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独りではない

2014-06-15 17:58:48 | メッセージ
礼拝宣教 創世記2章18節~25節 


18節、主なる神は言われました。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」

先週は人が土のちりから造られ、神の命の息を吹き入れられることで人(アダム)が生きる者となったこと。又、神はアダムを用意されたエデンの園に住まわせ、そこを耕し、守るようにされた、という記述から「人の存在と使命」について聞きました。
エデンとは、へブル語で「楽しみ」「喜び」という意味があります。ギリシャ語では「パラダイス」;楽園(ルカ23:43)と言います。エデンには、人が生きる喜びや楽しみがありました。4つの川に通じ肥沃な地、豊かな鉱物や食べ物があり、多くの生き物がいたエデン。神は人をそのエデンの園に住まわせ、そこを耕し、守るようにされたのです。そのように初めの人アダムには、エデンで土を耕し、守っていくという仕事があり、その報酬としては余りある程の食物がありました。
ところが、主なる神さまは、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われます。すべて必要が満たされ、蒔いたものが実を結ぶ喜びがあり、豊かにそれを戴く楽しみがある。
それにも拘らず「人が独りでいるのは良くない」というのはどういうことでしょうか?アダムがよき労働や物質的豊かさや保証を得てもなお、神の前に幸せそうには見えなかったとするなら、何が原因であったのでしょう。それは人としての根源的な欠乏感、「孤独」でした。

1章の天地創造の箇所で繰り返されたのは、神の「良し」「極めて良かった」それは甚だ美しい、ともいうべき感嘆の連呼でありました。ところがここに至って初めて、「良くない」という言い方がなされているのです。神の楽園であるエデンにおいてすら、「人が独りでいる」こと、「孤独」でいることは「良くない」というのです。

そこで19節以降、「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持ってきて、人がそれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった」とあります。ところが「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」と記されています。

神は人の助け手としてあらゆる動物を土から造り、人のところへ持って来られ、どれが人に合う助け手となるかを御覧になられます。けれども、人はその中にどれ一つとして助け手を見出すことができなかった、というのであります。
人はみな生まれた後、名づけられてやがて名前で呼び合うようになります。そこに互いのう関係ということが起こされ深められていくのですね。ペットの犬や猫なども飼い主が名づけるわけですが、それは飼い主にとって都合のよいもの過ぎません。
ではなぜ、神ご自身が直接助ける者とはなられなかったのかという疑問も起きるかもしれません。もちろん神は私たち人間を助けて下さるお方であります。しかしここにある「彼に合う助ける者」とは、それは単なるヘルパー的な意味での「助け手」とは違うのです。

21節以降を読んでみましょう。「主なる神は、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた」とあります。
まるで緊急治療室で手術がなされているかのような光景が思い浮かんできそうですが。

それよりここで注目したいのは、神はその「彼に合う助ける者」について、他の動物といった生き物のように土のちりからではなく、人のあばら骨の一部から造られた、ということであります。それは、人を介して助ける者をお造りになられたのであります。 
なぜあばら骨からだったのか?頭や手足の骨であってもよかったのではないかとも思うのでありますが。古くからあばら骨のある胸には、「愛情の宿るところがある」とか「魂のやどるところがある」と信じられていました。今も子どもなどに、心はどこにある?と聞くと大概の子はどこで聞いたか、「ここ~ぉ」と胸のあたりでハート型に指を合わせて見せるものです。まあ昔からあばら骨はその人の心情や魂を包み、守る役割があるとされていたのですね。神はその胸のあばら骨の一部を抜き取って女を造り、彼に合う(ふさわしい)助ける者として出会わされたというのであります。
それは、人の心の楽しみや喜び、又、労苦や悲しみといった心情を分かち合うことのできる存在こそが、人にとっての「彼を助ける者」であったということであります。
ここをただ表面的に読んで、女は男の一部から造られた。だから女は男に劣る、服従する者だというような考え方。又逆に、女が男の一部から造られたなんてこれは女性蔑視の考え方だとするのも、これはどちらも間違いであります。
確かに助ける者といえば、手伝いとか助手というヘルパーという響きが強くあり、そこに助ける側と助けられる側といった関係を連想しますけれども。しかしここで神がおっしゃった「彼に合った助ける者」とは、「~をしてあげる」「~をしてもらう」という従属関係ではなく、互いに心情を感受し合い、仕え支え合うパートナーとして「彼に合う助け手」が必要だという事であります。

23節、人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨 わたしの肉の肉。これこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」

この言葉こそ「人」が初めて直接語った言葉として聖書に記述されているわけですが。「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」というこの表現には、「やっと見つけた」「探していたのはこれだった」 そのような感動が読み取れますね。それは彼と向き合うその人も又、同様であったでしょう。その感動は、人としての思いや心情を共に味わう感動、共有する感動であります。喜びや楽しみ、驚きといった人生の味わいを分かち合える相手。その後には悲しみや苦しみをも共にすることになるわけですが。彼はもはや孤独ではありません。
聖書は人の創造に際し、土のちりから造られたと伝えるように、肉体的にも精神的にも人がいかにもろく、弱い者であるかということを示します。神は「人は独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」とおっしゃって、そんな弱さやもろさをもつ人に、励まし合い、支え合い、生きる喜びを共有できるための仲間をお造りになられたのであります。それはここでは男と女という形で述べられているのですけれども。しかしそれは何も夫婦という形に限られたことではありません。
人は他者の存在によって励まされ、支えられているのであります。人はみな草のように弱く、やがては枯れていくはかない存在でありますけれども、その限られた時間、人生を如何に生きるかということは実に大切であります。人は独りでは生きられません。孤独の中に埋没していくことほど辛く苦しいことはありません。人の孤独をご存じであられる神は、人が思いや心情を共有したり、分かち合ったり、時には違いを通して互いが気づきや学びを与える「関係」。喜びも、悲しみ、苦しみさえも共に死、愛情を育む関係。そういう「彼に合う助ける者」が必要と出会いをお与えになるのであります。

昨日も「いのち」を考えるという講座に参加し、自死された方の遺児たちとの出会いを通して非営利団体の「自殺対策支援センターライフリンク」を立ちあげて「生きる支援」「いのちへの支援」とご自身おっしゃる活動を続けて来ておられる清水康之さんのお話を伺いました。講演では、NHKの番組ディレクタ―をしていた当時、ある番組で大学生の遺児が口にした「つらい気持ちを誰にも話せなかった」という言葉に心動かされ、その後退職されてこの活動を始められたそうです。後には、東日本大震災でご家族を亡くされた方々にもそれが共通した思いであり、ご遺族は誰にもその思いを話せずに、日々を過ごしておられるという思いに至ったそうです。そのような事から被災地にも足を運んで震災でご家族を亡くされたご遺族への支援やケアもなさっておられるということでした。
お話の中で心に留まりましたのは、遺児たちは自分と同じような苦しみやつらさを持つ人と出会うことによって、「自分だけではないんだ、同じような状況の中で苦しんできた人がいたんだ」ということを知り始めて、自分のもっていた感情や思いを安心してそこで話すことができ、励ましと支えを共に受け、次第にその痛み傷もいやされていくということでした。そして、そのいやされた人は今度は励まし、支える側になっていろんな形で活動を支えているそうです。人は独りでは生きられません。神は人の孤独の苦しみを分かち合うことのできる仲間、パートナーという存在をお造りになり、「人が独りでいるのは良くない」と、人と人とを出会わして下さるのです。

創世記3章以降に記されておりますが。人は知恵を得た代償として欲望を持つ者となり、そのことのゆえに人間関係がゆがめられる、ということが起こってきました。文明社会の中で、経済、物質的豊かさを追求するあまり、人と人の関係が損なわれたり、軽んじられたりといったことが血縁関係の中においてさえ起こっています。人はそこで益々孤独になっていきます。「私はもう一月近く人と話していません」「誰一人助けを求めることができる人がいません」そのような人が実際増えて来ているそうです。そのために万引きをして何度も投獄される人までいるそうです。どんな形であっても関わりが起きるからです。
天の父なる神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助け手を造ろう」とおっしゃいました。そして遂に孤独にあえぐ私たち人間に、「共におられる神、主イエス・キリスト」をお与え下さいました。又、そのみ体なる教会を通して、人が再び神の祝福のみもとにおけるエデンの楽しみと喜びを見出し、それを他者と分ち合うことが出来るようにと、今も聖霊の息吹は吹きこまれ続けています。私たちはそのような救いの恵みに与った初めの愛を週ごとにこうして思い起こし、その恵みに応えていく歩みをなしていきたいと願います。

さて、本日の最後の25節のところに、「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」とありますが。

お互い良い面ばかりでなく、時には弱さをも認め合い祈りを共にできる関係、そこにまさに私たちのエデンがあります。そしてそのような互いの弱さをさらし祈り合えるのは、
自分も又、助け手を必要とする弱く、欠けたる面の多い「人間」であることを自覚し、主イエスによって赦され、救われた存在であることを知るからです。

「恥ずかしがりはしなかった。」それは、互いが、まず神からかけがえのない作品として愛のうちに造られた者であるということを認め合っていたからです。
この社会全体が一人ひとりすべての人のうちにその尊厳を認めることができるなら、どれほど命が尊ばれる平和な世界が実現していくことでしょう。残念ながら程遠いどころか、逆行しているような状況にあるわけですが。そのような中でいのちの福音に与った私たちは、自らもかけがえのない存在とされていることを信じ喜ぶと共に、あらゆる偏見から自由にされ、互いのあるがまま認め祝福を分ち合っていきたいものです。主イエスの言葉と招きのうちに祝された関係が築かれていくことを祈り求めながら、今週も歩み出してまいりましょう。
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