前回の続きです。
粕壁宿のどん詰まりに到着しました。
最勝院で、粕壁宿は終わり、日光道中は右に折れ曲がります。見通しを悪くして、敵の攻撃の妨げとしたそうですが、何か、それほどの効果が、有るや?無しや?
こちらに折れて、道中は続くのです。
こちら、左手方向に折れると線路に突き当たります。
わたしは真っ直ぐ行って最勝院に参拝します。
山門をくぐり境内に一歩入って感じたのは、広い空間ですが、緑が少ないのです。お寺として、何となく、安らぎ感に乏しいのです。
植えられている木々は、落葉樹がほとんどで有ることに、起因しているのでした。もう少し季節が移ると、されなりの風景になるのでしょう。
わたしとしては、紅葉に彩られたお寺もいいですが、お寺には、広葉樹で、常緑樹で、照葉樹がいいと思います。
はい、境内から粕壁宿方向を眺めます。それにしても、ずっと、ずっと、気になっている、この高層マンション、どこかしこで、写り込んできます。かなり、かなり、目障り。
入る時に見逃した、山門前の案内板に目を通します。
千住と粕壁を結んでいた 「千住馬車鉄道」が、「この最勝院」を「起点」としているとの表現。まあ、そう云いたい気持ちは、それなりに理解できます。
でも、調べて見ると、千住馬車鉄道は、1893年(明治26年)2月7日、現在の日光街道の千住新橋から越ヶ谷までが開通し、その後、6月1日に粕壁の最勝院付近まで開通したのです。
と、云うことで、千住宿から延びて来て粕壁に辿り着いたのですから、これは、だれが、どう見ても、千住が起点で粕壁が「終点」となります。
それで、この馬車鉄道ですが、1896年(明治29年)には、営業不振で廃止されたのです。たった3年の命でした。
そして、その4年後の明治33年に東武鉄道(現在の伊勢崎線)が開業したのでした。
時代の変化は早かったのです。世の中が、どちらの方向に向かっているか、”※長~~~い目!”で、先を見ていないと、事業に失敗するのでした。※小松政夫のギャグ
それで、馬車鉄道を調べていて判ったのですが、橋上公園から見えたこの土手壁のレリーフですが、
当時の馬車鉄道を画いていたのでした。
作者は、天宮一正さんで、タイトルは「滝と噴水」(テト馬車)となっていました。で、「滝と噴水」がよく判りません。そして、「テト馬車」もよく判りません。
テト馬車は「トテ馬車」の誤記? と思ったのですが、いろいろ調べたのですが、「テト馬車」も「トテ馬車」も両方正解だったのです。
馬車の運転手?が吹く、真鍮のラッパの音が「トテトテ」と聞こえた人達と、「テトテト」と聞こえた人達が居たのでした。それで、同じ馬車でも、二つの表現になったようです。
トテ派と、テト派の両派は、明治の頃より、自派の正統性を主張したり、相手を攻撃したり、特に争うこともなく、仲良く現在に至っているようです。
わたしとしては、ずっと、ずっと、長きにわたり、馬が引く馬車は「トテ馬車」と、堅く、堅く、信じていたのですが、今回、脆くも崩れ去ったのでした。
考えてみれば、トテ馬車もテト馬車も、単なる愛称ですから、呼び方には難しい規定がある筈もなく、どちらでもイイのでした。
話しが、重箱隅的な方向に行ってしまいました。
話しは、戻ります。
ハイ! 最勝院の門前にある仏具屋さんです。横断歩道を渡り、仏具屋さんの店先を通って、線路方向に歩きます。
この先は、次回とします。
それでは、また。