前回の続きです。
それで、粕壁宿の話しの前に、五街道の名称に対する疑問についての話しをちょっとだけします。まあ、重箱の隅を穿る的な話しですが、お付き合い下さい。
五街道とは、江戸時代に 徳川幕府が直轄で整備した道路の事で、江戸を起点とする東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道を五街道と称したそうです。
それで、日光、奥州、甲州は、江戸の頃は「街道」ではなく、「道中」が正式な名称だったそうです。「街道」は、明治以降らしいのです。
ですから、標識にも「日光道中 粕壁宿」とあるのです。でも、いまでは、誰もが日光街道とか、甲州街道とか、云うのがフツウです。日光道中なんて云う人は居ないのです。
何故に、「道中」が「街道」となったのか? 実は、昔も「カイドウ」が一般的だったのです。
でも、「カイドウ」の表記は「街道」ではなく、「海道」となっていたようです。これはたぶん、「東海道」の影響だと考えます。
江戸の中期頃までは「日光カイドウ」「甲州カイドウ」と云われ、「海道」と表記していたそうです。海もないのに「海道」は変との声が上がり、「道中」との名称が正式に採用されたようです。
でも、この「道中」はあまり使われていなかったようです。そもそも、「道中」とは、道半ばであり、旅の途中であり、地名の下に付けると収まりが悪いのです。とても、とても、違和感を生じるのです。
そういう事で、道中は、明治以降は、収まりの良い、誰も使っていた「カイドウ」が正式呼称に戻ったのです。でも、海辺を通らないのに「海道」では不自然なので、「街道」の表記となったようです。
そういう経緯での「カイドウ」だったのです。しかし、春日部市としては、教育委員会としては、文化財審議委員会としては、観光協会としては、パンフレットにも標識にも、徳川幕府の定めに従って「日光道中」と表記しています。
まあ、これは、今はなき徳川幕府に”忖度”した訳ではなく、語感的にも、表記的にも、それなりの歴史がイメージできるので「道中」を採用したのだと推測します。
この辺で重箱の隅を穿る的な話しでをお終いとします。ここから本題の粕壁宿散策を開始します。
粕壁宿、二番目の見学は先は、前回触れた東陽寺の先、道を隔てて斜め向かいにある「八坂神社」です。
因みに、この見学順は、パンフレットにある、所要時間(約3時間)の一番長いAコースを辿っています。
どんな神社かな~?と、期待していたのです。でも、こんな神社でした。
それなりに大きな本殿があったり、広い境内があったり、深い木立があったり、長い石畳の参道があったり、なんて思っていたのですが、小さな祠がぽつんとあるだけでした。
まあ、神様に大きいとか、広いとか、立派なとかは関係ないので、それなりに「二礼二拍手一拝」をして、それなりの金額のお賽銭をお納めしました。
それで、こんな説明板があったりするのです。と、この写真を見たら、何と、 八坂神社の文字の上に①とあるのに気付いたのです。
当日は、パンフレットはざっと見で、かなり適当に歩いていたこともあり、パンフレットの見学順は余り気にしていませんでした。
いま、パンフレットをじっくり眺めると、Aコースの①は「ぶらっとかすかべ」で、②が「郷土資料館」で、③が八坂神社となっています。
①と②は理解できるのですが、東陽寺はコースには無いのです。①ときて②と来て③が八坂神社となっているのです。そして、何故か案内板には①とあるのです。
コースの順番と案内板の数字表記には関連性は無いようです。それにしてもです。何故に東陽寺がパンフレットの見学コースから外されているのか?
もう一度パンフをよく見たら、1時間半の短縮コース「C」には八坂神社の次に東陽寺が入っていました。
コース毎の見学場所の選択には、いまいち合点がいきません。 最長3時間コースを選ぶ方達は、それなりにじっくりと見学していこうと思っている筈です。
それなりにじっくりコースに東陽寺が無くて、八坂神社が選定されているのは、もしかして、何か?裏に政治的な思惑が働いて居る?何て、妄想したりして・・・。
が、たぶん、これは、東陽寺が境内に見学者ぞろぞろ来て、境内でウロウロされるのを嫌ったのかも知れません。観光施設ではなく、あくまでも宗教施設として、信仰の場として、それは、それで、正しい判断です。
また、つまらない、重箱の隅を穿る的話しになってしまいました。
まあ、お気付きの方は、それなりに分かったと思うのですが、八坂神社には特段興味を引かれるものが無かった事で、重箱穿る話しで、お茶を濁しているのです。
それと、本日は、何故か、神社仏閣への興味が湧いて来ないのです。
まあ、そんな日もあるのです。
それでは、また次回。