主日礼拝宣教 創世記3章1~24節
先週はエデンの園において、人であるアダムを「助ける者」として、そのあばら骨の一部から女が造られたこと。そして、互いに助け合うパートナーとされた彼らの喜びと祝福を御言葉から聞くことがでました。さらに私たちはそこからイエス・キリストにより主にある霊的交わりに招かれた互いを喜び、祝福する者、祈り執り成し助ける者とされていることを覚えました。そこに私たちのエデンの園(パラダイス)が開かれているのです。
さて、3章に入りますと、二人は神の戒めに背き罪を犯す事になるのであります。今日の個所を読みますと、二人が神に対して罪を犯していくことに大きな影響を及ぼしたのは、蛇であったとあります。この蛇は野の生き物のうちで最も賢く、女を罪へといざなったというのです。
この蛇とは一体何ものなのでしょうか?蛇は神の造られた生き物にすぎません。これは一つの象徴です。それをサタンという人もいるでしょう。まあ、自分と対立し、意見の合わない人を対話も深めることなくあたかもサタンで呼ばわりして裁き、排除するような紛争や分裂が残念ながら社会的な風潮として強まってきているように思えますが。この蛇に象徴される力とは、神の御心に逆らって生きるように目論み誘い、神との関係を引き裂こうとする悪意ということができます。又、人が自らを神であるがごとく思い高ぶるようそそのかして滅びるように仕向ける働きともいえます。
本日の箇所を読んでまず頭に浮かびますのは、「欲」という一文字であります。
「欲」を広辞苑で引きますと、第一に「ほっとすること」「願うこと」とありました。意外でした。欲という漢字の左の谷は「穀物」を表し、右の欠は「口」を開くとの意味があって、つまり本来は「穀物を食べる」という意味だそうです。これも意外でした。欲というのは人間が生来生きる上で願っていること、ほっとすることであるのです。しかし、それがその与えられた豊かな恵みに感謝することを忘れ不満をつのらせ、飽くなき満足を追い求めていくときに、欲望という泥沼にはまって罪を犯すようなことになっていくのですね。
主なる神はかつて人に命じて言われました。2章16節「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう。」
ところが蛇は女に言います。4節「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる。」
6節「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」とあります。アダムは何と簡単に女の言うとおりにしたものですよね。
この時、アダムと女は、エデンの園において死もなく、神の完全な守りと平安の中で過ごすことができていた。そこには食べて余りある食糧もあり、人として何不自由なく生きる世界があった。なのに、なぜ彼らは蛇の誘いに乗ってしまったのでしょう。
人は何もかも満たされ、整った環境を与えられ、受けるばかりの中に置かれてしまいますと、その尊い恩恵が神からのものであり、神の賜物による恵みであることを忘れ、気づかなくなってしまうのです。そうして恵みに満ちた日々は平凡で飽きたりた毎日となり、感謝なき心はやがて今あるものでは満足できない、というような不満をつのらせていきます。そして遂に魔が差すというようなことが起こり得るのです。こうして人は神が「これを食べたら死んでしまう」と忠告なさったものにまで手を伸ばすことになってしまうのです。そのようなことを思いますと、人は本当に弱く、もろいものだと言わざるを得ません。
さて、この善悪の知識の木から取ってその実を食べたアダムとその女は、7節「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」とあります。
2章に、二人は裸であったが「恥ずかしがりはしなかった」とありましたが、ここで「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせて、腰を覆うものとした」と、それは二人の目が開いたことで、互いの心のうちに「恥ずかしい」という意識が生じたということです。
「恥ずかしい」という意味にはいくつかあります。この箇所では「自らをやましく感じること」又、「過ちや罪などを意識して面目ないと思う」そのような感情が起こってきたということです。彼らのうちに罪の自覚が生じ、自分の中にとても隠さずにおれない部分があることを知り、恥ずかしくなり、うしろめたくなって、いちじくの葉なんかでとりつくろい、神のみ顔を避けて、身を隠すのです。こうして神との麗しい関係は歪んだものになってしまいました。
9節、主なる神はアダムを呼ばれます。「どこにいるのか。」
10節、彼はおびえながら答えます。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
彼らが神の御心に逆らうまでは、無垢な存在であったのです。すべて神のみ心のうちに生きるところに喜びと楽しみが伴っていたのです。そこにエデンの園の原型があったのです。ところが、彼らは神が取って食べるなと言われた善悪の木の実を食べると、罪を自覚して神の前に出ることができなくなるのです。自らをやましく思い、互いに身を覆うもので取り繕うとする彼ら。
無垢であったアダムの心に変化が生じます。彼は「取って食べるなと命じた木から食べたのか」との神の問いかけに対して、12節「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」とつまり、彼は自分が神に対して罪を犯した、自分が悪かったということよりも、女が勧めたのでと弁解しパートナーであるはずの女に自分の過ちの責任を転嫁するのです。そして女も又、13節、「蛇がだましたので」と、弁解し責任逃れをしようします。
現代においても、犯した過ちや失敗を認めるのは損をする愚かなことだというような風潮が当然のようにまかり通っています。何とか自分だけは傷つかないで守るために自分を正当化しようとする人の弱さ。聖書は神との信頼関係が損なわれてゆくとき、人との関係も損なわれることを如実に語っています。
アダムにとって神は祝福を与えて下さるお方でした。そして女はその祝福を分かち合い、喜び合う存在として神が与えて下さったパートナーであったのです。ところが、神に対して罪を犯し、自分の非を認めようとはせず、その責任のなすり合いがなされる中で、本来与えられた祝福は失われていきます。信頼は損なわれ、猜疑心に取りつかれたあげく憎しみ合うようにさえなってしまいます。神との分断、人と人との分断。実はそこに蛇の一番の狙い、目的があったのです。
13節の「神の何ということをしたのか」というお言葉には、深い落胆と嘆きが込められているようであります。神はまず蛇に向けて、裁きを言いわたされ、次いで女に産みの苦しみ、そしてアダムに、労働の苦しみ、さらに死すべき者として「塵に返る」ことが告げられます。その罪の結果とはいえ、何とも暗たんとした気持ちにさせられる場面でありますが。
ところが20節には、「そのアダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべての命あるものの母となったからである」と続くのですね。神はアダム・人に「塵に返る」、死ぬべき者にすぎないと告げられたにも拘わらず、ここでアダムは妻の女をエバ、命、それは「生きる」(動詞的意味)とそのように名付けたというのであります。
人は神に対して犯した罪によって死がもたらされるのですが。人はたとえその限られた時間の中で「命を生きる」、そう宣言したということですね。まあ、ここには人間のしたたかさと言いますか、それこそが神がその人の鼻に命の息を吹き込まれた「生命力」であろうかと思いますが。命が引き継がれてゆくことの中に、「命を生きる」という希望を人は見出すのであります。
さて、その2人の様子を御覧になっていたであろう主なる神は、21節「アダムと女に皮の衣を作って着せられた」というのですね。アダムと女が神に犯した罪は消えません。がしかし、主なる神は彼らを憎んでおられるのではなく、むしろ、人間のもつ弱さを慈しんで、それを覆ってくださるのであります。
その罪のゆえにもはやエデンの園から出て行かざるを得なかった人間、それはこの地上に生きる私たちでありますが。その私たちに父なる神は今や、イエス・キリストによる救いという「義の衣」を着せ、罪の身を覆ってくださいました。
罪あるまま、足らざるまま、欠け多きそのままの姿をさらしつつも、なお御前に立ち返って命を生きることを願う私たち人間に、今日も父なる神は、罪の身を覆う義の衣、主イエスの十字架の義と愛による贖いをもって、神と人、人と人との交わりを回復へと導いて下さるのであります。
「あなたはどこにいるのか。」神との和解の道、天の平安、永遠の命に与って生きる恵みに応えて、今週の歩みをなしてまいりましょう。
最後にヨハネ黙示録22章13節~14節を読んで今日の宣教を閉じたいと思います。
「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。」 祈ります。
先週はエデンの園において、人であるアダムを「助ける者」として、そのあばら骨の一部から女が造られたこと。そして、互いに助け合うパートナーとされた彼らの喜びと祝福を御言葉から聞くことがでました。さらに私たちはそこからイエス・キリストにより主にある霊的交わりに招かれた互いを喜び、祝福する者、祈り執り成し助ける者とされていることを覚えました。そこに私たちのエデンの園(パラダイス)が開かれているのです。
さて、3章に入りますと、二人は神の戒めに背き罪を犯す事になるのであります。今日の個所を読みますと、二人が神に対して罪を犯していくことに大きな影響を及ぼしたのは、蛇であったとあります。この蛇は野の生き物のうちで最も賢く、女を罪へといざなったというのです。
この蛇とは一体何ものなのでしょうか?蛇は神の造られた生き物にすぎません。これは一つの象徴です。それをサタンという人もいるでしょう。まあ、自分と対立し、意見の合わない人を対話も深めることなくあたかもサタンで呼ばわりして裁き、排除するような紛争や分裂が残念ながら社会的な風潮として強まってきているように思えますが。この蛇に象徴される力とは、神の御心に逆らって生きるように目論み誘い、神との関係を引き裂こうとする悪意ということができます。又、人が自らを神であるがごとく思い高ぶるようそそのかして滅びるように仕向ける働きともいえます。
本日の箇所を読んでまず頭に浮かびますのは、「欲」という一文字であります。
「欲」を広辞苑で引きますと、第一に「ほっとすること」「願うこと」とありました。意外でした。欲という漢字の左の谷は「穀物」を表し、右の欠は「口」を開くとの意味があって、つまり本来は「穀物を食べる」という意味だそうです。これも意外でした。欲というのは人間が生来生きる上で願っていること、ほっとすることであるのです。しかし、それがその与えられた豊かな恵みに感謝することを忘れ不満をつのらせ、飽くなき満足を追い求めていくときに、欲望という泥沼にはまって罪を犯すようなことになっていくのですね。
主なる神はかつて人に命じて言われました。2章16節「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると死んでしまう。」
ところが蛇は女に言います。4節「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる。」
6節「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」とあります。アダムは何と簡単に女の言うとおりにしたものですよね。
この時、アダムと女は、エデンの園において死もなく、神の完全な守りと平安の中で過ごすことができていた。そこには食べて余りある食糧もあり、人として何不自由なく生きる世界があった。なのに、なぜ彼らは蛇の誘いに乗ってしまったのでしょう。
人は何もかも満たされ、整った環境を与えられ、受けるばかりの中に置かれてしまいますと、その尊い恩恵が神からのものであり、神の賜物による恵みであることを忘れ、気づかなくなってしまうのです。そうして恵みに満ちた日々は平凡で飽きたりた毎日となり、感謝なき心はやがて今あるものでは満足できない、というような不満をつのらせていきます。そして遂に魔が差すというようなことが起こり得るのです。こうして人は神が「これを食べたら死んでしまう」と忠告なさったものにまで手を伸ばすことになってしまうのです。そのようなことを思いますと、人は本当に弱く、もろいものだと言わざるを得ません。
さて、この善悪の知識の木から取ってその実を食べたアダムとその女は、7節「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」とあります。
2章に、二人は裸であったが「恥ずかしがりはしなかった」とありましたが、ここで「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせて、腰を覆うものとした」と、それは二人の目が開いたことで、互いの心のうちに「恥ずかしい」という意識が生じたということです。
「恥ずかしい」という意味にはいくつかあります。この箇所では「自らをやましく感じること」又、「過ちや罪などを意識して面目ないと思う」そのような感情が起こってきたということです。彼らのうちに罪の自覚が生じ、自分の中にとても隠さずにおれない部分があることを知り、恥ずかしくなり、うしろめたくなって、いちじくの葉なんかでとりつくろい、神のみ顔を避けて、身を隠すのです。こうして神との麗しい関係は歪んだものになってしまいました。
9節、主なる神はアダムを呼ばれます。「どこにいるのか。」
10節、彼はおびえながら答えます。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」
彼らが神の御心に逆らうまでは、無垢な存在であったのです。すべて神のみ心のうちに生きるところに喜びと楽しみが伴っていたのです。そこにエデンの園の原型があったのです。ところが、彼らは神が取って食べるなと言われた善悪の木の実を食べると、罪を自覚して神の前に出ることができなくなるのです。自らをやましく思い、互いに身を覆うもので取り繕うとする彼ら。
無垢であったアダムの心に変化が生じます。彼は「取って食べるなと命じた木から食べたのか」との神の問いかけに対して、12節「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」とつまり、彼は自分が神に対して罪を犯した、自分が悪かったということよりも、女が勧めたのでと弁解しパートナーであるはずの女に自分の過ちの責任を転嫁するのです。そして女も又、13節、「蛇がだましたので」と、弁解し責任逃れをしようします。
現代においても、犯した過ちや失敗を認めるのは損をする愚かなことだというような風潮が当然のようにまかり通っています。何とか自分だけは傷つかないで守るために自分を正当化しようとする人の弱さ。聖書は神との信頼関係が損なわれてゆくとき、人との関係も損なわれることを如実に語っています。
アダムにとって神は祝福を与えて下さるお方でした。そして女はその祝福を分かち合い、喜び合う存在として神が与えて下さったパートナーであったのです。ところが、神に対して罪を犯し、自分の非を認めようとはせず、その責任のなすり合いがなされる中で、本来与えられた祝福は失われていきます。信頼は損なわれ、猜疑心に取りつかれたあげく憎しみ合うようにさえなってしまいます。神との分断、人と人との分断。実はそこに蛇の一番の狙い、目的があったのです。
13節の「神の何ということをしたのか」というお言葉には、深い落胆と嘆きが込められているようであります。神はまず蛇に向けて、裁きを言いわたされ、次いで女に産みの苦しみ、そしてアダムに、労働の苦しみ、さらに死すべき者として「塵に返る」ことが告げられます。その罪の結果とはいえ、何とも暗たんとした気持ちにさせられる場面でありますが。
ところが20節には、「そのアダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべての命あるものの母となったからである」と続くのですね。神はアダム・人に「塵に返る」、死ぬべき者にすぎないと告げられたにも拘わらず、ここでアダムは妻の女をエバ、命、それは「生きる」(動詞的意味)とそのように名付けたというのであります。
人は神に対して犯した罪によって死がもたらされるのですが。人はたとえその限られた時間の中で「命を生きる」、そう宣言したということですね。まあ、ここには人間のしたたかさと言いますか、それこそが神がその人の鼻に命の息を吹き込まれた「生命力」であろうかと思いますが。命が引き継がれてゆくことの中に、「命を生きる」という希望を人は見出すのであります。
さて、その2人の様子を御覧になっていたであろう主なる神は、21節「アダムと女に皮の衣を作って着せられた」というのですね。アダムと女が神に犯した罪は消えません。がしかし、主なる神は彼らを憎んでおられるのではなく、むしろ、人間のもつ弱さを慈しんで、それを覆ってくださるのであります。
その罪のゆえにもはやエデンの園から出て行かざるを得なかった人間、それはこの地上に生きる私たちでありますが。その私たちに父なる神は今や、イエス・キリストによる救いという「義の衣」を着せ、罪の身を覆ってくださいました。
罪あるまま、足らざるまま、欠け多きそのままの姿をさらしつつも、なお御前に立ち返って命を生きることを願う私たち人間に、今日も父なる神は、罪の身を覆う義の衣、主イエスの十字架の義と愛による贖いをもって、神と人、人と人との交わりを回復へと導いて下さるのであります。
「あなたはどこにいるのか。」神との和解の道、天の平安、永遠の命に与って生きる恵みに応えて、今週の歩みをなしてまいりましょう。
最後にヨハネ黙示録22章13節~14節を読んで今日の宣教を閉じたいと思います。
「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。」 祈ります。