先日、録画しておいた“クレアモントホテル”(2005年制作イギリス・アメリカ合作)を観ました。
出だしは、とても、退屈で、退屈で、時間のムダのようで、停止ボタンに指をかけようか、どうしょうか、迷っていたりしたのです。
それが、少しずつ、少しずつ、それとなく、なんとなく、じんわりと物語にのなかに引き込まれていったのでした。
ストーリーとしては、配偶者を亡くした老婦人、一緒に暮らしていた娘の家を出て、旅に出て、ロンドンのホテルで一人、これまでの事、これからの事、いろいろ考え、整理し、清算し、それなりに、新しい出発を・・・、何て、思って観ていたのです。
ところが、この老婦人、先ずはたったひとりの可愛い孫、でも、今では自立した26歳の男、電話を入れても留守、手紙を書いても返信無し、一ヶ月が経過しても逢えない話しからドラマは始まるのです。
この展開には驚きました。日本ならともかく、舞台は英国です、その英国の祖母が、何故、それほど孫に会いたがるの?と思ったのです。
欧米では、成人した子供は親と一緒に暮らすのは、とても憚られる事だと、そう記憶していたのです。ですから、祖母と孫との関係となれば、それは、それは、もっと、もっと、距離がある、と、そう思っていました。
この私でも、祖父母にとっての孫の存在は大きく、孫にとっての祖父母は、意識の片隅に小さくボンヤリと存在する過去だと思っております。
これからが長い青年と、これからが短い老婦人では、なかなか互いの関係はムズカシイのです。いつまでも可愛い孫は過去のものです。
それにしても、日本とあまり変わらない関係に、驚いてみたり、やっぱりそうかと、納得してみたり、そうこうしているうちに、少しずつ面白くなり、展開が気になり、そして、ラストまで観てしまったのです。
それで、孫に会えない老婦人と、孫と同い年の小説化志望の青年とが、トラブルをキッカケにして出会うのです。そして、物語が始まるのです。
この青年なんですが、登場したとき、わたしにはどう見ても、汚らしく、貧乏くさく、好男子には見えなかったのです。ジーンズの綻びも、肩まで伸びた長髪も、お洒落と言うよりも、経済的困窮の結果としか見えなかったのです。
それで、いろいろあって、この青年をホテルでの昼食に招いたとき、その出で立ちにびっくり、借り物の上下のスーツはサイズが小さく、ツンツルテンの上着とズボン、ネクタイはそこらの切れっ端的で、靴は履き古しで、とても、とても、ショボイク、トンデモスタイルなのです。
でも、しかし、ホテルの同宿の老人客も、ウエイトレスも、全員が、何と素敵で、何と立派な青年だと、そういう反応を示すのです。何故?どうして?これで?と思うのでした。
この青年を孫と思い込む老人達、それを否定しないままドラマは展開されます。
青年は母親との関係がギクシャク、老婦人は娘や孫とギクシャク、でも、ギクシャクどうしの二人は。それなりに良い関係を続けるのです。
肉親との関係は、肉親であるが為に、互いの距離を計ることなく、すべてが許されるとして、何処まで踏み込んできます。
それが、他人であれば、他人として、互いに一定の距離をとり、踏み込んではイケナイ領域を意識しつつの関係となり、そのことで、互いに、肉親よりも素直な自分を出せる、そんな現象を発生させる確率は、高くなるのです。
趣味や、考え方、生き方に共感がもてれば、歳の離れた男女の関係は、変な?思惑が入り込むことなく、それなりに快適なのかも。まあ、莫大な財産をお持ちの方は別ですけどね。
何てことを思いつつ、自分の孫を思いつつ、英国も、日本も、あまり変わらないのかと思いつつ、年寄りは、若き日の記憶を手繰り寄せ、ゆっくり、静かに、穏やかに、老いを楽しむのも、それは、それで・・・。
そんな、日々を・・・、何て、一瞬、頭を過ぎったのです。
が、しかし、しかし、です。今年で私も高齢者となりましたが、未だ、未だ、これからを考え、これまでをふり返るには、未だ早い!絶対早いと!気合いを入れつつ、エンドマークを見つめたのでした。
まあ、それなりに良い作品でした。
それでは、また。
出だしは、とても、退屈で、退屈で、時間のムダのようで、停止ボタンに指をかけようか、どうしょうか、迷っていたりしたのです。
それが、少しずつ、少しずつ、それとなく、なんとなく、じんわりと物語にのなかに引き込まれていったのでした。
ストーリーとしては、配偶者を亡くした老婦人、一緒に暮らしていた娘の家を出て、旅に出て、ロンドンのホテルで一人、これまでの事、これからの事、いろいろ考え、整理し、清算し、それなりに、新しい出発を・・・、何て、思って観ていたのです。
ところが、この老婦人、先ずはたったひとりの可愛い孫、でも、今では自立した26歳の男、電話を入れても留守、手紙を書いても返信無し、一ヶ月が経過しても逢えない話しからドラマは始まるのです。
この展開には驚きました。日本ならともかく、舞台は英国です、その英国の祖母が、何故、それほど孫に会いたがるの?と思ったのです。
欧米では、成人した子供は親と一緒に暮らすのは、とても憚られる事だと、そう記憶していたのです。ですから、祖母と孫との関係となれば、それは、それは、もっと、もっと、距離がある、と、そう思っていました。
この私でも、祖父母にとっての孫の存在は大きく、孫にとっての祖父母は、意識の片隅に小さくボンヤリと存在する過去だと思っております。
これからが長い青年と、これからが短い老婦人では、なかなか互いの関係はムズカシイのです。いつまでも可愛い孫は過去のものです。
それにしても、日本とあまり変わらない関係に、驚いてみたり、やっぱりそうかと、納得してみたり、そうこうしているうちに、少しずつ面白くなり、展開が気になり、そして、ラストまで観てしまったのです。
それで、孫に会えない老婦人と、孫と同い年の小説化志望の青年とが、トラブルをキッカケにして出会うのです。そして、物語が始まるのです。
この青年なんですが、登場したとき、わたしにはどう見ても、汚らしく、貧乏くさく、好男子には見えなかったのです。ジーンズの綻びも、肩まで伸びた長髪も、お洒落と言うよりも、経済的困窮の結果としか見えなかったのです。
それで、いろいろあって、この青年をホテルでの昼食に招いたとき、その出で立ちにびっくり、借り物の上下のスーツはサイズが小さく、ツンツルテンの上着とズボン、ネクタイはそこらの切れっ端的で、靴は履き古しで、とても、とても、ショボイク、トンデモスタイルなのです。
でも、しかし、ホテルの同宿の老人客も、ウエイトレスも、全員が、何と素敵で、何と立派な青年だと、そういう反応を示すのです。何故?どうして?これで?と思うのでした。
この青年を孫と思い込む老人達、それを否定しないままドラマは展開されます。
青年は母親との関係がギクシャク、老婦人は娘や孫とギクシャク、でも、ギクシャクどうしの二人は。それなりに良い関係を続けるのです。
肉親との関係は、肉親であるが為に、互いの距離を計ることなく、すべてが許されるとして、何処まで踏み込んできます。
それが、他人であれば、他人として、互いに一定の距離をとり、踏み込んではイケナイ領域を意識しつつの関係となり、そのことで、互いに、肉親よりも素直な自分を出せる、そんな現象を発生させる確率は、高くなるのです。
趣味や、考え方、生き方に共感がもてれば、歳の離れた男女の関係は、変な?思惑が入り込むことなく、それなりに快適なのかも。まあ、莫大な財産をお持ちの方は別ですけどね。
何てことを思いつつ、自分の孫を思いつつ、英国も、日本も、あまり変わらないのかと思いつつ、年寄りは、若き日の記憶を手繰り寄せ、ゆっくり、静かに、穏やかに、老いを楽しむのも、それは、それで・・・。
そんな、日々を・・・、何て、一瞬、頭を過ぎったのです。
が、しかし、しかし、です。今年で私も高齢者となりましたが、未だ、未だ、これからを考え、これまでをふり返るには、未だ早い!絶対早いと!気合いを入れつつ、エンドマークを見つめたのでした。
まあ、それなりに良い作品でした。
それでは、また。