。
彼女はイエスさまに信じますと言いましたが、その後もそのように信仰は揺れ動くのです。

そのマルタに対してイエスさまははっきりと言われます。
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか。」(40)
この後、イエスさまによって御父である神さまに願いが聞き入れられたという感謝の祈りがささげられます。それはマルタが言うように。「イエスさまが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださる」という確信に満ちた祈りでした。そしてそのように祈られたのは、弟子たちをはじめ、周りにいる群衆のためです。「神よ、あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」(42)とおっしゃるのです。

イエスさまは「ラザロ、出て来なさい」(43)と大声で叫ばれます。
すると完全に死んでいたラザロが「手と足を布で巻かれたまま出て来た」(44)のです。
死で終らないと仰せになったイエスさまは彼に命を与えられ、神の子としての栄光を顕されるのです。
ラザロのよみがえりはイエスさまご自身の復活であり、命であることの証明となったのです。
主イエス・キリストを信じる者に永遠の命を約束する良き知らせ、これこそが福音であります。
この福音、キリストによる命の法則が2000年余のときを経た今日も聖霊のお働きを通して私たちの間で生き生きと輝き働いているのです。
このイエスさまを通して行われたラザロのよみがえりに、マルタがどのような反応をしたかは何も書かれていませんが。きっとイエスさまと出会い直しをしたマルタがいたのではないでしょうか。

祈祷会の時、ある姉妹が年の瀬に近しい方を突然亡くし、悲しみと不安で心が渇ききって何もする気が起らなかったそうです。それから数日後にOさんが天に召され気持ちも重たいまま告別式に出席されたとき、なぜか自分自身が信仰によって生かされているという思いと不思議と気持ちが静まり、落ち着いた気持ちにされていく経験をすることができた。ヘブライ人への手紙11章1節にある「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」と御言葉を知ることができた。長い信仰生活を送って来たが、自分は一体何をしていたのだろうと思うほど気持ちが新しくされる、まさにイエスさまとの出会い直しのお証しくださいました。
その喜びの賛美は、今日の「もし信じるなら、神の栄光を見る」とおっしゃる主イエスへの確かな応答であるでしょう。
私たちの罪を担い、十字架にかかってあがない、私たちを滅びから救い出して下さる主イエス・キリスト。このお方のよみがえりの命に日々与り、永遠の命の光の中を歩み通してまいりましょう。
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