昨日の続きです。
関へと続く山道、芭蕉気分で歩いていると、我々の気配に驚いたのか、鳥が羽ばたき空に舞ったのです。こちらの方が、突然響く羽音にギクリとしました。
辺りを窺うと、丘とは反対側の林の中に小さな池があり、カルガモの群が居たのです。カルガモは一旦は舞い上がりましたが、直ぐ水面に戻り泳ぎ回っていました。
ホントに静かです。我々以外に人影はありません。老木、大木の生い茂る、すそ野道を半周ほどして、「白河関跡」の正面に到着しました。
全体の佇まいは、それなりの雰囲気があります。ホントにここが「白河の関」があった場所なのか、決定的な証拠はありません。
この地を「白河の関跡」としたのは、白河藩主で後に、幕府老中となり「寛政の改革」をおこなった「松平定信(1758-1829)」です。「定信さん」がいろいろと調べ、寛政12年(1800年)に、
『ここが“白河の関”に間違いない決定~!』と云ったそうです。
芭蕉がこの辺りに来たのが元禄2年(1689年)で、「奥の細道」が完成したのが元禄6年頃だそうです。
そして、「奥の細道陸奥ブーム」が起こり、風流人に陸奥の歌枕の地を巡る旅が流行ったようです。
このブームに押されて、陸奥の入り口「白河の関」探しが起こり、白河藩の藩主としても、この動きを見過ごす訳にはいかず、芭蕉がこの辺りを探し回ってから、111年後、この地に決定されたのです。
それで何ですが、迂闊にも、肝心の松平定信が「ここだ!」として建てた、「白河関跡」の石碑を撮るのを忘れてしまったのです。ホント残念でした。
石段を登った丘の上に「白河神社」があります。この神社は8世紀頃からこの地にあったそうです。関の廃止と前後してできたようです。
それで、この石段何ですがよく見ると「まったく摩耗」していないのです。苔生している割には新しく、多分10数年前に造られたものでしょう。
残念?ながら社殿もかなり新しく、今ひとつ雰囲気がありません。
社殿の周りには「壕」が掘られていて、大昔、ここに何らかの「防衛施設」が存在していたのは間違いなさそうです。
この壕の存在も「関跡」とした理由の一つになっているのです。確かに、山城、砦、関所のイメージはあります。
それと、この空堀の壕なのですが、砦の周囲に壕を掘り敵の侵入を防いだようですが、攻撃する側としては、この壕に入れば「姿を隠す」場所となり、攻撃の機会を窺い待機する場所として、攻撃側に有利に思えるですが?
それとも、防御側がここに身を隠し、敵を向かえ撃つのでしょうか?
いろいろ思いを巡らし辺り歩くと、歌碑があちらこちらに建っていて、ここが「奥の細道」の名所である事を主張していました。
解説板には、芭蕉も憧れた「能因法師」の歌がありました。この人こそが、陸奥ブームの立て役者です。この人の時代には関は消えて無くなっていたのです。
『都をば 霞とともに たちしかど 秋風ぞふく 白河の関』
この歌は、都に居て詠んだのです。わざわざ日焼をして奥州に行って来た振りをしたそうです。悪気があってと云うよりも、そんな悪戯を楽しんだ「風狂、風雅」の人のようです。
その当時より、かなり「ばればれ」だったようです。芭蕉も当然その事は知っていました。それでも、陸奥はロマン溢れる異国の地だったのです。
風狂、風雅、そんな境地に憧れながら、神社を後に苔生した石段をゆっくりと下りました。
「白河関の森公園」の話しは、まだ少しあります。
続きは明日と云うことで、
それでは、ここで本日はおしまい。
関へと続く山道、芭蕉気分で歩いていると、我々の気配に驚いたのか、鳥が羽ばたき空に舞ったのです。こちらの方が、突然響く羽音にギクリとしました。
辺りを窺うと、丘とは反対側の林の中に小さな池があり、カルガモの群が居たのです。カルガモは一旦は舞い上がりましたが、直ぐ水面に戻り泳ぎ回っていました。
ホントに静かです。我々以外に人影はありません。老木、大木の生い茂る、すそ野道を半周ほどして、「白河関跡」の正面に到着しました。
全体の佇まいは、それなりの雰囲気があります。ホントにここが「白河の関」があった場所なのか、決定的な証拠はありません。
この地を「白河の関跡」としたのは、白河藩主で後に、幕府老中となり「寛政の改革」をおこなった「松平定信(1758-1829)」です。「定信さん」がいろいろと調べ、寛政12年(1800年)に、
『ここが“白河の関”に間違いない決定~!』と云ったそうです。
芭蕉がこの辺りに来たのが元禄2年(1689年)で、「奥の細道」が完成したのが元禄6年頃だそうです。
そして、「奥の細道陸奥ブーム」が起こり、風流人に陸奥の歌枕の地を巡る旅が流行ったようです。
このブームに押されて、陸奥の入り口「白河の関」探しが起こり、白河藩の藩主としても、この動きを見過ごす訳にはいかず、芭蕉がこの辺りを探し回ってから、111年後、この地に決定されたのです。
それで何ですが、迂闊にも、肝心の松平定信が「ここだ!」として建てた、「白河関跡」の石碑を撮るのを忘れてしまったのです。ホント残念でした。
石段を登った丘の上に「白河神社」があります。この神社は8世紀頃からこの地にあったそうです。関の廃止と前後してできたようです。
それで、この石段何ですがよく見ると「まったく摩耗」していないのです。苔生している割には新しく、多分10数年前に造られたものでしょう。
残念?ながら社殿もかなり新しく、今ひとつ雰囲気がありません。
社殿の周りには「壕」が掘られていて、大昔、ここに何らかの「防衛施設」が存在していたのは間違いなさそうです。
この壕の存在も「関跡」とした理由の一つになっているのです。確かに、山城、砦、関所のイメージはあります。
それと、この空堀の壕なのですが、砦の周囲に壕を掘り敵の侵入を防いだようですが、攻撃する側としては、この壕に入れば「姿を隠す」場所となり、攻撃の機会を窺い待機する場所として、攻撃側に有利に思えるですが?
それとも、防御側がここに身を隠し、敵を向かえ撃つのでしょうか?
いろいろ思いを巡らし辺り歩くと、歌碑があちらこちらに建っていて、ここが「奥の細道」の名所である事を主張していました。
解説板には、芭蕉も憧れた「能因法師」の歌がありました。この人こそが、陸奥ブームの立て役者です。この人の時代には関は消えて無くなっていたのです。
『都をば 霞とともに たちしかど 秋風ぞふく 白河の関』
この歌は、都に居て詠んだのです。わざわざ日焼をして奥州に行って来た振りをしたそうです。悪気があってと云うよりも、そんな悪戯を楽しんだ「風狂、風雅」の人のようです。
その当時より、かなり「ばればれ」だったようです。芭蕉も当然その事は知っていました。それでも、陸奥はロマン溢れる異国の地だったのです。
風狂、風雅、そんな境地に憧れながら、神社を後に苔生した石段をゆっくりと下りました。
「白河関の森公園」の話しは、まだ少しあります。
続きは明日と云うことで、
それでは、ここで本日はおしまい。