沢木耕太郎が藤圭子にインタビューした“流星(りゅうせい)ひとつ”を読みました。
藤圭子が引退したのは1979年の暮れ、ホテルのバーカウンターでのインタビューは引退前の秋でした。会話だけを綴った異色作品。
今から34年前、藤圭子が28歳、沢木耕太郎が31歳、因みに、私は29歳でした。
藤圭子が“新宿の女”でデビューしたのが1969年9月、歌手活動は10年間で終えたのです。
でも、しかし、インタビューでは絶対に再デビューはしないと、ハッキリとのべているのですが、僅か2年後に“再デビューしていた”のです。
“していた”と書きましたが、再デビューは今回、改めて調べて知ったのです。34年前の引退で終わっていたと、ずっと、ずっと、そう思っていました。
引退の理由を本人は、喉の手術(74年)で声が変わったことを、強く、強く、主張していました。
でも、しかし、“いちファン”からしてみると、ホントは違うと、本人も薄々は気が付いていた?のですが、それを口に出すのは彼女の性格が許さなかったのでしょう。
本書を読むと、幼少期の家庭環境とか、28歳と若かさとか、大スターとしての輝きの余韻とか、かなり、かなり、尖った発言をしています。
私の中で、藤圭子が耀いていたのは、1969年の“新宿の女”から、72年の“京都から博多まで”間と思います。
引退を聞いた79年の時、わたしとしては“へぇ~、そうなんだ、やっぱり”でした。79年頃には、もう、私の中では過去の人でした。ですから、再デビューしていたなんて、まったくもって知りませんでした。
たぶん、フツウ人の私が、過去の人と思ったのですから、世の中の人達も、きっとそう思っていたのです。再デビュー後、一時は芸名も藤圭子から“藤圭以子”に変えたこともあったそうです。いろいろもがいていたようです。
デビューが鮮烈で、衝撃的で、一瞬にして演歌界の頂点に駆け上がり耀いた藤圭子、登る速度が早いと下る速度も速いのです。
ベトナム反戦運動、全共闘運動、政治の季節の終わりの始まりが69年と云う時代でした。藤圭子は、あまりにも、あまりにも、時代そのものでした。
70年から経済の時代が始まりました。そして、藤圭子の時代は終わったのです。耀いていたのは僅か2年ほどだったと思います。
69年からの1年間、ホントに、ホントに、とても、とても、藤圭子は耀いていました。
“流れ星”藤圭子は、72年に燃え尽き消え去ったのです。
新宿の高層マンションから飛んだのは、
藤圭子ではなく、
“竹山純子”さんです。
合掌