はい、本日も、『どうする家康』の話となります。
中盤の山場であり、見せ場であり、家康の松本潤も、瀬名の有村架純も、信康の細田佳央太も、大熱演でした。二人の自害シーンは見ていて、それなりに、目をうるうるさせてしまいました。
ドラマとして、史実には残されていない、当事者たちの内面を、人間として、母として、父として、夫として、妻として、息子として、大胆に、ドラマチックに、目っいっぱい、これでもか、これでもかと、感動的に描きあげました。
でも、しかし、史実としては、「築山殿〈瀬名〉と信康」は武田側に接近したとして1579年、家康の命により処刑されたとしか残されていません。そこに、どんな人間ドラマがあったのか、想像するしかありません。
ドラマでは、"瀬名の夢"に武田勝頼も、家康も巻き込み、"慈愛の同盟"は着々と拡大しつつあると思われたが、勝頼の裏切りにより、信長に知られる。
勝頼は、企てを信長が知る事になれば、信長と家康との戦になる、と考えての行動でしたが、結果は、戦は起こらず、信長は、家康に、瀬名と信康の処刑を命じ、二人の死で終結。
このドラマ展開、信長と家康を対立させ戦わせ、その間隙を突いて、武田勝頼が勝利する企みは不発に終わります。これは、とても、無理筋の展開。
そして、そして、"瀬名の夢"に家康も賛同し、それに向かって共に行動していた家康に対しての、信長が考えた、罪に対する罰は、愛する、妻と息子を、自分の命で処刑させると云う、かなり残酷な罰でした。
この展開は、とても、とても、感動的でした。
それにしても、この展開は、二人に対しての二重の裏切りであり、そこまでして、家康はなにを望んでいたのか、画面から読み取れませんでした。
ドラマチックな展開です、新しい解釈です。でも、これは、史実としては、とても、とても、無理があります。でも、しかし、それは違うという、確かな資料は残されていません。
毎度おなじみの磯田道史氏によれば、
『いくら信長に言われたからといって、家康がまったくの事実無根だと考えていたら、さすがに嫡男は殺さないでしょう。多くの研究者が、岡崎の信康と築山殿の処刑の裏には、対武田の外交方針をめぐって、浜松の家康たちとの路線対立があったとみています〈柴裕之『徳川家康』〉 』
私もこの説が、事実に近いと思います。
そして、その後の家康は豹変し、『ぶらり富士遊覧』の回では、信長に、気持ち悪いほど、上様、上様と、下にも置かぬ、誰が見ても不自然な接待を繰り返すのです。
信長は、自ら滑稽踊りを率先して踊る家康の姿に、二人の処刑を命じたことの恨みを、悟られないための行動と、信長も、そして、画面を見ている視聴者も、誰しも分かる、描き方をしています。
『富士遊覧』は、武田勝頼が敗北し武田家が滅亡した1582年に行われました。瀬名と信康の処刑は1579年ですから、3年の月日が経過しています。
そして、ドラマ終盤、家康の豹変を問いただす家来たちを前に『わしは、信長を殺す。天下を取る』と宣言します。家康覚醒です!
そして、本能寺まで46日のテロップが映し出され、つづくの文字。
そうか、そういう事か!と、思いました。
瀬名が覚醒し、夢を語り、集い、そして、信長の命で、瀬名と信康を見殺しにした家康。
この史実とは、かなり異なる無理な展開は、"本能寺の変"に対する、"新たな視点"へと繋げる布石だったのです。
明智光秀の "本能寺の変"は、日本史最大のミステリーとして、戦国史筋で、巷で、ありとあらゆる説が、唱えられています。
実行犯は、明智光秀で間違いないのですが、先ずは動機で、恨み説、野心説、操られ説等があります。
それに加えて、犯行は、光秀の単独犯説、複数犯説とがあり、動機とも、 いろいろ絡み合い、訳の分からない状態のようです。
古沢良太氏の、この展開では、明らかに家康の絡みを示唆して、次回に続くとなります。
ここで、ここまでのドラマの筋立てに沿って、家康の心のうちを、ちょっとだけ覗いて見たいと思います。
自分も賛同した"瀬名の夢"、自ら下した妻と息子の死に対して、一つの答えが、信長を殺す、天下を取るの言葉だと思います。
信長を殺し天下を取るとの宣言は、信長への恨み、復讐心ではなく、瀬名と信康の夢を、実現する宣言。
家康は、慈愛の心、徳治主義の正当な政治、王道を望んではいるのですが、日本列島が多数の国に分裂していた、群雄割拠、下克上の戦国の世は、王道では覇道に勝てない。との現実的な選択。
21世紀の現在も、平和の為の戦争が、防衛の為の侵略が、世界中起こっています。やはり、地球上に、多数の国家という形態が存在する限り、戦争は終わらないのです。
話が大きくなりました。話を戻します。
兎に角、この先の展開が気になります。
明日あたりには、溜まっている三本『安土城の決闘』『本能寺の変』『伊賀を越えろ』を視聴の予定。
それでは、また。