CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

在野の考古学者・相沢忠洋の功績(岩宿遺跡の発見者)

2021年07月26日 04時21分11秒 | Weblog

納豆の行商をしながら、コツコツと発掘調査をし3万年前から1万2千年前の約1.8万年

続いたの旧石器時代が日本に存在したことを実証した在野の考古学者、相沢忠洋

(あいざわ ただひろ 1926-1989)について調べてみました。

上の写真は相澤忠洋さん(1926-1989)

日本列島に旧石器時代が存在しないと考えられている時期もあったが1946年に
相沢忠洋(あいざわただひろ)氏が群馬県の岩宿遺跡で打製石器を発見し
1949年に再調査が行われた結果旧石器時代の人類・文化の存在が確認された。

出典:NHK高校講座 2021年4月9日放送「原始社会の生活と文化」

上の写真は相沢忠洋氏が岩宿遺跡で昭和24年(1949)に見つけた黒曜石の石器

 出典:NHK高校講座 2021年4月9日放送「原始社会の生活と文化」

相澤忠洋は大正15年(1926)6月21日東京都羽田に生まれる。正徳小学校夜間部卒業。

昭和9年(1934)鎌倉へ移住、この時考古学に興味を持つ。両親の離婚など恵まれない

環境にあったが、考古学に対する興味をもち続け、納豆や小間物などの行商をしながら

石器の収集を続けた。1948年(昭和23)から1949年にかけて、群馬県新田郡笠懸村

(現みどり市)岩宿の切り通しの赤土の中から、黒曜石片を発見した。

これが深い地層のローム層からの出土であったことから、昭和24年(1949)明治大学

考古学研究室と共同で発掘調査し、岩宿遺跡が旧石器時代のものと判明、日本で最初の

旧石器時代遺跡の発見者となった。

Wikipediaよりこの時の様子をもう少し詳しく解説

この石器を相沢から見せられた明治大学院生芹沢長介(当時)は、同大学助教授杉原荘介

(当時)に連絡し、黒曜石製の両面調整尖頭器や小形石刃などの石器を見せた。

赤土の中から出土するという重大性に気づいて、昭和24年9月11日 - 13日、岩宿の現地で、

杉原、芹沢、岡本勇、相沢ら6人で小発掘(本調査に先立つ予備調査)が行われた。そして、

11日、降りしきる雨の中をも厭わず掘り続け、杉原の手により、卵形の旧石器が発掘された。

後に刃部磨製石斧と名付けられる。9月20日、東京に帰った杉原はこの発掘の結果を主要新聞

に発表した。

その後、同年10月2日から10日あまりにわたって、杉原を隊長とする明治大学を中心とした

発掘調査隊が岩宿遺跡の本格的な発掘を実施し、その結果、旧石器の存在が確認され、

縄文時代に先行し土器や石鏃を伴わない石器文化の存在が確実な事実となり、旧石器時代

の存在が証明されることとなった。

後に相澤忠洋が著した講談社文庫「岩宿の発見」で関東ローム層から黒曜石の破片を発見した

当時の感動した様子が綴られています。

1967年岩宿遺跡発見により吉川英治賞を受賞。著書に自伝の『岩宿の発見』などがある。

以下、Wikipediaより年譜方式でその他の事績を記載していきます。

1955年(昭和30年)、結婚。
1961年(昭和36年)、群馬県から表彰を受章。
1972年(昭和47年)、宇都宮大学で講師を務める。
1973年(昭和48年)、妻死去。
1977年(昭和52年)、相沢千恵子(後の相沢忠洋記念館館長)と再婚。
1989年(平成元年)、5月22日死去。墓は桐生市薬王寺。勲五等瑞宝章を授与される。
           笠懸村より名誉村民第一号の称号贈呈。
1991年(平成3年)、相沢忠洋記念館が開館。

  相澤忠洋記念館の公式サイト:相澤忠洋について | 相澤忠洋記念館公式ホームページ (aizawa-tadahiro.com)             

         在野の考古学研究者を対象にした相沢忠洋賞が創設される。
1992年(平成4年)、相澤忠洋記念館後援会の設立。

 

在野の考古学者・相沢忠洋の妻が伝える岩宿への道

 

旧石器時代の遺跡や生活

 世界レベルで旧石器時代を概観すると

  旧石器時代前期(400万~20万年前)  12万5千人

  旧石器時代中期(20万~4万年前)   100~120万人

  旧石器時代後期(4万~1万3千年前)  220~300万人

 日本の人口は1万3千年前の縄文草創期で約2万人と言われているが旧石器時代では
 寒冷期が長かったので人口1万人以下であろうと推測する。
 日常生活は10人前後の小集団で生活しており、住居は移動に便利なテント式小屋
 や洞穴や岩陰での夜営生活であったと考えられています。

 日本においては樺太と北海道が陸続きになっており気候は現在より寒冷でナウマンゾウや

 ヘラジカ、オオツノジカ等の大型の動物を追って狩猟生活をしていた。

 石器時代の遺跡は現在のところ、全国で約5,000箇所の遺跡が確認されています。

 旧石器時代で現在最古とされるのは金取遺跡(岩手県宮守村)で中期石器時代で

 約8万年前~3万8千年前と鑑定されています。

  

上の写真は兵庫県立考古博物館の展示でナウマンゾウの狩猟の場面です。撮影:2021-7-4

上の写真は同じく兵庫県立考古博物館の展示でナウマンゾウの狩猟の解説

 

上の2枚の写真も兵庫県立考古博物館の展示で石器について年代別に整理したものです

上の写真は神戸市垂水区東石ケ谷遺跡から発掘されたナイフ形石器です。

出典:神戸市埋蔵文化財センター平成24年(2012) 春季企画展「古代の神戸」
約2万年前のものと鑑定されているそうです。
このことから少なくとも2万年前に神戸に古代人が住んでいたと考えられます。

 

神戸市内では他に灘区の桜ヶ丘B地点遺跡でもナイフ形石器が見つかっています。

 

旧石器時代の主な遺跡を列挙しておきます(除く岩宿遺跡、明石人、金取遺跡)

 置戸安住遺跡(北海道)
 白滝遺跡群(北海道)
 樽岸遺跡(北海道)
 野尻湖立ケ鼻遺跡(長野県)
 茶臼山・上ニ平遺跡(長野県)
 葛生人(群馬県)
 茂呂遺跡(東京都)
 月見野遺跡群(神奈川県)
 浜北人(静岡県)
 牛川人(愛知県)
 国府遺跡(大阪府)
 早水台遺跡(大分県)
 聖岳人(大分県)


 神戸市における旧石器時代の遺跡を列記する
  -北区の神出町の遺跡
  -垂水区の大歳山遺跡
  -垂水区東石ケ谷遺跡
  -垂水区境川遺跡
  -垂水区鉢伏山遺跡
  -灘区の滝の奥遺跡
  -兵庫区会下山遺跡

 上記の遺跡の数から現在の神戸市域の人口は100人程度か?

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孀婦岩(かっては日本の最南端であった)

2021年07月25日 04時37分02秒 | Weblog

2021年6月14日の9:00~10:40にBSPで放送のプレミアムカフェ「池内博之の漂流

アドベンチャー(2018年放送)」をビデオで視聴しました。

そこで紹介されていた孀婦岩(そうふいわ)について上記番組より写真紹介します。

伊豆諸島の最南端にある火山性の岩です。ダイビングの名所として有名だそうです。

私は初めて知りました。

上の写真が伊豆諸島の最南端に位置する孀婦岩(そうふがん、そうふいわ)

上の写真は孀婦岩の位置を地図上に記したものです。

孀婦岩(そうふがん)に関するYoutube動画をいくつかGooで共有させていただきました。

大海原に立つ孤高の岩 ~孀婦岩~

孀婦岩ダイビング1998

絶海の奇岩 孀婦岩

孀婦岩

関連サイト(気象庁)

 気象庁 | 孀婦岩 (jma.go.jp)

孀婦岩の基本情報

所在地:東京都の伊豆諸島南方(所属市町村なし)東京より約650km
管理:東京都が直轄(東京都総務局の八丈支庁)
座標:北緯29度47分39秒、東経140度20分31秒

発見者:ジョン・ミアーズ(1756-1809)

2018年秋に放送されたNHKスペシャル『秘境探検 東京ロストワールド 孀婦岩』

では番組紹介で嬬婦(そうふ)岩の字になっています。

2022年2月16日(水)BSプレミアムで再放送されます。

 以上は2022-2-16に追記

Wikipediaの解説をまず紹介します。

日本の気象庁により活火山(ランク未分類)とされている。

顕著な黒色孤立突岩。火道内のマグマが硬化してできた典型的な岩頸である。

NHKや産業技術総合研究所等による海底から陸上までの調査により、岩質は海底部分は

玄武岩であり、海上部分は安山岩であることが判明している。頂上付近には水面に対して

垂直方向の柱状節理が認められる。

歴史
孀婦岩について初めて確実な記録を残したのは、イギリス帝国のジョン・ミアーズ

(John Meares)であった。彼は交易のため2艘の船団でマカオを出発、ミンダナオ島を

経て北アメリカに向かう途上で孀婦岩を目撃した。

ミアーズ(1756-1809)の記録によると1788年4月9日、彼は初めてこの岩を目撃し「その岩に近づくにつれ、我々の驚きはより大きくなった。船員たちは何か超自然的な力が、この岩の形を現在の形に突然変えたのだ、と強く信じたがっていた」と書き記した。

ミアーズは、この岩をその不思議な形から、『旧約聖書』創世記19章26節に記された、神の指示に背いたために塩の柱に変えられてしまった人物に見立てて「Lot's wife(ロトの妻(英語版))」と名づけた。ミアーズの報告と実際の岩の位置は経度が大きく異なっており、実際よりも17度も東にされているが、その他の部分では正確な緯度が記録されているため、測量ミスではなく元テキストの誤記、誤植が原因であると考えられる。

日本語文献では、1885年の『寰瀛水路誌』(海軍省水路局刊)に初めて「孀婦岩」の名が現れる。「孀婦」とはやもめの意味であるが、これは「Lot's wife」を意訳したもので、やがて音読して「そうふ」と読まれるようになったと考えられる。今日では「そうふいわ」と呼ばれることも多い[11][12]。聖書に由来することが確定している日本の地名は珍しい。

周辺では海底火山が活動中であり、1975年に北約500mの海域に緑色の変色水の発生が観測されたが、火山活動との関連性は不明である。

戦後、1946年(昭和21年)3月22日に伊豆諸島が本土復帰してから、1952年(昭和27年)2月10日に吐噶喇列島が本土復帰するまで、この岩は日本の最南端であった。

上の2枚の写真はジョン・ミアーズが描いた孀婦岩のスケッチ

上の写真はジョン・ミアーズが残した海図に刻まれたLot's Wife=孀婦岩

上の写真はジョン・ミアーズが残した海図(全体図)

ミアーズの海図で示された孀婦岩(Rot's wife)と実際の岩の位置は経度が大きく

異なっており、実際よりも17度も東にされている。

その他の部分では正確な緯度が記録されているため、測量ミスではなく元テキストの誤記、

誤植が原因であると考えられる。

上の写真はイギリス人探検家 ジョン・ミーアズ(John Meares)の肖像画

ジョン・ミアーズの人物紹介は下記サイトが詳しい。

 Biography – MEARES, JOHN – Volume V (1801-1820) – Dictionary of Canadian Biography (biographi.ca)

 

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東京五輪の競技が始まる on 2021-7-21 及び開会式 on 2021-7-23

2021年07月24日 06時11分05秒 | Gooニュース

昨日(2021-7-23)は東京五輪2020の開会式が代々木の国立競技場で催されました。

それに先立ち2021年7月21日(水)、東京五輪2020の競技が始まりました。

その1番手で登場したのはソフトボールで日本の対戦相手は世界ランク8位のオーストラリア

ソフトボールの会場となったのは福島市の県営あづま球場で、始球式はいわき市立

平第三中3年のピッチャー桑原真愛(まな)さん(15)と捕手いわき市立泉中3年の

宮田妃乃さん(14)が務めた。「復興五輪」の思いを込めた桑原さんの投球は見事、

捕手のミットに収まった。

臨席者は大会組織委員会の橋本聖子会長、世界野球ソフト連盟(WBSC)のリカルド・

フラッカリ会長、五輪担当相の丸川珠美大臣、福島県の内堀雅雄知事です。

私はNHK総合テレビのライブ中継番組で観覧しました。

ソフトボールは無観客での開催となりました。

上の写真は始球式の様子です。

当日の日本の対戦相手は世界ランキング8位のオーストラリアです。

 世界ランキングは以下のとおり。
 
1位:米国
2位:日本
3位:カナダ
4位:プエルトリコ
5位:メキシコ
6位:台湾(チャイニーズ・タイペイ)
7位:中国
8位:オーストラリア
9位:イタリア
10位:オランダ 
 
※太字は東京五輪出場国

上の写真は試合開始前に整列する両チームの選手達

上の写真は日本の選手

上の写真はオーストラリアの選手

試合の結果は日本が8対1で5回コールド勝ちで幸先の良いスタートとなりました。

尚、7月22日(木)の対メキシコ戦でも3対2で勝利し、順調な立ち上がりで難敵の

米国、カナダとの試合に臨めます。

 

関連Youtube動画

東京五輪初戦 ソフトボール日本が豪州に8対1で勝利(2021年7月21日)

 

ソフトボール第2戦 “無観客”で会場周辺は閑散(2021年7月22日)

 

開会式関連

 Review: The Tokyo Olympics opening ceremony was more of a whimper than a bang (yahoo.com)

 How to watch the Tokyo Olympics Opening Ceremony: Live stream, TV, start time, channel, date, schedule (yahoo.com)

 

上の写真は開会式の会場となった国立競技場

205の国、地域、難民が参加して実施されます。

上の写真は日本の選手団の入場場面 583人の選手団

上の写真は難民国の選手団の行進 シリア、スーダン等の29人が参加予定

上の写真は最終聖火ランナーで聖火を点火した大坂なおみ選手

17日間の熱戦がスタートします。

点火台は山の頂上に置き、太陽をイメージした球体が点火時に花のように開くことで

生命力と希望が表現されています。聖火の燃料には、五輪史上初めて水素が使用された。

開会式で点火された聖火は場所を移し、「夢の大橋」で大会期間中にともされます。

主催者は聖火台の見学を自粛するよう呼び掛けていますが最初から多くの人が集まって

いるこちが報道されていました。

オリンピックのスローガンが浮かびあがりました。

 

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須磨ベルトコンベアと高倉山

2021年07月23日 12時10分06秒 | 神戸情報

2021年6月22日14:05~14:45 NHK総合テレビで放送の よみがえる新日本紀行

「丘に上がった神戸」を録画で視聴しました。昭和44年(1969)に放送された番組です。

 

この番組で紹介された須磨ベルトコンベアと高倉山を主題として写真紹介していきます。

以前に書いた下記のブログと重なる部分もあると思います。

 須磨ベルトコンベヤ - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

須磨ベルトコンベア

上の写真は高倉山からコンベアで運搬された土砂がストックされる場所と

一の谷川沿いに設置された須磨ベルトコンベアに移送される場所です。

 

高倉山

上の2枚の写真は高倉山の土砂採掘現場 右手奥に神戸女子大学の校舎建物が見えています。

4,600戸の高倉団地が建設予定との解説がありました。

高倉団地は阪神淡路大震災で家屋の倒壊率が最も少なかったことでも有名です。

 

ポートアイランド

上の写真は建設中のポートアイランド

 

プッシャーバー

上の写真はプッシャーバー

 片側にダンプカー500台分の土砂、左右でダンプカー1,000台分の土砂を運搬

 

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我が国最古の跨線橋「相生橋」 in 神戸市

2021年07月22日 06時25分59秒 | 昔こんなものがあった 明治編

上の写真は「川がないのに橋がある」とうたわれた相生橋付近のものです

出典:市民のグラフ こうべ No.112(1982年、1)の表紙

撮影日:不明であるが写真左手に「兵庫県里程元標」の石碑があることから明治43年(1910)

以降に撮られた写真で相生橋は昭和6年(1921)10月に鉄道の高架化によりなくなっているので、

また市電が写っていないので明治時代最後期に撮られたものであろうと思われます。

 

写真に写っているもの:

左手に写っている洋館は明治12年(1879)設置の神戸警察署か

人力車が数台みられる。大八車による運搬。商店街が道路の両側にあり人通りが多い

歩いている人々から大正時代の風俗が想像できます。

電柱が見られるがまだ初期のころで電線が高圧のみである。

木々が見られるのは湊川神社境内のものか

 

 

 

 

相生橋

上の写真は浮世絵師の長谷川小信によって描かれた錦絵で我が国初の跨線橋の相生橋から

蒸気機関車が走るのを見学する人々を描いたものです。

出典:神戸市立中央図書館 貴重資料デジタルアーカイブ(神戸市立博物館蔵)

跨線橋(こせんきょう)とは橋の一種で、鉄道線路を跨ぐ(またぐ)もの。道路をまたぐ

橋は跨道橋という。 鉄道駅構内で駅舎やホーム同士を連絡するために架けられるものが多い

鉄道は明治7年(1874)3月21日に神戸-大阪間に建設され試運転行われた。開業は同年5月11日

相生橋は鉄道の開設当初より存在していました。

上の写真は市電が走り出した頃の相生橋付近(現在の神戸駅東ガード付近)

出典:出典:市民のグラフ こうべ No.111(1981年、12)の表紙

 

上の写真は中右コレクションの絵葉書で神戸ステーションの東、元町通りの西口付近の

相生橋 明治43年(1910)開通した民営・市街電車が写っていないのでそれより以前の

景観であると判断できます。

出典:市制100周年記念 懐かしの神戸絵ハガキ聚(明治・大正)編集・解説 中右瑛

 

今の神戸駅の東と元町通り西口との中間地点、西国街道と東海道との交叉点に相生橋が

架設されました(明治7年)。

上の写真はまだ電燈もない明治10年(1877)頃のものである。奥が神戸駅

出典:市制100周年記念 懐かしの神戸絵ハガキ聚 編集・解説 中右瑛(平成元年)

 

兵庫県里程元標

兵庫県里程元標は上記の国鉄高架化に伴い、一旦、湊川神社正門付近に移設された後、

現在の場所(元町商店街6丁目のアーケードを出たところ)に移設されました。

上の写真は現在の兵庫県里程元標の碑  2007-10-25撮影。

 

里程元標について(現地説明板より)

旅は道づれ世は情けというが昔の旅人たちにとって唯一の道しるべは里程標でありこれによって明日への旅の希望を抱かせる心の糧ともなったのである。
兵庫県の里程元標は元相生橋の西詰に在ったが昭和6年10月国鉄高架線の完成により相生橋の撤去と共に取り除かれ保存されていたのであり往時を偲ぶよすがとしてここに移転復活したものである。    文:及川英雄
(元の所在地より西へ約150米移す)
昭和35年年5月吉日

 

関連ブログ

 初代神戸駅 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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餃子の王将 名谷店でのランチ on 2021-4-17&6-21&7-9

2021年07月21日 03時53分56秒 | 神戸情報

2021年4月17日と6月21日、7月9日餃子の王将 名谷店で頂いたランチを

写真紹介します。

 

餃子の王将 名谷店の基本情報

住所:神戸市垂水区名谷町入野堂面686−2 TEL:078-708-8418
営業時間:月~木 11:00~24:00  金・土 11:00~翌2:00 日 11:00~22:00
定休日:なし(無休) 

公式サイト:https://www.ohsho.co.jp/

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

4月17日

上の写真はミニサイズの炒飯 272円(税込)

上の写真はミニサイズのニラレバ  315円(税込)

写真はありませんがこれらに餃子2人前を注文しました。 合計金額2人で1,071円(税込)

 

6月21日

上の写真は当日、注文したミニサイズの天津飯293円(税込)ニラレバ 315円(税込)

八宝菜330円(税込)、餃子2人前484円(税込) 合計1,422円(税込)

 

7月9日

上の写真は当日、注文したミニサイズの炒飯 272円(税込)、ニラレバ315円(税込)

鶏の唐揚げ330円(税込)、餃子2人前484円(税込) 合計1,401円(税込)

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明石の灯台、本当に最古?

2021年07月20日 05時12分36秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年7月3日、神戸新聞夕刊で表題のような見出しで明石・旧波門崎燈籠の築造に関する

記事が掲載されていました。

明石・旧波門崎燈籠の築造に関して下記ブログで纏めています。

 明石港の旧波門崎(はとさき)燈籠堂 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

上記記事で書けなかった事項と上述の新聞記事での解説事項を整理して纏めてみました。

本題に入る前に旧波門崎燈籠について現地説明版を使用して写真紹介します。

上の写真は現地まで行って撮った明石港旧灯台の写真です。
付近は釣のメッカらしく釣り人が多くおられました。

撮影日:2012年10月26日

上の写真は現地の説明板です。下記のように記載されています。
明石港旧灯台の沿革
明石港の灯台は1657年(明暦3年)に明石藩主松平忠国によって舟人の目標とする
燈明台(とうみょうだい)として造られたといわれています。
明治以前の「航路標識年表」(1968年 第五管区海上保安本部刊)によれば、
近畿で四番目に造られた灯台となります。
その当時は、江戸へ荷物を運ぶ菱垣廻船が活躍しはじめ、明石港も瀬戸内海の
物資の交易のため、潮流の速い海峡の潮まち港として、また淡路への連絡港
として重要な位置を占めるようになってきた頃です。
大正時代の写真には、港口を行き交う帆船とともに、木製の燈籠部も写っており、
昔の姿がしのばれます。
昭和7年(1932)に改修が行われて灯台となり、明石市が管理することになりましたが、
終戦後、連合軍の指令により、昭和26年(1951)5月明石市から国へ移管されました。
昭和38年(1963)3月、灯台としての機能が廃止され、照明機器などは撤去されましたが、
本体そのものは国有財産として残されていました。
その後、この灯台は港の歴史を示すシンボルであり、明石の貴重な歴史資産である
ということで、昭和60年代の初め頃から、兵庫県と明石市が国に対して譲渡の働きかけ
を行い、平成11年(1999)9月に明石市に譲渡されたものです。

 

これからは上述新聞記事からの要約です。

旧波門崎燈籠堂は明暦3年(1657年)の築造とされる。明石市は2004年、築造時の姿に復元

する計画を立て、学識者らによる研究会を設置。台形の台座に灯籠部が設置された石造りの

灯台の中では最古との調査結果をまとめた。

形状を厳密に区分したのは理由がある。「日本燈台史 100年の歩み」(海上保安庁編)

によれば現存する旧灯台で最も古いのは1628年(寛永5年)に造られた「春日崎灯明台」

(新潟県佐渡市)で石材を段々に積み上げた形状で明石の旧灯籠堂とは異なる。

しかし、この見解にも疑問符がつく。明石市の稲原昭嘉・文化財担当課長によれば

明石城の築城時(1619年)に港の整備も行われ、燈籠堂も設置されたのではと説明。

上の写真は明石の灯台の変遷を図示したものです。

出典:明石市立文化博物館企画展示、発掘された明石の歴史展「明石の港津」の冊子Page60より

明石の灯台は上の図のように改造、修復を繰り返されており石の台の上に平屋の建物が

載っているいる所謂、燈籠堂の形式になったのはⅢ期の1657年以降である。

上述の新聞記事では「播磨国明石城図」(1664年に刊行)に平屋の燈籠台の表記

上記、灯台の変遷ではⅡ期に該当します。

 

さらに上述新聞記事には灯台の魅力いろいろと題して「日本最初の西洋式の灯台は神奈川県の

観音埼灯台(1869年)と海面から光源までが約284mある余部埼灯台」を紹介されています。

また、波門崎燈籠堂は今後修復・復元しライトアップするなどして観光資源にする計画であること

2014年に国の登録有形文化財に、2021年に明石市指定文化財になったことも紹介しています。

 

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神戸旧居留地の返還の日 on 1899-7-17

2021年07月19日 05時40分58秒 | 神戸情報

一昨日(7月17日)は神戸旧居留地の返還の日でした。

明治32年(1899)7月17日10時、居留地38番居留地警察署楼上で行われた返還式には

日本側から兵庫県知事の大森鍾一、神戸市長の鳴滝幸恭など多くの関係者が出席した。

居留地側からは、副会頭のA.C.シム、居留地行事局長のヘルマン・トロチックをはじめ

居留地の住民も多く出席した。

病気で出席できなかったジョン・クーリー・ホールの代わりに挨拶に立ったのはフランス領事

de Lucy Fossarieuであった。彼の返還式でのスピーチの概要は以下のとおりです。

「30年前、日本当局が我々外国人に神戸の居留地を引き渡した時、その地は正真正銘の

砂地でした。私たちはその場所を、美しい建物が建ち並び、倉庫という倉庫には商品が

あふれている立派な町に変えて日本政府に返還いたします。この町こそ西洋諸国民の才能

を示す実例であり象徴であります。その旺盛な進取の気風、倦むことのない企業精神、

忍耐、倹約、そして商業経験、これらが神戸の発展に大きく寄与してきたのです。

居留地の歴史はそのまま神戸の歴史を述べることになるでしょう。この30年間、居留地内で

特筆されるような大きな紛争は一つもありませんでした。広く美しい並木通り、夜間ガス燈

が明るく照らし出す見事な煉瓦造りの歩道、石畳の十字路、今後さらに利用度が高められようと

している遊園地、この整然とした居留地は東洋一との評価を得ています。

絶えず下水道を点検し、街路や建物の清掃に心がけ、警察の維持や墓の管理などに注力

してきました。(以下略)」

居留地の返還は明治27年(1894)7月16日、第2次伊藤博文内閣の外相、陸奥宗光のもと

ロンドンで駐英公使、青木周蔵とイギリス外相キンバレーによって日英通商航海条約が

調印され施行されたことで実現しました。

この条約により外国人の居住や旅行の自由などを認める内地開放(内地雑居)を代償として、

ようやく領事裁判権が撤廃され、関税自主権も一部回復した。

政府はその後同じ内容の条約をアメリカ、フランスなど14ヵ国と締結した。これら一連の

条約は1899年(明治32年)7月17日に発効し、神戸外国人居留地は日本側に返還された。

居留地会議から神戸市に引き継ぎが行われ、遊園地、墓地、消防用具、ガス燈などを

神戸市が管理することとなった。

返還以降、旧居留地の中に多くの日本人が入り込むようになりビジネスの中心地として

発展していくことになります。

 

 

 

上の写真は居留地38番の前での記念写真 神戸市文書館蔵

上の写真は神戸居留地38番の位置(ピンク印)を示した地図

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舞子浜遺跡の埴輪棺と五色塚古墳の埴輪は同じ工人集団が製作

2021年07月18日 06時02分14秒 | 神戸情報

令和3年(2021)度春季企画展 国史跡「五色塚古墳の歩み」が神戸市埋蔵文化財センター

で開催中です。7月25日まで開催されています。

この展示のなかで「舞子浜遺跡の埴輪棺と五色塚古墳の埴輪は同じ工人集団が製作した

という点に興味を持ちましたので紹介します。

上の写真は五色塚古墳の円筒埴輪(左)と舞子浜遺跡の埴輪棺

5条6段のタイプで1,3,5段目の透孔があります。

 

上の写真は説明パネルで舞子浜遺跡の埴輪棺と五色塚古墳の埴輪の共通性について

記載されています。

最下段の高さ35cmとその他の段高さ17.5cmの組み合わせも一致

ヘラ記号(作者を示したものか?)も一致しています。

これらから同じ工人集団が製作したことが明らかです。

舞子浜遺跡は五色塚古墳の西約1Kmの地点にあり埴輪棺が19基見つかっています。

棺には円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋形埴輪、盾形埴輪などが用いられていました。

上の写真は奈良文化財研究所の廣瀬覚さんの講演(2021-7-3)資料からで

刷毛目のパターンが一致している証拠を示したものです。

廣瀬覚さんは埴輪製作の工人集団が移動して埴輪を製作していったことに関して

次の資料(下の2枚の写真)で説明されました。

 

下記の企画展示で舞子浜遺跡についての展示がありましたので写真紹介します。

平成31年度神戸市埋蔵文化財センター 春季企画展 「海を見つめて」  on 2019-

 

上の写真は舞子浜遺跡の円筒埴輪棺出土状況

上の写真は神戸市埋蔵文化財センターの保管倉庫内の埴輪棺と人骨

上の写真は人骨に関する説明パネル

棺を取り巻く溝(SD01)からは古墳時代前期後半頃の土器が出土しています。

 

私は2021年6月12日、6月26日、7月3日及び7月17日に企画展を観覧しました。

興味のある方は是非、足をお運びください。7月25日まで開催中

観覧記について下記ブログで纏めています。

 令和3年(2021)度春季企画展 国史跡「五色塚古墳の歩み」観覧記 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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2021年、神戸市における蝉の初鳴きと梅雨

2021年07月17日 17時30分06秒 | 神戸情報

2021年7月11日に同じ表題で記事を書いています(下記ブログ)が

近畿地方の梅雨明けが本日(2021-7-17)発表されましたので追記しました。

2021年、神戸市における蝉の初鳴きと梅雨 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

2021年7月10日(土)、神戸市でセミの初鳴きを観測しました。

上の写真は我が家の庭の蝉 2021-7-11撮影

上の写真は我が家の庭で見つけた蝉の抜け殻 撮影:2021-7-11

2021年の近畿地方の梅雨入りは5月16日でした。

平年より21日早く、去年と較べると25日早い梅雨入りとなりました。

   後日、訂正され6月12日の梅雨入りとなりました。

 

セミ 蝉 Cicada 学名:Cicadoideaについて

Wikipediaで調べて見たら下記のように書かれていました。
「蝉が鳴く時間帯は種類によって異なり、種類を判別する有効な手がかりとなる。
たとえば日本産セミ類ではクマゼミは午前中、アブラゼミやツクツクボウシは午後、
ヒグラシは朝夕、ニイニイゼミは早朝から夕暮れまで、などとなる。
夏に多いとはいえ真昼の暑い時間帯に鳴くセミは少なく、比較的涼しい朝夕の方が多くの
種類の鳴き声が聞かれる。」

例年、神戸市における蝉の初鳴きと梅雨という題でブログを作成しています。

 

2020年の蝉の初鳴きと梅雨

セミの初鳴き 7月9日 梅雨入りは6月10日 梅雨明け 7月31日

 

令和元年(2019)、蝉の初鳴きと梅雨 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

令和元年(2019年)のセミの初鳴きは7月13日に自宅(神戸市)にて聞きました。(あくまでも私が聞いた日なので正確にはもう少し早い時期だと思...

令和元年(2019)、蝉の初鳴きと梅雨 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

 

 

2019年の蝉の初鳴きと梅雨

セミの初鳴き 7月13日 梅雨入りは6月25日 梅雨明け 7月24日

2018年の蝉の初鳴きと梅雨
セミの初鳴き 7月13日 梅雨入りは6月6日 梅雨明け 7月9日

2017年の蝉の初鳴きと梅雨

セミの初鳴き 7月13日 梅雨入りは6月7日 梅雨明け 7月19日

2016年の蝉の初鳴きと梅雨
セミの初鳴き 7月11日 梅雨入りは6月4日 梅雨明け 7月18日

2015年の蝉の初鳴きと梅雨
セミの初鳴き 7月14日  梅雨入り 6月3日 梅雨明け 7月20日

2014年の梅雨と蝉の初鳴き
セミの初鳴き 7月15日   梅雨入り 6月4日 梅雨明け 7月21日

2013年の梅雨明け宣言とセミの初鳴き
 セミの初鳴き 7月16日 梅雨入り 5月28日 梅雨明け 7月8日

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