2020年6月5日 18時からの報道ランナー、「兵動大樹今昔さんぽ」で神戸兵庫区
の能福寺の兵庫大仏が紹介されました。
今迄に何度か兵庫大仏に関するブログ記事を書いていますが間違って解釈して
いた部分(昭和19年は金属供出ではなく大仏も一緒に出兵するという思想のもと
住民により壊された。実際に残がいが残されており平成3年、2代目の大仏を造営
する際に溶かして利用された。)を修正する必要があったので改めてこの番組で
使用された写真をベースに書き直すことにしました。
兵庫大仏の概要紹介
兵庫大仏は鎌倉の大仏、奈良の大仏と並んで日本の3大大仏の1つ。
兵庫大仏は延暦24年(805)創建の天台宗の寺院宝積山能福寺の境内にあります。
能福寺の住所:神戸市兵庫区北逆瀬川町1-39 TEL:078-652-1715
能福寺では昔は活動写真が上映されたり寄席があったり、演劇などもあり
藤山寛美さんなどもよく出演されていたそうです。
明治24年(1891)に建てられましたが、昭和19年(1944)金属回収令で倒され
現在の大仏はもとの大仏がつくられてから100年目にあたる平成3年(1991)に
新しくつくりなおされたものです。三木市で製造され運搬されてきました。
体の大きさが11m、蓮の花の台座の高さが3m、さらに下の台が4mで総高18mである。
重量は約60tだそうです。
新しい大仏の下には重要文化財の木造十一面観音立像が安置されています。(非公開)
初代の兵庫大仏
昭和19年(1944)、大仏は武器として供出されたのではなく住民により壊された。
昭和19年(1945)に初代兵庫大仏が壊されたのは「皆がひとつになるんやで」
ということで大仏出征式も行われています。
兵庫大仏の建立目的は平家の追善であった。
能福寺の加藤茲晃和尚が発願し兵庫津の豪商・南条荘右衛門らの寄進により
兵庫大仏は明治24年(1891)5月8日に建立されました。
昭和19年(1944)金属回収令でつぶされるまで「兵庫の大仏っあーん」の
愛称で親しまれていました。
番組で紹介の昭和50年代の兵庫大仏
上の写真は番組で紹介された昭和50年代の能福寺境内(大仏の台座のみ残り
大仏が建立される前の状態です)
2代目 兵庫大仏の建立
2代目の兵庫大仏は初代建立から100年後の平成3年(1991)5月9日に建立
上の5枚の写真は建設中の2代目の兵庫大仏
上の写真は初代大仏の残骸が溶かされ2代目の大仏の建設に利用されたことを説明
した場面。
上の写真は取材時(2020-3-10)の能福寺境内と兵庫大仏
上の写真は初代大仏と対比して示された2代目大仏。
2代目大仏は顔が初代と比べてふくよかである。
2代目 兵庫大仏の基本情報
平成3年(1991)5月9日開眼
高 さ: 18m(地上より台座を含む)
蓮の花の台座の高さが3m、さらに下の台が4m
御身丈: 11m
像重量: 60ton
鋳造業社: 平安美術 (工場は三木市大村の金剛寺の近くにあります)
建立者: 能福寺25世権僧正 世雄代 さん 他 大仏再建奉賛会の皆さん
神戸まつりで制作された兵庫大仏
上の3枚の写真は昭和58年(1983)5月の神戸まつりで練り歩いた兵庫大仏と
能福寺境内での制作画面
能福寺の住職(雲井雄善さん)の解説
締め
能福寺の見どころ
兵庫大仏の他にも能福寺には多くの見どころがあります
上の写真は能福寺の概要説明
1)平清盛公墓所 八棟寺殿 平相國廟
平安時代の末期治承5年(1181)平清盛公は63年の波乱の生涯を終えた。
平清盛の生涯で国守または国司になったのは4カ国(肥後、安芸、播磨、備前)で
他に大宰府大弐にも任ぜられている。
神戸での生活は仁安2年(1167)5月太政大臣を辞したときから死ぬ前の年の
治承4年(1180)まで13年間でこの間神戸(兵庫津)は政治の中心であった。
平清盛公の墓は治承5年(1181)に能福寺の寺領内にあった太平山八棟寺殿に
平相國廟が造立されたと伝えられている
2017-7-1撮影
2)瀧善三郎正信の慰霊碑
元は能福寺の東100mのところにあった永福寺に建立されたものである。
上の写真は滝善三郎正信の慰霊碑 撮影:2017-7-1
3)當勝稲荷堂
4)日本で初めての英文による観光案内
この碑の撰文はジョセフ・ヒコ。
One thousand years or more ago,by request of emperor Dengio Daishi
brought over from China,The religion of Shaka of India.
The first teachings of this religion in Hiyogo were taught at this temple,
and this sect is the original of all others in Japan.
延暦大師延暦廿三年
恭奉勅入唐伝法往還
寄舶最初初教化之霊場
わが国の新聞の父として文久2年(1862)3月31日米国リンカーン大統領と握手した
唯一人の日本人として下田の港で開国を迫ったペルリ(ペリー)提督の通訳として有名な
ジョセフ・ヒコ(日本名:浜田彦蔵)の手になる英文である。神戸港についた外人客が
神戸のマスコット兵庫大仏に多数参拝に来ることから能福寺第19世住職 加藤慈晃師が
ジョセフ・ヒコに依頼して寺の縁起を英文で作ったのがこの碑である。
(碑は明治25年(1892)頃建造された)
5)最澄像
804年7月、最澄37歳は第16代藤原葛麻呂(かどのまろ)遣唐使に随行した。
通訳に門弟の義真を連れ、空海とおなじく九州を出発。9月明州に到着。
天台山に登り、湛然の弟子の道邃と行満(ぎょうまん)について天台教学を学ぶ。
さらに道邃に大乗菩薩戒を受け、?然(しゅくねん)から禅、順暁から密教を相承する。
805年5月、帰路の途中和田岬(神戸市)に上陸し、最初の密教教化霊場である
能福護国密寺を開創する。7月に上洛、滞在中に書写した経典類は230部460巻。
帰国当時、桓武天皇は病床にあり、宮中で天皇の病気平癒を祈る。
上記のように大輪田泊に上陸して最澄が最初に講話を行った場所に建てられたのが
能福寺と伝えられています。このことから像が建てられたものだと思います。
誰がいつ建てたかは未調査で不明。
6)北風正造の顕彰碑
明治29年(1896)兵庫県知事周布公平により建立された。書は初代の兵庫県知事
伊藤博文によるものである。
北風正造は天保5年(1834)3月20日山城国紀伊村竹田村(京都市伏見区)で
長谷川織部景則の次男として生まれた。
19歳のときに兵庫の大豪商北風家の養子となった。
商人としては、神戸製茶改良会社、神戸船橋会社、第七十三国立銀行、米商会所
などを創立した。
明治維新後は県の役員としても活躍した。
兵庫新川の開発事業、湊川神社の建立、神戸初の小学校「明親館」の設立、神戸駅の
用地の提供などで功績があった。
また、明治元年の伏見鳥羽戦のとき姫路城を戦禍より救ったことでも有名である。
晩年は明治26年に北風商店が倒産し、失意のうちに、明治28年(1895)12月5日に没した。
能福寺に弔われている。
7)能福寺本殿 月輪影殿
歴代天皇陛下参拝され、もと京都東山の月輪御陵にあった九條公爵家拝殿
(大正天皇の妻貞明皇后さまのお里方)であり、能福寺に昭和28年(1953)
移築されたのが月輪影殿(つきのわえいでん)です。
明治、大正、昭和の歴代天皇が京都の行幸されたときは必ず月輪影殿に参拝された
そうです。
とりわけ、明治天皇がご参拝の折はきらびやかに正装した女官数十人が本殿の侍り、
陛下をお迎えした光景はさながら絵巻物のようであったと伝えられています。
月輪影殿は明治16年(1883)に建造されています。
また、平成9年(1997)12月に解体修復されています。
8)汽船豊瑞丸沈没死者追悼紀念碑
上の写真が海難碑「汽船豊瑞丸沈没死者追悼紀念碑」
右手の弥勒菩薩石像の左側奥にあるのがその海難碑です。
汽船豊瑞丸は1856年にイギリスで製造されナンバーワン号と呼称されていた汽船で
薩摩藩が元治元年(1864)に購入し豊瑞丸と名付けました。
慶応4年(1868)2月、「孟春丸」、「豊瑞丸」、「雄飛丸」が日本で初めて
艦隊行動を行い、大阪から横浜まで兵員の輸送を行っている。
明治初年(1868)東出町の薩摩屋が薩摩藩のものを借り受け神戸-鹿児島航路に
使用されていましたが後に台湾航路に使用されるようになりました。
銘文には下記のように書かれています。
「不幸哉、豊瑞丸到千台航海中為河野浦丸所衝突、沈没於広島下忠海之沖、溺死者
十有六名、実明治廿九年六月一三日也、平等聞之、不堪悲惨、於是二三同志公募
表損、幸得金若干仍其一頒遺族其一建碑 溺死者 氏名省略」
詳細は下記のブログで書いています。
汽船豊瑞丸沈没死者追悼紀念碑 in 能福寺 on 2013-1-4
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