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平将門の乱

2021年06月10日 04時16分27秒 | Weblog

平将門は一般に菅原道真、崇徳上皇と共に「日本三大怨霊」の一人とされる。

本日は関東地方で939年(天慶2年)平将門の乱を起し下野(しもつけ)、上野(こうづけ)

を制圧し上野国府で「新皇」に即位、武士による東国国家の樹立を企てたが940年(天慶3年)

下総猿島(さしま)で平貞盛・藤原秀郷軍に敗れ討ち死にした平将門に焦点を当てた。

本ブログでは平将門の乱の概要を纏めると共に平将門に関わる塚などを紹介します。

平将門像

上の写真は茨城県坂東市の国王神社の木造平将門像(茨城県指定有形文化財、国王神社神体)

平将門(?~940)は高望王の子である平良将(よしまさ)の子供

桓武平氏の流れをくむ一族です。

高望王は寛平元年5月13日(889年6月14日)、宇多天皇の勅命により平姓を賜与され

昌泰元年(898年)に上総介に任じられたそのまま土着した人物です。

 

平将門を中心とした桓武平氏の系図

上の写真は桓武平氏の系図

 

平将門の乱の概要

以下は詳説 日本史図録 山川出版社 第2版 (2008) Page80より引用

平氏一族の内紛

 931年(承平元年)~ 父良将の遺領をめぐり叔父の平国香(くにか)達と争う

 935年(承平5年)平国香を殺害

 

①国家への反逆

 939年(天慶2年) 常陸国司の追補を受けた藤原玄明(はるあき)を保護

     →常陸国府を占拠、下野、上野を制圧

②「東国国家」樹立へ

 939年(天慶2年)上野国府で「新皇」に即位。関東諸国の受領を任命

新皇将門による諸国の除目と素性
下野守:平将頼(将門弟)
上野守:多治経明(陣頭・常羽御廐別当)
常陸介:藤原玄茂(常陸掾)
上総介:興世王(武蔵権守)
安房守:文屋好立(上兵)
相模守:平将文(将門弟)
伊豆守:平将武(将門弟)
下総守:平将為(将門弟)  以上はWikipediaより引用

③ 乱の制圧

 940年(天慶3年)下総猿島で押領使の藤原秀郷、平貞盛に敗れ、討死

 天台宗の僧侶の浄蔵の祈祷により放たれた弓矢により討ち取られたとの伝説あり

上の写真は上述の①、②、③のあった場所を地図上に示したものです。

将門の乱は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友が起こした乱と共に、「承平天慶の乱」

と呼ばれる。

 

上の写真は平将門が討ち取られ首が京都に運ばれる場面

出典:2021-6-4 NHKEテレ高校講座「日本史」より

上の写真は「平将門退治図絵」船橋市立図書館蔵

平将門の首は京に運ばれ、七条河原にさらされた。しかし、将門の首は何か月経っても

腐ることなく、目を見開いて歯ぎしりしているようだった。

夜ごと「俺の胴体を持ってこい。首をつないでもう一戦しよう」という叫びが聞こえ、

京の人々を震え上がらせた。そして、ある夜、稲妻と雷鳴がとどろき首が宙に浮くと、

関東をめざして飛び立った。

京都神田明神

平将門を祀った神社として東京の神田明神が有名であるが首がさらされた京都にも

京都神田明神がある。(上の写真)

空也上人が置いたとされる石もあります。

所在地:京都市下京区綾小路通西洞院東入新釜座町726

 

東京 大手町の将門塚

上の3枚の写真は東京大手町の将門塚 Googleストリートビューより

所在地の住所表示は東京都千代田区大手町1丁目2-1  将門塚

 

茨城県坂東市にある平将門の銅像の紹介
 http://www.city.bando.lg.jp/sp/page/page000380.html


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