CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

ジョリーパスタ 離宮公園店でのランチ on 2021-7-16

2021年07月17日 04時39分09秒 | 神戸情報

2021年7月16日、ジョリーパスタ 離宮公園店でランチを頂きましたので

写真紹介します。

今迄、何回も訪問していますが今回、初めてピザを注文したのでブログを書きました。

 

ジョリーパスタ 離宮公園店の基本情報

住所:神戸市須磨区離宮西町2-3-21 TEL:078-733-2141 

料理ジャンル:イタリア料理

営業時間:11:00~20:00(緊急事態宣言の1/14以降) 定休日:なし

公式サイト:http://www.jolly-pasta.co.jp/

 

所在地のGoo地図を添付しておきます。

 

上の写真はジョリパスでは初めて注文したピザ「マルゲリータ」

チラシの割引券を使用して490円(税別)でした。

上の写真は金曜日の日替りパスタ シェフのお勧め 630円(税別)

エビと茸の醤油バター炒めとろろ昆布添え

また、割引のドリンクバー(100円)を2人前注文して総額2人で1,452円(税込)でした。

 

今回の注文内容は奥様も満足したようでした。

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湊川神社 第9代宮司 上月為蔭について

2021年07月16日 05時26分50秒 | 神戸情報

本日は湊川神社 第9代宮司 上月為蔭について調べた結果を記載していきます。

参照資料:

 1)上月豊蔭とは - コトバンク (kotobank.jp)

 2)先賢小傳 兵庫県神社庁神戸市支部先賢小傳編輯委員会(1998)Page85-86

 

上の写真は上月為蔭氏の肖像 出典:2)

 

上月為蔭(1865-1925)は慶応元年(1865)11月5日海神社の宮司の上月豊蔭

長男として出生。本籍地は播磨国飾東郡子桜町。

旧制姫路中学を卒業後、亀山雲平、本居豊頴翁につき国漢文を修め、明治26年(1893)

裁判所書記登用試験及第、神戸地方裁判所書記、行政裁判書記となり明治34年(1901)

神奈川県属、都築郡長に任ぜられた。

明治35年(1902)4月に官を辞し厳しい父のあとを継いで官幣中社海神社宮司被仰付、

全国神職会皇典講究所評議員、兵庫県皇典講究分所理事、試験委員及び祭式講師など

を委嘱され、大正元年(1912)正六位に叙せられた。

大正3年(1914)7月、官幣中社生田神社宮司を拝命したが、同年9月9日境域改修の内命

により別格官幣社の湊川神社の9代目に就任。

早速、境内の露店取払に着手し表門付近を整理し一変させた。

大正8年(1919)大々的に堺域改修奉賛会を組織して境内の大改修を実施(社殿改修など)

今日の境内風致維持の基礎を築かれました。

大正12年(1923)12月27日、病気のため湊川神社宮司の職を辞した。

大正14年(1925)2月7日に湊川神社の宮邸にて死去。

墓所は東垂水にあり。 後日、探しに行く予定です。

 

遺詠

「春はただ心なし花にのみあくがれぬべき此世ならねど」

 

湊川神社について書いたブログ

 湊川神社の創建 と折田年秀 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 明治中期の湊川神社の賑わい - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 塩田富造氏 頌徳碑 in 湊川神社 on 2016-10-23 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 楠公父子桜井の別れ図絵馬(復元模写)in 湊川神社 on 2019-3-3 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 乃木将軍と神戸 -神戸に来た史上の人々ーより - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 楠木正成の命日(5月25日)に湊川神社内墓所に墓参 on 2020-5-25 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 神戸市と周辺地域の祭 その1 年の初めの祭 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 大楠公一代記 in 湊川神社 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 佐野常民が初めて持ち帰ったオリーブ樹 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 日本最古オリーブ、枯死の恐れから復活 in 湊川神社 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 湊川神社 楠木正成公戦没地 on 2019-3-3 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 大楠公一代記 in 湊川神社 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 楠公武者行列 on 2018-5-26 (その3)完 神幸列甘南備神社(じんこうれつかんなびじんじゃ) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 楠公武者行列 on 2018-5-26 (その2) 神幸列本社(じんこうれつほんしゃ) - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 楠公武者行列 on 2018-5-26 (その1) 前陣武者列 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 神戸七福神 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 西の海運王光村弥兵衛が奉納の灯籠 in 湊川神社 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 神戸オリーブ園で日本初のオリーブオイルの採取に成功 on 明治15年(1882) : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 楠公武者行列 on 2013-5-26 (その2) : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 楠公武者行列 on 2013-5-26 (その1) : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 湊川神社 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 湊川神社の石造り大鳥居 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

 水戸光圀公の銅像と顕彰碑 : 散策とグルメの記録 (exblog.jp)

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NHK大河ドラマ「青天を衝け」第22回「篤太夫、パリへ」で登場のパリ万博関連人物

2021年07月15日 03時14分22秒 | Weblog

本日は7月11日に放送のNHK大河ドラマ「青天を衝け」第22回「篤太夫、パリへ」で

登場のパリ万博関連人物をテーマに書いていきます。

 

慶応3(1867)年1月11日(新暦換算1867年2月5日)、後に「日本資本主義の父」と

称される渋沢栄一は、将軍徳川慶喜(1837-1913)の名代としてパリ万国博覧会

出席する徳川昭武(1853-1910)に随行し、フランス帝国郵船アルフェー号で横浜を発った。

上の写真はアルフェー号の船上で船酔いに苦しむ渋沢篤太夫(吉沢享)、その右手には

日記をつけている杉浦愛蔵(志尊淳)、写真中央は同じく船酔いで苦しむ向山一履(岡森諦)

と向山を介抱している田辺太一(山中聡)

杉浦愛蔵については第21回の番組での人物紹介(下記ブログ)で記載しているので省略します。

 NHK大河ドラマ「青天を衝け」第21回「篤太夫、遠き道へ」で登場のパリ万博関連人物 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

一行は55日後の3月7日ようやくパリに到着します。

ここで、向山一履(岡森諦)、保科俊太郎(後藤田しゅんすけ)、田辺太一(山中聡)の

人物紹介をしておきます。

向山一履(岡森諦) 随行時42歳

向山一履 (むこうやま-かずふみ)はパリ万国博覧会に出席した全権公使。

一般的には、向山黄村として知られています。随行時の役職は御勘定奉行格外国奉行

 

上の2枚の写真は滞在先のグランドホテルで案内役の銀行家フリュリ・エラール(グレッグ・デール)

と通訳のメルメ・カション(ド・ランクザン望)から皇帝ナポレオン3世との謁見式まで

2週間しかない急ぎましょうとの声かけに通訳の保科 正敬(ほしな まさたか)が訳した

のに対して向山一履は承知と返答する場面

渋沢栄一は後に、銀行の仕組み他、色々なことをポール・フリュリ・エラールより学びます。

「フリュリ・エラールが軍人と対等に接するのを見て、身分制の打破と実業の地位向上の

必要を痛感したと」渋沢栄一は後年述べている。

 

保科 正敬(後藤田しゅんすけ)随行時25歳

上の写真は保科俊太郎(後藤田しゅんすけ)がフリュリ・エラールのメッセージを

外国奉行で全権公使の向山に伝える場面

 

田辺太一(山中聡) 随行時37歳

向山ら外国方は「琉球王国」の展示への対策を話し合い、外国奉行支配組頭の田辺太一

薩摩との交渉を託した。田辺は薩摩藩家老の岩下佐治右衛門(俵木藤汰)と

シャルル・ド・モンブラン(ジェフリー・ロウ)と琉球王国の展示について問いただした。

岩下はすべてモンブランが琉球王国博覧会委員長として手配してくれたと答える。

モンブランの和名は白山、パリ万博会場で名刺を配布していた。モンブランは以前、

幕府に貿易及びパリ万博への出展に協力を申し出ていたが拒まれたことそれに対して

薩摩藩の五代才助(ディーン・フジオカ)はすべてを託してくれたと語った。

この場で田辺はモンブランに薩摩の旗を降ろして日の丸の下にすべての品を並べること、

そして薩摩の品の出品者が「琉球王国」となっているのを将軍を意味する「大君」に

書き換えることを求めた。それに対しモンブランは薩摩の旗を外すことは了承し、出品者

として「薩摩太守」とすると答えた。田辺はそれを了承した。

ところが問題はこれでは済まなかった3月18日付けの現地の新聞に「日本は一つの国では

なく連邦国」という記事が掲載されたのだ。モンブランは幕府の品に「大君グーヴェルマン」

薩摩の品に「薩摩太守グーヴェルマン」と記していた。グーヴェルマンとはフランス語で

政府のことだ。そのため将軍も薩摩藩主と同格の有力な一大名にすぎないと思われてしまった。

向山らは幕府を貶めようとする薩摩とモンブランの策略にかかったのだと気づいた。

上の2枚の写真はフランス語で書かれた「大君」と「薩摩太守」

上の写真はフランスの新聞(L’ILLUSTRATION)で紹介された徳川昭武

上の写真はフランスの新聞記事で「大君は日本の皇帝ではない」の記事

上の写真は「日本が一つの国ではなく連邦国」であるとするフランスの新聞記事

マルセイユでの記念写真。随行者31名のうち23名が写っています.

文章をよんでいるのは山内文次郎。

上の写真はパリ万国博 使節団(随員)の集合写真 マルセイユにて(23名)

随行者31名のうち23名が写っています。出典:NHK BSP「英雄たちの選択」

1867Delegation.jpg (1200×800) (wikimedia.org)

前列向かって左からアレキサンダー・シーボルト保科俊太郎(歩兵頭並)、

山高石見守(昭武守役)、井坂泉太郎(小姓頭取・水戸藩士)、徳川昭武

菊池平八郎(小姓頭取・水戸藩士)、向山隼人正(全権公使)、田辺太一(外国奉行支配組頭)、

レオン・デューリー、後列、左より渋沢栄一、山内文次郎、高松凌雲(奥医師)

木村宗三、服部潤次郎(水戸藩士)、皆川源吾(水戸藩士)、加治権三郎(水戸藩士)

大井六郎左衛門(水戸藩士)、三輪端蔵(水戸藩士)、杉浦譲山内六三郎(通弁御用)

生島孫太郎(外国奉行並出役)、日比野清作(外国奉行調役)、箕作麟祥(御儒者次席・翻訳方頭取)

 出典:戸定歴史館(松戸市) 編『将軍のフォトグラフィー : 写真にみる徳川慶喜・昭武兄弟』
    松戸市戸定歴史館(1992)Page164

 

上の2枚の写真はパリに到着直後の渋沢篤太夫と一行が見たパリの街並み

 

上の2枚の写真はアレキサンダー・シーボルト(アレキサンダー・サガラ)の案内で

訪れたパリ万博の会場です。保科俊太郎については前述し、高松凌雲については

第21回の番組での人物紹介(下記ブログ)で記載しているので省略します。

 NHK大河ドラマ「青天を衝け」第21回「篤太夫、遠き道へ」で登場のパリ万博関連人物 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

アレキサンダー・シーボルトは渡仏の航海中に通訳をかって出て、全権公使の向山に

気に入られていたがイギリス政府が幕府使節団(仏政府から600万ドル借款の役目を担う)

の状況を探るために派遣したスパイであった。公には在日英国公使館の通訳。

上の2枚の写真はイギリス政府外務次官宛ての手紙を書くシーボルト

 

山内六三郎(松永拓野) 派遣時29歳

渋沢篤太夫(吉沢享)は山内六三郎松永拓野)に通訳してもらい、ホテルの人から

ろうそく1本が1フランだと確認していました。

山内六三郎(1838~1923)は文久3年(1863)、遣仏使節・池田長発 に随行。

慶応3年(1867年)、パリ万国博覧会には2回目の渡仏で徳川昭武の通訳として随行。

 実際の人物の写真は下記サイトで見れます。

 横浜鎖港使節・パリ万博使節他写真. 写真(山内六三郎) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

 

山内文次郎(渋谷謙人)派遣時は19歳

民部公使・徳川昭武が泊まるホテルの料金を武士だからという理由で絶対に値切ろうと

しない通訳の山内文次郎(渋谷謙人さん)と喧嘩になりかけ、結局、根切交渉に

応じなかった。

田辺太一とともにモンブラン伯爵との交渉に関わっています。(写真は前に添付)

Wikipediaによれば、山内文次郎(1848-1912)は維新後、沼津兵学校で教授を務める。明治6年(1873年)外務省の官僚となり、ロシア臨時代理公使、イタリア臨時代理公使を歴任。後に宮内省に移って大膳亮。式部官兼宮中顧問官在任中の大正元年(1912年)に死去した。

 実際の人物の写真は下記サイトで見れます。

 横浜鎖港使節・パリ万博使節他写真. 写真(山内文次郎勝明) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

上の写真は渋沢篤太夫、杉浦愛蔵、保科俊太郎らが泊まるシャルグラン通り30番地のアパートで

そこの住人からポトフをもらって持ってきた山内六三郎(松永拓野)の姿を見て篤太夫は

山内六三郎とともに徳川昭武が泊まる宿舎の料金根切り交渉をすることとなる。

 

 

上の2枚の写真は渋沢篤太夫と高松凌雲がパリ万博もメイン会場の屋上へ水力エレベーターと

階段で登り次の言葉を語る場面です。

参った!物産会(ぶっさんえ)どころか何日かけても見切れねぇ品ばかりだい。にもかかわらず、ちっぽけな俺は言葉も通じず、その品々を見定める目も、考える頭すらねぇや。夢の中にいるみてぇだ。(篤太夫)

 

 

上の写真はナポレオン3世に謁見する徳川昭武(15代将軍徳川慶喜の名代)の一行

民部公子・徳川昭武(板垣李光人さん)は、ナポレオン三世に謁見し、第15代将軍

徳川慶喜(草彅剛さん)の名代としての役目を見事に果たしました

 慶応3年3月24日、徳川昭武、外国奉行向山一履(隼人正)等ヲ随ヘテ仏国皇帝

 ナポレオン第三世ニ謁ス。栄一陪セザリシモ、仏国皇帝ヘノ献上品ヲ宮中ヘ

 送致スル事ニ当ル。尋イデ同月二十八日軽気球ヲ観ル。

上の写真はナポレオン3世(ジュリアン・ジョラン)とウジェニー皇后(マリー・モリエット)

上の写真は謁見会場のチュイルリー宮殿

 

慶応3年4月12日(新暦換算1867年5月15日)

 渋沢栄一、書記官の木村宗三と杉浦譲(露人)の3名は、シャルグラン通り30番地のアパートへ

 番組では保科俊太郎もこのアパートに投宿との場面がありました。

 

山高信離(山本浩司)

徳川昭武の教育係を務めた人物です。番組では今後も出演の場面があると思います

実際の写真は下記サイトで見れます。

 横浜鎖港使節・パリ万博使節他写真. 写真(〔山高石見守〕) - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

以下はWikipediaより

幕臣として生まれる。号は紫峰、紫山。官途は石見守。慶応3年(1867年)パリ万国博覧会に参列する徳川昭武に随行する。維新後はウィーン万国博覧会など、各地の万博に派遣されて事務局などに勤めた。後年は帝国博物館長、京都・奈良帝国博物館長を歴任。また椿椿山に学び、文人画を描いた。

 

慶応3年5月11日(新暦換算1867年6月13日)

 徳川昭武らがグランドホテルからベルゴーレ街53番地に移る(経費節減)

上の写真は渋沢篤太夫と山内六三郎が根切交渉に成功した新しい宿舎での場面

5人の水戸藩士(徳川昭武の護衛)実際に同行した水戸藩士は7人

 

井阪泉太郎(林雄大) 派遣時30歳

上の写真はホテルのボーイの挙動を非礼だとして大声叱責する場面

Wikipediaによれば井阪泉太郎(1837~1897)の諱は貞行。 主君徳川慶篤の弟徳川昭武の小姓頭取を務め、1867(慶応3)年、昭武が将軍名代としてパリ万国博覧会に派遣された際、これに随行した。 明治以後は泉と称して水戸家の事務局に入り家扶(もしくは家令)となって最後まで主家につかえ明治30年に没した。享年63歳。

菊池平八郎(町田悠宇) 派遣時32歳

加地権三郎(尾関伸次) 派遣時32歳

 

服部潤次郎(石川啓介) 派遣時34歳

 

三輪端蔵(川端康太) 派遣時33歳

 

 

パリ万博関連サイト:

 Japan and the 1867 Paris Exposition | TJJ ONLINE (japanjournal.jp)

 NHKBS3の番組「渋沢栄一 in パリ万博」を視聴して on 2021-2-20 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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石窯パン工房マナレイア 神戸ジェームス山店でのランチ on 2021-7-13 及び最近の訪問記

2021年07月14日 07時12分50秒 | 神戸情報

2021年7月13日(火)に石窯パン工房マナレイア 神戸ジェームス山店でランチ
をいただきましたので写真紹介します。久々の訪問でした。

同時に最近の訪問記も書きました。

焼きたてパンが魅力的で美味しいお気に入りのお店です。

石窯パン工房マナレイア 神戸ジェームス山店の基本情報

住所:兵庫県神戸市垂水区青山台7丁目5-1 TEL:078-798-7858
料理ジャンル:焼きたてのパン
営業時間:9:00~19:30(以前は7:30から開店していました)
定休日:なし
オープン日:2015年10月30日

公式HP:http://www.manarhea.com/category/shop/kobe_jamesyama/index.html

地図は前にブログで書きました(下記リンク)ので略します。
 http://blog.goo.ne.jp/chiku39/e/fb5de58d3a2319e0d0ae029ade143059
 
平日はコーヒーが無料でサービスされますが土日は有料110円(税込)になります。
今までは、ほとんど朝食での利用でしたが最近はランチとしても利用しています。

 

2021年7月13日(火)の訪問記

上の写真は奥様が選択した明太子フランス 283円(税込)、パイ・デニッシュF 259円(税込)

上の写真は私が選んだアジフライと野菜がサンドされたサンドイッチ 230円(税込)

と王様のクリームパン 164円(税込)

2人で総額933円(税込)でランチとしては安上がりで食事を楽しめました。

まだ、未訪問の方のために店頭の看板と店内のリーフレットの情報を添付しておきます。

 

上の3枚の写真は店頭のメニュー表看板など

上の写真は店内のリーフレットよりメニューの一部の紹介

 

最近の訪問記

 (1)2021年4月27日(火)

上の写真は私が選択した カスクート 295円(税込)

上の写真は奥様が選んだ 王様のクリームパン 164円(税込)、菓子パン 132円(税込)

究極のカレーパン 229円(税込)

当日の2人の総額は820円(税込)

 

 (2)2021年4月6日(火)

上の写真は当日注文した サンドイッチ303円(税込)、菓子パン132円(税込)

ツナエッグサンド235円(税込) 2人分です 総額670円(税込)

上の写真は人気メニュー ベスト10

上の2枚の写真は店の前の植え込みの花々

 

 (3)2021年1月20日(水)

上の写真は私が選択した 王様のクリームパン 164円(税込)、サンドイッチ220円(税込)

上の写真は奥様が選択した サンドイッチ306円(税込)、菓子パン189円(税込)

2人の合計額は879円(税込)

上の2枚の写真は店頭の看板(メニュー表)

上の写真はお店の外観

 

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香港ダイニング Shigeでのランチ on 2021-7-5

2021年07月13日 06時06分15秒 | 神戸情報

2021年7月5日、垂水センター街の香港ダイニング Shige でランチを
頂きましたので写真紹介します。

イタリア料理のUsagiのあった場所に2017年2月19日から営業した店です。


香港ダイニング Shigeの基本情報
住所:神戸市垂水区陸ノ町2−9  TEL:078-798-6056
料理ジャンル:中華料理
営業時間:ランチ:11:30〜15:00 LO14:30
     ディナー:17:00〜22:00 LO21:00
定休日:水曜日 第3火曜日

公式FB:https://www.facebook.com/hongkongdiningshige/

地図は下記の訪問記で記載しています。
 香港ダイニング Shige でのランチ on 2017-9-18

 

奥様も私も同じshigeランチ1,100円(税込)をいただきました

 

上の写真は最初に出てくるサラダ

奥様も私も好みの味で、ドレッシングも素晴らしく満足しました。

上の写真は当日のメイン

海老の甘酢あん、豚肉と茄子の黒豆(とうち)煮、その他詳しい内容は下の看板(下の写真)のとおりです。

 

上の写真はお店の外観です。

 

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淡路島で新種の恐竜化石 「ヤマトサウルス・イザナギイ」と命名

2021年07月12日 05時33分54秒 | 神戸市以外の兵庫県

2021年4月27日、表題の発表が北海道大学博物館でありました。

当日の夕方のNHKテレビの番組で視聴しました。その時にブログ作成をしていなかった

ので時期はずれましたが記事を書いて「いきます。

上の写真は経過を説明された北海道大学総合博物館の小林快次教授

この化石は、17年前の平成16年5月に兵庫県洲本市のおよそ7200万年前の白亜紀末期

の地層から、県内の化石の愛好家、岸本眞五さんが発見しました。

その後、兵庫県立人と自然の博物館による調査も行われ、岸本さんが発見したものと

合わせて23点の化石が見つかり、北海道大学総合博物館の小林快次教授らのグループが

解析を行いました。

研究成果は、2021年4月27日(火)イギリスの科学雑誌オンライン公開のScientific Reports誌

(Nature Publishing Group)に掲載されました。

学名はヤマトサウルス・イザナギイ( Yamatosaurus izanagii )と命名

ヤマトは、古代の日本国家を示す「倭(やまと)」を意味し、「イザナギ」は日本の

神話に登場する男神「伊弉諾(いざなぎ)」を指します。

兵庫県・淡路島の洲本市にある白亜紀末期(およそ7200万年前)の地層から見つかった

ことから上記の名前がつけられました。

上の2枚の写真は23点の化石の一部

上の写真は恐竜の歯の部分の化石を手に説明される発見者の岸本眞五さん

平成16年(2004)8月の記者会見

岸本さんは姫路市在住のアマチュア研究家、兵庫古生物研究会代表を務める化石愛好家

上の写真は2021-4-27の記者会見の様子

上の写真はハドロサウルス科の恐竜のイメージ

体長は7~8メートル、重さ4トン~6トンと推定されます。

今回、兵庫県立人と自然の博物館などの研究チームは、歯に他のハドロサウルルス類には

見られない特徴があることなどから新属新種の原始的なハドロサウルス科の恐竜であるとした

上の写真は岸本さんが発見した下あごの一部(長さ53センチ)。歯列の特徴から

新属新種と判明。世界各地で見つかった70種のハドロサウルス類と比較したところ、

ヤマトサウルスはハドロサウルス科の中でも原始型で、肩の骨部分が未発達なことから、

二足歩行だったとみられることも分かった。

上の3枚の写真はNHK Eテレ 7/7(水) 午後1:50-午後2:00 視点・論点「新種の恐竜化石が

教えてくれること」で北海道大学総合博物館教授の小林快次さんが説明に使用されたもの

 
国内で発見され学名がついた恐竜のうち北海道むかわ町の「カムイサウルス・ジャポニクス」
が派生的なハドロサウルスとして上の写真の3枚目に描かれています。
他には丹波市の「タンバティタニス・アミキティアエ」が有名

 

以下、関連サイトや動画を添付又はリンクしておきます。

【報道関係者向け説明会を実施】淡路島の恐竜化石を新属新種「ヤマトサウルス・イザナギイ」と命名(総合博物館 小林快次教授インタビュー) | 記者発表 | リサーチタイムズ (hokudai.ac.jp)

 

淡路島で新種の恐竜化石 「ヤマトサウルス・イザナギイ」命名 (c)サンテレビ Gooで共有

 

臨時展示「ヤマトサウルス・イザナギイ~ハドロサウルス科の繁栄の鍵を握る恐竜~」 - 兵庫県立 人と自然の博物館(ひとはく) (hitohaku.jp)

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平城宮東院地区の発掘調査(平城第633次)で孝謙天皇の宮殿か

2021年07月11日 04時02分02秒 | 奈良情報

平城宮跡(奈良市、国特別史跡)のうち、天皇や皇太子の宮殿があったとされる

東院地区で大型建物跡がみつかった。奈良文化財研究所(奈文研)が6月30日に発表した。

上の写真は発掘現場の概略位置を示したものです。 平城宮の案内図に書き入れたものです。

撮影:2016-10-5

上の写真は発掘現場 出典:なぶけんチャンネル

 

上の写真は現場付近 推定復元図  平城宮の説明板より 撮影:2016-10-5

平城宮は約1Km四方の敷地と東側に東西約250m、南北750mの張り出し部を持ち、
その南半分の南北350mの範囲を東院地区と呼んでおり皇太子がいる時はその居所
「東宮」として、いない時は内裏に準ずる天皇の居所「東宮」、「東院」、「東内」
として利用され、神護景雲元年(767)に完成した東院玉殿(瑠璃色の瓦を葺き彩色)
宝亀年間(770~780)には「揚梅宮(やまもものみや)」に改造
高麗福信(*1)が造営卿として造営を担当

瓦片や土器などから奈文研は奈良時代の749~770年の建物と判断。

孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇(孝謙天皇が再即位)の在位時期に当たる。

東西9柱間(約27メートル)、南北4柱間(約12メートル)と大型で、東院地区の中軸線上

にあることから天皇が住んだ宮殿の中心的な建物とみられる。

宮殿としてはこれまで、「内裏」や称徳時代に建てられた「西宮(さいぐう)」の

遺構が確認されている。

直径30〜50センチの柱50本が並んでいた床張りの建物で、屋根を檜皮などで

葺いたとみられる特徴から、役所などの施設ではなく、宮殿の居住施設だったと推定される。

 

孝謙天皇は聖武天皇と光明皇后の娘。749年に即位し、752年に東大寺大仏の開眼供養を営んだ。

文献によると、東院で役人らを集め宴会や儀式、法要を開いたとの記述もある。

僧・道鏡を重用したことでも知られる。

 

続日本紀には天平勝宝6年(754)1月7日46代女帝孝謙(48代称徳)天皇(2度即位)は
東院で五位以上の役人と宴会(後の白馬の節会に相当)をしたこと、さらに
神護景雲3年(769)1月17日、宝亀1年(770)1月8日にも宴会が開催された
記録が残っています。また種々の儀式もこの時期平城宮東院で挙行されていました。
49代光仁天皇(在位770-781)の時代にも773年に完成した東院・揚梅宮で
宴会が行われたことが上述の続日本紀で記載されています。

 

報道例1 NHK  平城宮跡 孝謙天皇の宮殿か 大規模な建物の跡見つかる|NHK 関西のニュース

報道例2 読売新聞 平城宮跡で大型建物跡が出土、孝謙天皇の宮殿か…専門家「天皇の日常空間」 : エンタメ・文化 : ニュース : 読売新聞オンライン (yomiuri.co.jp)

報道例3 毎日新聞 平城宮跡に8世紀の大型建物跡 天皇の別邸か 土地利用の変遷示す | 毎日新聞 (mainichi.jp)

 

関連ブログ

 平城宮跡東院地区の発掘調査(平城第593次調査) で台所跡などが見つかる - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

 平城宮跡の東院庭園 on 2016-10-5 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

 

Youtubeの「なぶけんチャンネル」で調査の内容が公開されています。

平城第633次 平城宮東院の発掘 プロローグ編

633次平城宮東院の発掘調査 第2章

平城第633次平城宮東院地区の調査 第3章50人柱プロジェクト

平城第633次平城宮東院の発掘調査第4章現場検討会編

 

最後に平城宮跡資料館春期企画展の様子についてなぶけんチャンネルよりGooで共有

平城宮跡資料館春期企画展 研究員による展示解説

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地球の歴史

2021年07月10日 05時08分34秒 | Weblog

2021年7月7日(水)高校講座「地学基礎」にて地球の歴史に関する講義がありました。

 番組の内容は下記サイトへ

  NHK高校講座 | 地学基礎 | 第13回 第2編 私たちの地球の変遷と生物の変化 地球史の最初期

 

地球の歴史について大阪科学技術館の展示(2012-1-18訪問)で「地球の歴史」について

絵入りで簡明な説明がされていましたのでそれらをベースに写真紹介します。

上記NHKの番組の内容も挿入して地球の歴史の概要について把握したいと思います。

さらに2020年9月5日の朝のNHKテレビ後期重爆撃期の話がありましたのでそれも挿入。

宇宙は約140億年前に誕生し、その後100億年近く経った約46億年前頃に、

ようやく原始太陽系が誕生しました。しかし、46億年前に、突然現在のような形になった

わけではありません。まず、星間雲が自らの重力で収縮し、太陽系の中心に恒星である

太陽が生まれました。

ガスや塵は徐々に結びつき少しずつ大きくなって、直径数kmの微惑星を形成しました。

微惑星は互いに衝突と合体を繰り返しながら巨大化していき、やがて直径1000kmを

超える原始惑星に成長しました。そして原始惑星どうしも衝突・合体を繰り返しました。

その結果生まれたのが、原始地球です。

地球と月の誕生

上の写真は46~45億年前の地球と月の誕生です。
太陽系の隕石や月の岩石の生成年代から、この頃、原始地球が形成されたと
考えられている。月の形成時期も、45億5000万年前とされる。
巨大な分子雲の一部の重力による収縮が起こった約46億年前に始まったと
推定されている。収縮した質量の大部分は集まって太陽を形成し、残りは扁平な
原始惑星系円盤を形成してここから惑星、衛星、小惑星やその他の
太陽系小天体等ができた。

46億年前~45億年前に、原始地球と周囲の原始惑星や微惑星との衝突が繰り返され

起きています。この時期のことを「前期重爆撃期」ともいわれています。

 

上の写真は微惑星

微惑星には水の元となる物質が大量に含まれていたと考えられています。

それが雨となり、いったん海ができます。しかし、成長するにつれ重力も大きくなっていた

原始地球は、さらに別の原始惑星を引き寄せました。

すさまじい衝撃で発生した熱によって、あらゆる物質はすべて溶けてしまいました。
地球の表面は、深さ数百kmにも及ぶドロドロに溶けたマグマの海におおわれました。

上の写真はマグマの海のイメージ図

上の写真はマグマの海に関する説明

マグマの海は非常に温度が高く、重い物質も軽い物質も溶けて混ざり合っていました。
やがて煮えたぎっていたマグマの海は少しずつ冷めていき、密度が大きい物質が沈んでいきました。

そして最終的には上の写真のような構造となっていきます。

 

後期重爆撃期

Wikipediaによれば

後期重爆撃期(Late Heavy Bombardment, lunar cataclysm, LHBとも)とは、天文学・

地球惑星科学において41億年前から38億年前の期間を指す言葉である

この時代には月に多くの隕石衝突によるクレーターが形成され、地球・水星・金星・

火星といった岩石惑星も多くの天体衝突を受けたと考えられている。

後期重爆撃期の主な証拠は月の石の年代測定から得られたもので、天体衝突に由来する

月面の溶融岩石の大部分がこの短い期間に作られたと示されている。

後期重爆撃期は隕石重爆撃期とも呼称されます。

ただ、後期重爆撃期があった証拠となる大きな傷は、現在の地球上には見当たりません。

(地球はマグマの海から始まったと言える)

広島大学の小池みずほ助教らの研究グループの研究で

44億年前から41.5億年前とより古い時期であるとの説が紹介されていました。

研究グループは後期重爆撃期に衝突があったと考えられる小惑星ベスタに由来の

隕石の元素を最新の分析方法(ナノスケール二次イオン質量分析計(ナノシムス)の局所分析技術)

で測定しました。

海と生命の誕生

番組では海は38億年前に誕生と解説

上の写真は40~35億年前 海と生命の誕生
40億年前には 原始海洋ができた。
40億年前(±2億年) ~35億年前に、原始生命が誕生したと考えられている。
35億年前、 地球上での最古の化石(西オーストラリア・ピルパラ地域からのバクテリアの化石)

上の写真は約40億年前の岩石 神奈川県立 生命の星・地球博物館(小田原市)の展示

上の写真は花こう岩の一種のトーナル岩質片麻岩  神奈川県立 生命の星・地球博物館(小田原市)の展示

約40億年前に花こう岩があったということは、この頃すでに陸や海洋地殻ができていて、

現在と似たような環境ができつつあったということを物語っています。

上の写真は約38億年前の「れき岩」です。この岩石からも地球の成り立ちがうかがえます。
粒が多いごく普通にある岩石ですが、世界で最も古い堆積岩です。

れき岩ができるには、山があり 川が流れて地層が砕かれ、川によって流されてきて

海の底に積もらなければなりません。つまり、38億年前にはすでにそのような環境が

揃っていた事の証明となっています。

神奈川県立 生命の星・地球博物館(小田原市)の展示より

上の写真は、ストロマトライトと呼ばれる、浅い海底でできた岩石です。
ストロマトライトは、約27億年前に地球上に誕生した シアノバクテリアという生物が作り上げました。

 

雪玉地球とカンブリア紀の大爆発

7~5億年 雪玉地球とカンブリア紀の大爆発
大規模な氷河時代であったとされる。

生命が環境への対応することで多様に進化。
エディアカラ生物群やバージェス動物群のような多様性を形成していった。

 

植物の大繁茂と生物の陸上への進出

4~3億年前 植物の大繁茂と生物の陸上への進出
脊椎動物(両生類)の上陸は3億6,000万年前と言われています。

 

生物の大量絶滅とパンゲアの分裂

2.5億年前 生物の大量絶滅とパンゲアの分裂
2.5億年前ペルム紀の絶滅と言われ、海生生物のうちの95 - 96%、
全ての生物種で見ても90% - 95%が絶滅したとされる。
ローレンシア大陸、バルティカ大陸、シベリア大陸などすべての大陸が次々と
衝突したことでパンゲア大陸が誕生した。

1億8000万年前のジュラ紀になると、南北に分裂し、北はローラシア大陸、南は

ゴンドワナ大陸となった。両大陸は、更に分裂していった。

大陸移動に関する詳しい解説は以下のサイトを参照してください。

 スーパーコンピューターでパンゲアの分裂から現在までの大陸移動を再現し、その原動力を解明 -ヒマラヤ山脈はマントルのコールドプルームが作った!-<プレスリリース<海洋研究開発機構 | JAMSTEC

番組の中ではマントル上部と地殻を合わせてプレートといい、プレートは年4cm移動

することによって大陸の分裂、移動が可能になったと解説された。

 

上の写真はプレート運動に関する「アイコさん」の説明・解説

プレート運動は38億年前から始まっています。

恐竜の時代

2~0.6億年前 恐竜の時代

 

白亜紀の大絶滅 恐竜が滅びた

6千5百万年前 白亜紀の大絶滅 恐竜が滅びた
隕石の落下による環境の激変により恐竜やアンモナイトが絶滅。
参考ブログ:小生のブログ1

      小生のブログ2

 

人類の誕生

600~300万年前 人類の誕生
約600万〜500万年前 に、ヒトとチンパンジーが分化したとされる。

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兵庫県立考古博物館の春季特別展「弥生時代って知ってる?」観覧記 on 2021-7-4

2021年07月09日 04時46分32秒 | 神戸市以外の兵庫県

標題の展示の会期最終日の2021年7月4日、観覧しました。

憶えの為、展示内容の概略を記しておきます。

上の写真はリーフレット

弥生時代は2300年前から1700年前の約600年間であると覚えていましたが、
最近は佐倉市の国立歴史民俗博物館が2003年頃から提唱されている説で
500年くらい古い年代から弥生時代が始るということも言われています。
今回の展示では下記のように早期、前期、中期、後期・終末期の年代を規定。
また縄文晩期を弥生時代に入れるという説もあります。

  早期 2800年前~2600年前 

  前期 2600年前~2350年前

  中期 2350年前~2000年前

  後期・終末期 2000年前~1700年前

弥生時代全般について吉野ケ里歴史公園のサイトが面白いのでリンクさせていただきます。
    弥生ミュージアム (yoshinogari.jp)

 

弥生の名称についてWikipediaによれば
「「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)
の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来」

発見者は有坂しょう蔵、坪井正五郎、白井光太郎

出土した土器は東京大学総合研究所博物館に保管されています。(弥生時代終末期の土器)
東京大学の農学部と工学部の境に「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑がある

 

弥生時代の特色は以下のとおりです。
 -水稲耕作の開始
 -金属器の使用  鉄器:主に武器、加工具  青銅器:主に祭祀に使用
 -朝鮮半島系(大陸系)磨製石器(石斧、石包丁)の使用
 -機織り技術の導入
 -弥生土器の製作

 

春季特別展「弥生時代って知ってる?」の開催要項

会期:令和3年4月17日(土)~7月4日(日) 場所:兵庫県立考古博物館

開館時間:9:30~18:00 入場料金:大人500円、大学生400円、高校生以下は無料

 

5つのテーマで県内外から出土品など計156点を集められた。

1.縄文時代から弥生時代へ

上の写真は縄文時代から弥生時代への展示 遠景

上の写真は縄文土器と弥生土器に関する説明パネル

上の写真は玉津田中遺跡(神戸市西区)の炭化米と炭化米入り弥生土器の展示

2.大陸から伝わったもの

上の2枚の写真は大陸から伝わったものの展示遠景と説明パネル

大陸から伝わったものとして一番重要なものは「米作り」である。

上の写真は常設展示の「米づくりのはじまり」の展示

米づくりの為の道具「木を伐る道具」、「木を加工する道具」さらに銅剣などが展示

上の写真は神戸市兵庫区の大開遺跡の説明パネル

平成25年度に実施の第14次調査においては弥生時代前期後半の環濠集落を確認
多量の弥生土器と石器、木製品、木の伐採及び加工道具、人骨が出土

稲穂を収穫するための道具「石包丁」も展示されていました。

上の写真は石包丁を使用した米の収穫風景 (常設展示より)

米作は弥生時代から始ったとされ、中国の雲南省付近から日本に伝播して
きました。海を渡って伝えられた稲作は日本列島を北上し沖縄、北海道を除く
日本各地に400年から700年かけて広まった。
従来の説では100年間で北上したという記載もある。

上の写真は小和田哲男監修「すぐわかる日本の歴史」東京美術(2000)のPage31
稲作が中国から日本に伝播した経路を説明したものです。

 

3.マツリの様子

上の写真はマツリ(祀り)の様子の展示遠景

銅鐸及びその製法に関する展示の他、下記の様な展示がありました。

上の写真は神戸市西区の玉津田中遺跡から出土の石棒、人形土製品

上の2枚の写真は磨製石剣と銅剣の展示と説明パネル

 

 

 

4.弥生人のくらし

上の2枚の写真は弥生人のくらしの遠景と説明パネル

上の写真は玉津田中遺跡で出土の土器。弥生時代の火災で焼失した竪穴式住居跡から

見つかったもの

 1)弥生人の衣服

上の写真は玉津田中遺跡(神戸市西区)から出土の機織りの道具の展示

壁に弥生人(女性)が着ていた「貫頭衣(かんとうい)」が展示(上の写真)

上の写真は機織りと養蚕の説明パネル

 2)弥生人の食べ物

 3)弥生人の住まい

上の写真は早川和子さんが作画した大中ムラの風景

竪穴式の住宅や高床式の倉庫などの建物が建てられました

風呂やトイレは近くの水辺や川で用を済ましました。

 4)弥生時代の鉄器の生産

淡路市の五斗長垣内(ごっさかいと)遺跡で見つかった弥生時代後期の鉄製品と

鉄加工用の石製道具。五斗長垣内遺跡には、鍛冶炉を備えた工房跡があり、当時の人が

鉄を細かく加工する技術を持っていたことが見て取れる。

 

5.ムラからクニへ

上の写真はムラからクニへの展示遠景

上の写真は日本最大規模の環濠を持つ吉野ケ里遺跡(復元集落)

上の写真は内場山墳丘墓(丹波篠山市)から出土の太刀と鉄鏃

この遺跡は弥生時代末期の王墓で地域をまとめる権力者が台頭し始めた頃で古墳時代へと

繋がっていきます。

 

6.その他の展示

 1)金印(複製品)

上の2枚の写真は「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印の複製品

福岡市の志賀島(しかのしま)で出土

 

 2)中国人が見た弥生人のくらし

三国志の中の倭人伝には邪馬台国の位置を記した記事に次いで、倭人が紹介されて

います。倭人の衣食住に関する記述です。(上の写真)

上の2枚の写真は魏志倭人伝に描かれた弥生の人々の説明パネル(全6枚)と展示遠景

 

3)吉野ケ里遺跡の出土品

上の写真は吉野ケ里遺跡の出土品を復元した「胸飾り」と「ガラス管玉」

上の写真はガラス管玉の出土状況

上の写真は甕棺墓の中に収められた人 作画:早川和子

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カフェ すまいる おおなか でのランチ in 兵庫県立考古博物館 on 2021-7-4

2021年07月09日 04時35分20秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年7月4日(日)、兵庫県立考古博物館のカフェ すまいる おおなか でランチ

を頂きましたので写真紹介します。

当日は春季特別展「弥生時代って知ってる?」を観覧するために訪問していました。

以前は神戸風月堂が入っていましたが2019年の4月からこのお店が入っています。

 

カフェ すまいる おおなかの基本情報

住所:兵庫県加古郡播磨町大中1丁目1−1 兵庫県立考古博物館内 TEL:079-436-8188

営業時間:4月~9月 10:00~18:00 10月~3月 10:00~17:00

定休日:月曜日   オープン年月日:2019年4月13日

 

当日、そばめし(りんごジュース付) 700円(税込)を注文

 

下記のブログでメニュー表を紹介しています。

 カフェ すまいる おおなか でのランチ in 兵庫県立考古博物館 on 2019-11-30 - CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ) (goo.ne.jp)

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