礼拝宣教 創世記1章1節~2章4節前半
「お帰りなさい」。
昨日は、ベルフィリアのコンサートが行われ、教会堂に入りきれないほどの140名以上の参加者はいたかと思いますが、本当に素晴らしい時となりました。この日もそれぞれ異なる大きさのベルをベルリンガーが使いこなしながら、それが一つのチームを構成し、見事なハーモニーの美しい調べにただ感動させられました。
又、私は先月からJR西日本あんしん社会財団(宝塚脱線事故の後にできた財団)が主催します「いのちを考える」というテーマで6回の連続講座に聴講にいっておりますが。先回はその3回目の講座で、クリスチャンドクターで、金城学院大学院長、淀川キリスト教病院理事長の柏木哲夫先生からお話を聞く機会がありました。そのご講演で、心に残りましたのは、「使命」とは読んで字のごとく「命を使う」という意味であり。運命とは、命を運ぶという意味であるという言葉でした。私たちは使命や運命ということを言いますが、人にはそれぞれの使命がありますが。何のために命を使っているのか、ということを改めて考えさせさせられました。又、運命については、聖書のイザヤ書46章中に「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い(持ち運び)、救い出す」という御言葉から、神さまが究極のところで私たち一人ひとりを持ち運んでくださる、という真理について触れられたお話に感銘を受けました。
さて、本日の礼拝より少し長いですが9月末まで、創世記をゆっくり読んでいきます。
今日はその初めの1章~2章4節の天地創造の記事から、「見よ、それは極めて良かった」というテーマで、御言葉に聞いていきたいと思います。
この「見よ、それは極めて良かった」という言葉は、記憶にある方もおられるでしょう、
私ども大阪教会の献堂感謝式にご出席下さった方々に、感謝の思いを込めて「どらやき」をプレゼントしましたが、そのどらやきに焼印されていた言葉です。くすしき主の御業が働いて神さまによって完成された新会堂であります。神ご自身が、この御手の業を御覧になって、「見よ、それは極めて良し」とおっしゃっているのではないかと、この御言葉を選ばせて頂きました。その祝福に応え、これからもこの会堂を通して行われる礼拝、諸集会をもって、主の呼びかけに応える歩みを続けてまいりたいと願っております。
まず、この創世記について常に問題になりますのは、人類はサルから進化したという進化論との対比や歴史年代との矛盾についてであります。しかし、そういう観点から創世記は編纂されたものではないということを始めにおさえておくことが肝心であります。
この創世記が記されたのは、紀元前6世紀頃のイスラエルの民がバビロニアの捕囚とされていた時代です。捕囚として異教の地に生活を余儀なくされていた彼らは、ある意味敗北感と絶望的状況において、「私たちの神はなお生きて働かれるお方、共におられるお方である」ということを確認していく必要がありました。神は虚しい偶像や木、石といったものに宿られるのではなく、ご自身がお造りになられた者たちに深い愛のまなざしを注ぎ、祝福をしてくださるお方である。そのような信仰の再確認をしていく必要があったのです。そこで、それまでは口伝で語り継がれてきた民の歴史を書きものに綴っていったわけであります。その一つが、創世記なのであります。
バビロニアの神ならざるものが神として君臨し、世の権威が横暴をきわめる暗黒と混沌とした時代の只中で、「光あれ」との神の御声は、どれほど彼らを勇気づけたことでしょうか。天地万物の神、すべてを治めておられる神への信仰を再確認していくことは、イスラエルの民にとって、その存在の根拠を見出すに等しいことだったのです。
ですから、この箇所から進化論やあるいは宇宙の起源と対比させて論じることは的外れなことでありますし、そもそも人類の叡智をいくら集めたところで、この世界の起源の本当のところなど解明できるものではないでしょう。せいぜい分かる事と言えば、この世界には必ず「初めのときがあり、終わりのときがある」ということです。
創世記は単にバビロ二アの捕囚民だけのためにあるのではなく、今私たちが生きている終末ともいえますこの現代においても、闇を照らす「光」であり、神の御手の業を指し示す希望といのちのメッセージなのであります。
さて、本日の「見よ、それは極めて良かった」というテーマですが。
天地創造の神は、6日間創造の業をなさるのでありますが。その1日ごとに、それらの創造されたものを「見て、良し」とされたとございます。そして、いよいよ6日間の創造の業を終えられた時に、「神はお造りになったすべてのものを御覧になって、『見よ、それは極めて良かった』とおっしゃっているのです。「見よ、それは極めて良かった。」
1日目から6日目までにお造りになったものは、それぞれに良いものでありましたが、それらすべてを見わたされた時、「それは、極めて良かった」とおっしゃるのです。
空も海も山々も、またあらゆる動植物もそれぞれに良い。けれど、それらすべてが有機的に結び合わされた様子を御覧になって、心の底からといいますか、天地万物の造り主であられる神はそのことを喜ばれ、それを大いに満足されたというのであります。この「極めて良い」という原語は、「美しい」と感嘆されたという意味をもっております。先にハンドベルコンサートでのハーモニーの調べの美しさに感動した、と申しましたが。
この世界に存在するあらゆるいのちは、神がお造りになられた他のいのちや被造物と結びつき、つながるなかで互いに生き、生かされているといえるでしょう。生態系という言葉がありますように、この世界は神さまがお造りになったもの同志がつながり合って生かされているのです。「見よ、それは極めて良かった。」ここには、「見よ」と促す言葉がありますが。私たちが神のお造りになった大自然と生き物たちのいのちの営みを見る時にどうでしょう。それは時に感動を与えるほど美しく壮大で、まさに神の御手の働きが思い起こされるのであります。しかし、その神がお造りになった生態系の調和が崩れていきますと、自然界、動物界、そして人間にも異変が起こり、個々のいのちを脅かす事態になりかねません。
そこで、今日特に私どもが聞く必要がありますことは、神さまが6日目に「人」を創造された箇所に語られるメッセージであります。
27節で「神は、ご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」とあります。
この地上にあって人は何と、神の似姿として造られ、生かされている存在であるのです。神は一人の人間を本当にかけがえのない存在としてお造りになられたのであります。それは誰一人として世界に自分と同じ人間が存在しないというオリジナルの存在、オンリーワンとして人を造られたのであります。どんなに似ていたとしても、どんなに近い血縁関係であっても「私」と同じ人はどこにもいません。世界中どこを探しても私という人間は私唯一人、オンリーワンの存在なのです。
そのように一人ひとりが「神の似姿」というかけがえのない存在として神が造られた。そのことが、26節の「我々にかたどり、我々に似せて」の「我々」という言葉に込められているのだ、という神学者もいるくらいです。それほどまでに、人間の一人ひとりは尊く造られているということであります。それはすなわち、神のご性質がさまざまな特性をもって私ども一人ひとりに注がれている。神の作品として私ども一人ひとりが神のご意志をもって生きる者とされているのであります。
ところで、聖書の神は唯一なる神であられますが。聖書で神が我々とおっしゃる時、それは神の三位一体のご性質、「父なる神、御子イエス、聖霊なる神」として臨んでおられることを顕わします。それをたとえるなら、水は液体ですが、個体になれば氷になり、液体になれば水蒸気として存在するように、三位一体として、私たち人間一人ひとりと関わってくださるお方なのであります。
新約聖書のフィリピ2章6節以降に次のように記されています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間の姿で現れ、、、」とございます。
キリストはお一人ですが、キリストは神の身分であるにも拘わらず、私ども人間一人ひとりの姿となって現れなさった、というのです。それは、キリストがその一人ひとりのためにご自身を与え尽くされたということでもあります。それほどに私ども一人ひとりは、神にとってかけがえのない存在として造られ、生かされ、愛されている存在であるのです。イザヤ書43章に「わたしの目にあなたは価高く、貴い」という御言葉がありますが、私どもは神の似姿としてかけがいのない一人ひとりであるのです。
もう一つ。27節には、神の似姿として「男と女に創造された」とございます。
ここで大事なのは、神が「違いもったもの」を敢えて造られ、その違いのゆえに互いを補完し合い、助け合うパートナーとされたということです。人間同志も共に生きる存在として造られたことを互いに認め合うところに神の祝福は臨むのであります。
28節「産めよ、増えよ、地に満ちて地に従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべて支配せよ。」
ここで注目しますことは、5日目まで神はその造られたものに対して語りかけることをなさいませんでしたが、この6日目の人の創造に際して、神は初めて直接彼らにとか、あなたがたに、と語りかけ、祝福していらっしゃるのです。
神はその人間に向けて、「お造りになった自然界の生き物、動物をすべて支配せよ」とお命じになります。しかし、この「支配せよ」という意味は、権力でもって搾取し、その立場を濫用していくことではありません。如何にこの世界において人間はその言葉を過って用い、世の権力や地位による搾取や濫用が繰り返されていることでしょうか。それは創造の神への反逆の罪ということができます。
神はお造りなられたすべての生き物本来の在り方を、人が保ち、守って治めていくことを期待しつつ、「見よ、それは極めて良かった」と言われます。この地球と世界に及ぶ神の秩序が保たれ、損なわれる事がないよう人間にその働きを託しておられるのです。
神はさらに次のように呼びかけます。
29節「見よ、全地に生える、種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物になる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべていのちあるものはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
神は、このような創造世界のなりゆきとその完成を御覧になり、「見よ、それは極めて良かった」と大いにほめたたえるのです。良かったというのは、単に良いと言うこと以上に、美しい、神御自身が心の底から感動なさり、大満足なさったという事であります。
私たち一人ひとりは神のかけがえのない作品としてこの地上にあって生かされています。それは又、同様に神の創造の業である他の存在を生かし、それらと共に生きるように招かれているということでもあります。そこに神さまが私ども人間の大きな使命があるといえます。創造の神の祝福と喜びがそこに今も満ち溢れるのです。
2章2節以降で、第7日に「神は御自分の仕事を完成され、「安息」なさった」とあります。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第7の日を神は祝福し、聖別された」とございます。「安息日」はもともと「休息の日」でありました。
私たちにとっても、本当の意味での安息日はあるでしょうか。人は体を休めることだけで真の安息を得ることはできません。主の日は、これを「いのちの始りの日」としておぼえ、すべての世の束縛からの解放と自由、救いが与えられていることを、礼拝を通して確認し、神の安息に与る恵みと喜びを他者と共に分かち合うのです。そこに、創造の神さまの祝福があり、真の平安があると信じるからであります。
本日は創世記1章の天地創造の記事から、神さまが私たちに向けて語りかけているメッセージを聞いてきました。この後、主の晩餐が行われますが。すべての「いのち」の源であられる神さまが、私たちを神の子としてくださるために払われたその尊いいのちの対価を心に刻みつつ、神からいただいているいのちに感謝しながら、神のご用のために勤しんでまいりたいと願い、祈ります。
「お帰りなさい」。
昨日は、ベルフィリアのコンサートが行われ、教会堂に入りきれないほどの140名以上の参加者はいたかと思いますが、本当に素晴らしい時となりました。この日もそれぞれ異なる大きさのベルをベルリンガーが使いこなしながら、それが一つのチームを構成し、見事なハーモニーの美しい調べにただ感動させられました。
又、私は先月からJR西日本あんしん社会財団(宝塚脱線事故の後にできた財団)が主催します「いのちを考える」というテーマで6回の連続講座に聴講にいっておりますが。先回はその3回目の講座で、クリスチャンドクターで、金城学院大学院長、淀川キリスト教病院理事長の柏木哲夫先生からお話を聞く機会がありました。そのご講演で、心に残りましたのは、「使命」とは読んで字のごとく「命を使う」という意味であり。運命とは、命を運ぶという意味であるという言葉でした。私たちは使命や運命ということを言いますが、人にはそれぞれの使命がありますが。何のために命を使っているのか、ということを改めて考えさせさせられました。又、運命については、聖書のイザヤ書46章中に「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い(持ち運び)、救い出す」という御言葉から、神さまが究極のところで私たち一人ひとりを持ち運んでくださる、という真理について触れられたお話に感銘を受けました。
さて、本日の礼拝より少し長いですが9月末まで、創世記をゆっくり読んでいきます。
今日はその初めの1章~2章4節の天地創造の記事から、「見よ、それは極めて良かった」というテーマで、御言葉に聞いていきたいと思います。
この「見よ、それは極めて良かった」という言葉は、記憶にある方もおられるでしょう、
私ども大阪教会の献堂感謝式にご出席下さった方々に、感謝の思いを込めて「どらやき」をプレゼントしましたが、そのどらやきに焼印されていた言葉です。くすしき主の御業が働いて神さまによって完成された新会堂であります。神ご自身が、この御手の業を御覧になって、「見よ、それは極めて良し」とおっしゃっているのではないかと、この御言葉を選ばせて頂きました。その祝福に応え、これからもこの会堂を通して行われる礼拝、諸集会をもって、主の呼びかけに応える歩みを続けてまいりたいと願っております。
まず、この創世記について常に問題になりますのは、人類はサルから進化したという進化論との対比や歴史年代との矛盾についてであります。しかし、そういう観点から創世記は編纂されたものではないということを始めにおさえておくことが肝心であります。
この創世記が記されたのは、紀元前6世紀頃のイスラエルの民がバビロニアの捕囚とされていた時代です。捕囚として異教の地に生活を余儀なくされていた彼らは、ある意味敗北感と絶望的状況において、「私たちの神はなお生きて働かれるお方、共におられるお方である」ということを確認していく必要がありました。神は虚しい偶像や木、石といったものに宿られるのではなく、ご自身がお造りになられた者たちに深い愛のまなざしを注ぎ、祝福をしてくださるお方である。そのような信仰の再確認をしていく必要があったのです。そこで、それまでは口伝で語り継がれてきた民の歴史を書きものに綴っていったわけであります。その一つが、創世記なのであります。
バビロニアの神ならざるものが神として君臨し、世の権威が横暴をきわめる暗黒と混沌とした時代の只中で、「光あれ」との神の御声は、どれほど彼らを勇気づけたことでしょうか。天地万物の神、すべてを治めておられる神への信仰を再確認していくことは、イスラエルの民にとって、その存在の根拠を見出すに等しいことだったのです。
ですから、この箇所から進化論やあるいは宇宙の起源と対比させて論じることは的外れなことでありますし、そもそも人類の叡智をいくら集めたところで、この世界の起源の本当のところなど解明できるものではないでしょう。せいぜい分かる事と言えば、この世界には必ず「初めのときがあり、終わりのときがある」ということです。
創世記は単にバビロ二アの捕囚民だけのためにあるのではなく、今私たちが生きている終末ともいえますこの現代においても、闇を照らす「光」であり、神の御手の業を指し示す希望といのちのメッセージなのであります。
さて、本日の「見よ、それは極めて良かった」というテーマですが。
天地創造の神は、6日間創造の業をなさるのでありますが。その1日ごとに、それらの創造されたものを「見て、良し」とされたとございます。そして、いよいよ6日間の創造の業を終えられた時に、「神はお造りになったすべてのものを御覧になって、『見よ、それは極めて良かった』とおっしゃっているのです。「見よ、それは極めて良かった。」
1日目から6日目までにお造りになったものは、それぞれに良いものでありましたが、それらすべてを見わたされた時、「それは、極めて良かった」とおっしゃるのです。
空も海も山々も、またあらゆる動植物もそれぞれに良い。けれど、それらすべてが有機的に結び合わされた様子を御覧になって、心の底からといいますか、天地万物の造り主であられる神はそのことを喜ばれ、それを大いに満足されたというのであります。この「極めて良い」という原語は、「美しい」と感嘆されたという意味をもっております。先にハンドベルコンサートでのハーモニーの調べの美しさに感動した、と申しましたが。
この世界に存在するあらゆるいのちは、神がお造りになられた他のいのちや被造物と結びつき、つながるなかで互いに生き、生かされているといえるでしょう。生態系という言葉がありますように、この世界は神さまがお造りになったもの同志がつながり合って生かされているのです。「見よ、それは極めて良かった。」ここには、「見よ」と促す言葉がありますが。私たちが神のお造りになった大自然と生き物たちのいのちの営みを見る時にどうでしょう。それは時に感動を与えるほど美しく壮大で、まさに神の御手の働きが思い起こされるのであります。しかし、その神がお造りになった生態系の調和が崩れていきますと、自然界、動物界、そして人間にも異変が起こり、個々のいのちを脅かす事態になりかねません。
そこで、今日特に私どもが聞く必要がありますことは、神さまが6日目に「人」を創造された箇所に語られるメッセージであります。
27節で「神は、ご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」とあります。
この地上にあって人は何と、神の似姿として造られ、生かされている存在であるのです。神は一人の人間を本当にかけがえのない存在としてお造りになられたのであります。それは誰一人として世界に自分と同じ人間が存在しないというオリジナルの存在、オンリーワンとして人を造られたのであります。どんなに似ていたとしても、どんなに近い血縁関係であっても「私」と同じ人はどこにもいません。世界中どこを探しても私という人間は私唯一人、オンリーワンの存在なのです。
そのように一人ひとりが「神の似姿」というかけがえのない存在として神が造られた。そのことが、26節の「我々にかたどり、我々に似せて」の「我々」という言葉に込められているのだ、という神学者もいるくらいです。それほどまでに、人間の一人ひとりは尊く造られているということであります。それはすなわち、神のご性質がさまざまな特性をもって私ども一人ひとりに注がれている。神の作品として私ども一人ひとりが神のご意志をもって生きる者とされているのであります。
ところで、聖書の神は唯一なる神であられますが。聖書で神が我々とおっしゃる時、それは神の三位一体のご性質、「父なる神、御子イエス、聖霊なる神」として臨んでおられることを顕わします。それをたとえるなら、水は液体ですが、個体になれば氷になり、液体になれば水蒸気として存在するように、三位一体として、私たち人間一人ひとりと関わってくださるお方なのであります。
新約聖書のフィリピ2章6節以降に次のように記されています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間の姿で現れ、、、」とございます。
キリストはお一人ですが、キリストは神の身分であるにも拘わらず、私ども人間一人ひとりの姿となって現れなさった、というのです。それは、キリストがその一人ひとりのためにご自身を与え尽くされたということでもあります。それほどに私ども一人ひとりは、神にとってかけがえのない存在として造られ、生かされ、愛されている存在であるのです。イザヤ書43章に「わたしの目にあなたは価高く、貴い」という御言葉がありますが、私どもは神の似姿としてかけがいのない一人ひとりであるのです。
もう一つ。27節には、神の似姿として「男と女に創造された」とございます。
ここで大事なのは、神が「違いもったもの」を敢えて造られ、その違いのゆえに互いを補完し合い、助け合うパートナーとされたということです。人間同志も共に生きる存在として造られたことを互いに認め合うところに神の祝福は臨むのであります。
28節「産めよ、増えよ、地に満ちて地に従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべて支配せよ。」
ここで注目しますことは、5日目まで神はその造られたものに対して語りかけることをなさいませんでしたが、この6日目の人の創造に際して、神は初めて直接彼らにとか、あなたがたに、と語りかけ、祝福していらっしゃるのです。
神はその人間に向けて、「お造りになった自然界の生き物、動物をすべて支配せよ」とお命じになります。しかし、この「支配せよ」という意味は、権力でもって搾取し、その立場を濫用していくことではありません。如何にこの世界において人間はその言葉を過って用い、世の権力や地位による搾取や濫用が繰り返されていることでしょうか。それは創造の神への反逆の罪ということができます。
神はお造りなられたすべての生き物本来の在り方を、人が保ち、守って治めていくことを期待しつつ、「見よ、それは極めて良かった」と言われます。この地球と世界に及ぶ神の秩序が保たれ、損なわれる事がないよう人間にその働きを託しておられるのです。
神はさらに次のように呼びかけます。
29節「見よ、全地に生える、種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物になる。地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべていのちあるものはあらゆる青草を食べさせよう。」そのようになった。
神は、このような創造世界のなりゆきとその完成を御覧になり、「見よ、それは極めて良かった」と大いにほめたたえるのです。良かったというのは、単に良いと言うこと以上に、美しい、神御自身が心の底から感動なさり、大満足なさったという事であります。
私たち一人ひとりは神のかけがえのない作品としてこの地上にあって生かされています。それは又、同様に神の創造の業である他の存在を生かし、それらと共に生きるように招かれているということでもあります。そこに神さまが私ども人間の大きな使命があるといえます。創造の神の祝福と喜びがそこに今も満ち溢れるのです。
2章2節以降で、第7日に「神は御自分の仕事を完成され、「安息」なさった」とあります。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第7の日を神は祝福し、聖別された」とございます。「安息日」はもともと「休息の日」でありました。
私たちにとっても、本当の意味での安息日はあるでしょうか。人は体を休めることだけで真の安息を得ることはできません。主の日は、これを「いのちの始りの日」としておぼえ、すべての世の束縛からの解放と自由、救いが与えられていることを、礼拝を通して確認し、神の安息に与る恵みと喜びを他者と共に分かち合うのです。そこに、創造の神さまの祝福があり、真の平安があると信じるからであります。
本日は創世記1章の天地創造の記事から、神さまが私たちに向けて語りかけているメッセージを聞いてきました。この後、主の晩餐が行われますが。すべての「いのち」の源であられる神さまが、私たちを神の子としてくださるために払われたその尊いいのちの対価を心に刻みつつ、神からいただいているいのちに感謝しながら、神のご用のために勤しんでまいりたいと願い、祈ります。