昨日の続きです。
「立石」とペスタロッチ、「葛飾区」とペスタロッチ、「奥戸橋」とペスタロッチ、いろいろ調べたのですが、ネットでは判りませんでした。
そこで、ここはひとつ葛飾区の教育委員会に聞けば判るのではと思い、土曜日の4時過ぎに「メール」で問い合わせをしました。回答は火曜日に「電話」でありました。
回答をくれた担当者は、「ハィ!」、「そうです!」、「申し訳有りません!」直立不動で応対しているような、「律儀」な「話し方」をする方でした。
それで、「ペスタロッチの碑」が何故、奥戸橋にあるのかの答えですが、残念ながら「まったく判らない」との事でした。
電話の内容ですが、
1.「ペスタロッチの碑」は、現在の「奥戸橋」が完成した際に、「町の有志」により建てられたもので、区としては関係していなかった。現在「管理」は「区」に移管されている。
2.何故「ペスタロッチ」なのか、当時の関係者に聞こうとしたが、ほとんどの方が亡くなられ、話しを聞くことができなかった。
以上が話しの要約です。これで、奥戸橋の『ペスタロッチ』は永遠の謎となりました・・・・・・。まぁ、そんな大きな問題ではないですけどね。
しかしです。そこで、調査は終わりではなく、「もう一つ」の「可能性」を信じて、ある処に「メール」を入れました。
これは「ペスタロッチの碑」がある広場を、「奥戸橋」方向から見た写真です。中央に見える「白い三階建」の「一階」が「立石郵便局」なのです。
「郵便局のサイト」に『ペスタロッチ広場が前にあります』と、書かれていたので、もしかして「何か知っているかも」と、質問の「メール」を入れたのです。
翌日にメールで回答がありました。それでは、以下が郵便局からのメールです。
---------- 引 用 開 始 ----------
このたびは、お問い合わせありがとうございます。
ペスタロッチ記念石碑についてのお問い合わせですが、昭和58
年頃本奥戸橋の架け替え工事があり、元の橋の脇に仮の橋を架け
、現在の広場にあった郵便局を奥に移転させ、仮の橋に通じる道
路を作りました。
その後、橋の架け替え工事が終了し、仮の橋に通じる道路があ
ったところが広場となりました。
そして、本奥戸橋完成祝賀実行委員会が発足し、橋の完成記念
としてその広場にペスタロッチの石碑を作ったというわけです。
ご存じかと思いますが、ペスタロッチはスイスの著名な教育家
で、葛飾区立石地区とは特段の関係も無いようです。記念に何を
作るか検討した際、ペスタロッチの教育論に共鳴していた方が委
員会にいた模様で、ペスタロッチの石碑になったと聞いておりま
す。
現在お答えできるのはこの程度ですが、よろしくお願いいたしま
す。
〒124-0012 立石郵便局長 大沢敏彦
----------- 引用終 ------------
残念でした。やっぱり判りませんでした。
兎に角です、葛飾区も、立石も、奥戸橋も、「ペスタロッチ」との関係はまったくありませんでした。
「本奥戸橋完成祝賀実行委員会」の中に、「ペスタロッチ」を信奉している人がいたのです。たぶん教育関係者だと想像します。
普通は「その土地」と、何らかの「関係」があって、それなりに「石碑」等が建てられますが、何の関係なく作ってしまう「そんな碑」も、たまにはあってもイイでしょう。
私の想像としては、「春男の翔んだ空」が多少なりとも「関係」していたような気がするのです。
「実行委員会」で「ペスタロッチの碑」を提案しても、他の委員が誰も知らなければ、
『誰なんだ何だ?その「ペスタロッチ」って云うのは?』と云われ、
『著名な「教育学者」で、18世紀のスイス人です』と答えても、
『18世紀? スイス人? 教育学者? 誰も知らないよ!』でお終いです。
しかし、「春男の翔んだ空」と云う映画のお陰で、
『ほら!永六輔が主演した映画、あの先生が尊敬していたのが「ペスタロッチ」だよ!』
『あっ!そうか、そうか』で決まったような、「そんな気」がするのです。
でもです。映画が封切られたのが、1977年で、本奥戸橋が完成したのが1987年です。「10年」の「ズレ」があります。忘れられてしまいそうですね。
それでも兎に角、葛飾の、立石の、本奥戸橋の袂に「ペスタロッチ広場」はあります。
そして、これが「スイス」の「イヴェルドン・レ・バン」の市庁舎(人口2万4千人)前の「ペスタロッチ広場」です。
立石の「ペスタロッチ広場」より、「少し」だけ立派にみえます。
兎に角、立石には「いろいろ」あります。ペスタロッチは終わりですが、立石シリーズはまだ続きます。
それではまた明日・・・・・・
※5年目にして、やっと、ペスタロッチの碑の建立経緯が明らかになりました。
以下、コメント欄の投稿を掲載します。
-------引用開始-------
ペスタロッチ (sekine shigenobu) 2012-08-20 15:38:12 立石 奥戸橋たもとのペスタロッチ教育理念碑建立の経緯
1988年新奥戸橋の建替えに伴い、橋のたもとに無番地ができることになり、地元町会の藤沢会長・伊東区議から無番地の良い利用方法がないかとの相談が私に持ちかけられた。この時の私の助言はこうだ。「未来永劫この地元が必要としている理念を刻んだ碑を建てる事が良い」。ただこれだけでは具体性に欠ける。内容的には、私が尊敬していた教育学の父といわれるペスタロッチの教育実践の根本理念を碑文とし、この地元に先端技術事業を興すシンボルとして理念碑として建立することを提案した。
私のこの提案に対し、藤沢会長・伊東区議のお二人からも全面的なご賛同をいただきペスタロッチ教育理念碑建立委員会が立ち上げられることになった。その時のメンバーは以下のとおりである。
ペスタロッチ教育理念碑建立の会
会長:藤沢町会長、 副会長:伊東区議、 建立委員長:関根(企画責任者)
費用はその半分を地元町会会員寄付金でまかない、残りをその発案者である私が負担することとし、建立は地元の仲野石材店にお願いすることとした。
橋の建て替え完成式当日の1988年に合わせ理念碑の除幕式を挙行した。この式典にはペスタロッチの母国であるスイス大使館からも大使館員数名の出席を頂くという望外の出来事もあった。このようなお心遣いをいただいたスイス大使館には心から感謝したい。
ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ Johann Heinrich Pestalozzi
1746年1月12日:スイス チューリッヒに生まれる。
1827年2月17日:同国ブルックで逝く。
教育の聖者である。
自ら貧しさのどん底にありながら、貧民の子弟を救ったペスタロッチ。
古来、貧しさのどん底にあえいでいたスイスを今日の繁栄に導いたペスタロッチ。
ペスタロッチは、人が仮にいま貧しさの中にあったとしても教育によってもたらされる「もう一つの世界」という物の考え方・とらえ方を持つ事によって繁栄ある世界が生み出されるとの考えを持っていた。それは人を中心として、そこに人がいるからこそ成し得るのであって、人は教育によりはぐくまれるものでありそれは、誰もが無限の可能性を秘めているからに他ならないとの教えを説いている。
ペスタロッチには、貧苦の世界にあっても、人が持つ無限の可能性を具現化すべき教育・思想を実践教授する事で、貧苦とは別の世界を見ることができた。「苦かつ貧のこの世界」でも「もう一つの世界」から見れば富みかつ栄える世界が見えたのである。
スイスにはアルプスの山々、その氷河、その湖水、寒冷これらはある。地下資源は無い、耕すべき土地もない、この環境だけ見れば、スイスは苦の世界、貧の世界である。
だが、ひとたび今日のスイスを見てみよう。氷河、雪から電力が多分にとれる。この電力を化学工業その他の工業に使う。国中を電化する。それでもなお余る。外国に輸出する。自然資源をほとんど持たないスイスに工業のための原材料は皆無に等しい。それならと材料のいらない精密工業を興す。永世中立国である。戦うことをしない。これらによって富みかつ栄える国に変わっている。ペスタロッチの見た『もう一つの世界』は世界で最も豊かな国として現在のスイスに実現されている。
ペスタロッチの見た「もう一つの世界」がいまこの日本国に実現すべき時が到来していると思える。
スイスの様子を実際に見るとそう見える。
日本も『無い国』である。しかし、無いというこの世界に住むべきではない。
私たちは、この「ない国」を「もう一つの世界」に化して、あるという国になる事を願い、富みかつ栄える国になると確信し自信を持つことである。
私たちは、この何も無いこの日本を「もう一つの世界」にできることを信じたい、それには、人に対してのペスタロッチ教授法が根底に無くてはならないと私は考える。
ペスタロッチは、人間の諸能力を調和的にまた総合的に発展させようと考え、経験・体験を通して、直観を根本原理として教授する三つの種類があるとした。
第一:知的
物に対しての本質を見極めるあらゆる角度からの見かた直観を、言葉で言い表して、物の明晰な概念をつくる事を心がける。
第二:道徳的
人間と人間との直接的なふれあいを、愛情・思いやり、あらゆる考え方を以てたえず心情の形成を心がける
第三:技術・技能
具体的な経験・体験をとうし、これを言葉や記号・科学によって、理論化させる
知的・道徳的・技術(技能)的・三つのものは、混然一体となり、総合的に調和的に使われ、融合されて用いられる事により、本当の意味の人間形成がなされ、「もう一つの世界」を創り出すことが出来る、それは、直観を根本理念とした行動である。
ペスタロッチの教えが、岩だらけのスイス・ドイツを今日の世界有数である工業立国にした。その教え・基本理念は、私たちの国日本に相通じる物を感じる、今日の世界経済グローバル化時代を迎へ、資源の無い国である日本にこそ、「もう一つの世界」を描く事が必要であると考える。これからの日本が歩むべき道でもあり、また私たちの下町においても同じ事が言えるのではないかと思える。
この下町人情の葛飾にたえず、知的・道徳的・技術(技能)的・三つの教授を持ち、社会活動を実践・実行しつつ、創意・工夫をもって、「もう一つの世界」をこの地に創ることが可能であると確信する。
ペスタロッチ、教授方法を教育伝授として、おもちゃ産業の発祥の地・葛飾立石の地に、理念碑を建立するにいたったのである。
関根 重信
------引用終了------
関根 重信様、ありがとう御座いました。長年の疑問が解けました。
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この広場は何回となく通りましたが~名称知らず!!
あることから「葛飾区にペスタロッチ広場」なる語彙を見つけ、果て扨てどこに・?
何と何と本奥戸橋し詰めにある広場とは~~ビックリ~仰天。
やっぱりペスタロッチに何らかの関係あるかと最後まで興味津々読ませてもらいました。
成程・・・発案者企画の件了解了解!!
わたしもあの石碑について気になっており、どこに問い合わせたらわかるだろうと思っていたのです。ペスタロッチと立石には、なんの関係もないとのこと、大変参考になりました。