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大極殿巡る回廊跡が出土 京都・長岡京跡、規模解明の資料に

2015年10月26日 16時02分36秒 | 京都情報
大極殿巡る回廊跡が出土 京都・長岡京跡、規模解明の資料に

2015年10月25日 12:27 産経新聞

京都府向日市鶏冠井(かいで)町の長岡宮跡から宮の中心施設、大極殿を取り囲む大極殿院回廊跡の一部が出土し、市埋蔵文化財センターが発表した。柱を立てるための礎石の地固め跡や回廊の両端を示す溝状遺構などで、同院回廊の規模や構造がひと目でわかるような出土例はこれまで少なく、同センターは回廊の規模を解明できる資料としている。

 遺跡範囲確認のため回廊北西角の約250平方メートルを調査。小石まじりの直径約1・2メートルの礎石の地固め跡が8カ所で確認できたほか回廊の南北の両端から溝状の遺構が出土した。

 柱は3本一組として南北に2・4メートル間隔で並び、廊下の中央を板塀で仕切る複廊形式。また東西柱の間隔は3・6メートルだった。

 溝状遺構は廃都時、回廊廊下の側面を飾るためブロック・板状に加工した凝灰岩(ぎょうかいがん)製の化粧石を抜き取った跡とみられる。内部からは抜き取り中に割れたとみられる石の破片も発見された。

 両側の溝状遺構の位置から回廊の幅は8・15メートルと復元できるが、化粧石を抜き取るときに廊下がえぐられていたため、本来の回廊の幅はこれまで推定されてきた通り8・29メートルで間違いないことが確認された。

 また5世紀後半に築造された古墳を破壊して造成していたらしく、多数の埴輪(はにわ)片も出土した。

 同センターは「大極殿院回廊は調査面積が狭かったり、データが古かったりして、全容が確実につかめていなかったが、今回の発見でほぼ解明できた」と話している。

     ◇

 現地説明会は25日午後2時から。スマートフォンやタブレット端末から当時の建物の復元CGを見ながら巡れるアプリも用意しているという。


現地説明会の写真を添付しておきます。







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長岡宮跡の訪問記 on 2015-10-25

2015年10月26日 06時37分48秒 | 京都情報
2015年10月25日14時から、京都府向日市鶏冠井町大極殿55-2他で進められている
長岡宮跡第508次調査の発掘現場で現地説明会がある為出かけました。

長岡京は784年から794年の10年間山城国乙訓郡に存在した日本の首都である。
延暦3年(784)11月11日、桓武天皇(737-806 天皇在位は781-806)の命により
奈良の平城京より遷都された。

Wikipediaに平城京より長岡京に遷都された理由について詳しく解説されて
いるので引用させていただきます。

「続日本紀」に桓武天皇とその側近であった藤原種継のやり取りが記されている。
「遷都の第一条件は物資の運搬に便利な大きな川がある場所」とする桓武天皇に対し
種継は「山背国長岡」を奏上した。長岡は種継の実家があり、支持基盤がある
場所でもあった。その他の理由として、

1)既存仏教勢力や貴族勢力に距離を置く
2)新京の周辺地域をおさえる、帰化人勢力との関係
3)父の光仁天皇の代から天智系に皇統が戻った事による人心一新
4)難波津の土砂の堆積によってここを外港としてきた大和国の東西間交通の接点
  としての地位を失い(難波津-大和国-鈴鹿関ルートの衰退)、代わって三国川
(現在の神崎川)の工事の結果、淀川-山背国-琵琶湖・近江国のルートが成立
 したこと(長岡遷都と難波宮廃止が同時に決められている)
[出典 1]北村優季「長岡平城遷都の史的背景」
   (初出:『国立歴史民俗博物館研究報告』134集(2007年)/
    所収:北村『平城京成立史論』(吉川弘文館、2013年)
    ISBN 978-4-642-04610-7


一方、長岡京から平安京に遷都された理由について
山川出版の「詳説 日本史図録 第2版」(2008)によれば
1)仏教政治と断絶し、天皇権力の強化を企図
2)桓武天皇の母方である渡来系氏族と関係の深い土地
3)水陸の交通が至便
4)天武系から天智系への皇統の変かに伴う人心の一新


また、延暦11年(792)の大洪水や桓武天皇の弟である早良(さわら)親王の死、
さらに造長岡宮使 藤原種継暗殺事件にかかわる怨霊への恐怖などが
延暦13年(794)10月22日の平安遷都の最大要因であるとの説が有力である。


参考のため上記山川出版「詳説 日本史図録 第2版」(2008)より天皇家の系図
及び長岡京と平安京の位置について引用させていただきます。(Page61)





まず、長岡京の概要から

上の写真は朝堂院公園の説明版による長岡京全体図です。
東西4.3Km、南北5.2Kmの区域で、現在の長岡京市、向日市、大山崎町および
京都市の三市一町にまたがっています。
今回は長岡京の政治の中心である大極殿、朝堂院がある向日市を中心に観て
来ました。


上の写真は広域地図で長岡京の位置と平城京、難波宮から瓦が持ってきた事を
示すものです。



上の写真は同じく朝堂院公園の説明版からで大極殿、朝堂院の模型と周辺地図です。


上の写真は大極殿公園の説明板による大極殿を中心とした説明。


上の写真は向日市文化資料館の資料に現地説明会のトレンチ場所を重ねた
ものです。

それでは14時から行われた長岡宮大極殿院回廊北西隅の現地説明会について
話題を替えます。

推定で200名ほどのファンが説明に耳を傾けた。

回廊は推定で東西約105m、南北121mである。回廊は3本の柱で支える構造の
複廊と呼ばれるもので奈良時代に建立された薬師寺の回廊と同じ構造との説明
がありました。今回の調査の成果は下記の3点であるとの説明がありました。
(1)大極殿北面回廊の礎石据え付け穴及び東北の凝灰岩の抜き取り  
   痕跡を検出(凝灰岩は平安京で使用)
(2)大極殿院内部の石敷及び長岡京期整地土を検出
(3)回廊下層から埋没古墳を検出


上の写真は現地説明会の配布資料の第1図です。


上の写真は今回の現場付近の当時の姿を再現した説明板です。


上の写真は大極殿の説明。






上の写真は発掘現場からの出土品の一部です。

これらの中で「長岡京第1回発掘記念」と書かれた湯のみ茶碗が出土したことも面白い。
昭和30年当時に故小林清先生が調査に当られており小林先生の旧宅址が今回の
発掘現場であることからか?


上の写真は説明会のメイン会場のトレンチ3の遠景です。

スマートフォンやタブレット端末のアプリ「AR長岡宮」で見られる建物の
復元CGを観れた。(下の2枚の写真)






上の写真は毎年11月11日に実施される大極殿祭の様子です(現地説明板)

参考として2015年6月7日に訪れた平城京大極殿(復原)の写真も添付しておきます







上の3枚の写真は2015年6月7日訪問時に撮った現地(平城京跡)の説明版より
平城京全体を概観したものです。






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