投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 4月30日(月)00時35分34秒
>筆綾丸さん
コワいものみたさで武田邦彦氏のサイトをたまに覗いていたのですが、今回のは本当に強烈ですね。
この人の危険度が何京ベクレル相当なのかを計算する一次方程式がほしいくらいです。
さすがにこれを見たら、テレビ関係者も原発事故関係の番組に出すのを躊躇するようになるだろうし、そうなってほしいですね。
>「あの日、大川小で何が起こったか」
問題は「裏山」ですね。
「水道配水池」というのは、おそらく体育館裏の杉林中に存在する昭和35年に作られた古い建造物を指しているのでしょうが、これは相当上の方にあります。
一部父兄が避難先とすべきだったと言われている場所は、もっとずっと下の地点ですね。
混乱を避けるためには周辺の模型図を作ってゾーン毎に色分けして、あなたが言う「裏山」とはどこなのか、下草が生えていたのはどこなのか、シイタケを栽培していたのはどこなのか、雪が降ればそりで下ったという斜面はどこなのか等々、すべて細かく確認した上で証言してもらう必要がありますね。
生き残った教員の「校長に宛てたファクスの手紙」は不自然なところが多く、かといって教育委員会も「精神状態が不安定」と主張する人に対して実際上何もできないのですから、後は裁判の場で、嘘をついたら偽証罪になることを警告した上で宣誓させ、証言を得る以外ありません。
「指導主事」や他の関係者も同様ですね。
「大川小学校の裏山再訪(その4)」
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
老害 2012/04/29(日) 22:07:19
小太郎さん
マッド・サイエンティストは、「一次方程式(y=ax+b)で書けば、今年の1月から3月までの平均がb(つまりおおよその最初の状態)が毎時0.10マイクルシーベルト、a(変化)が0.004(マイクロシーベルト/日)で」、「三重県の外部からの被曝が1年5ミリになるのは、2012年1月から3年4ヶ月後」の「2015年4月1日」と書いていますが、中学の算数もおおかた忘れたせいか、この「一次方程式」が全く理解できません。
aを「変化」とすると、変数xは何を意味するのだろうか。また、aの単位(マイクロシーベルト/日)とbの単位(マイクロシーベルト/時)は違うのに、単純に加算(+)していいのだろうか。・・・いまさら、中学の算数をやり直す気は、さらさらありませんが。
語弊がありますが、三年後、この老害のマッド・サイエンティストが、もう充分、使命を果たしたようなので、この世から消えてなくなっていることを、ひそかに期待しますね。
文藝春秋5月号に、葉上太郎(地方自治ジャーナリスト)という人の「あの日、大川小で何が起こったか」という記事があります。
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大川小の命運を決めたのは、山に登れたか登れなかったかに尽きる。
裏山はそもそも学校にとってどんな場所だったのだろうか。
市教委で大川小の調査に当たっている指導主事は亡くなった同小教頭のの前任者だ。この指導主事は「私がいた時には、しょっちゅう上がる場所ではなかった」と話す。「遊びで上がることもなかったのか」と尋ねたところ「ない」と答えた。斜面を登る山道のようなものがあるが、「震災後に多くの人が来たのでああいう形になった。前は下草が生い繁っていた」と言う。
ただ、保護者の多くは「学校は裏山でシイタケを栽培していたので、学校も子供達も山のことはよくわかっていた」と口をそろえる。
この山はかつて「水道山」と呼ばれ、釜谷地区の水道配水池があった。そこへの細々とした道は今もあり、少し登ればちょっとした平地や、尾根伝いの林道がある。「子供でも登る気になれば上がれた」と釜谷の男性が話す。そこは往年の子供達の遊び場で、雪が降ればソリで下った斜面でもあった。なのになぜ山へ登らなかったのか。
生き残った教諭は校長に宛てたファクスの手紙にこう書いている。
「あくまで想像ですが、あの極限状態の中で、本当に教頭先生も迷われたのだと思います。ずっと強い揺れが続いており、木が倒れている(錯覚だったのかもしれませんが、皆そのように見えていたと思います。私も子供も山の中にいたとき、何度も揺れる度に周囲の木が折れて倒れる音を聞いています。その度に場所を変えたのですから。)状況の中、道もない山に登らせるのをためらわれたのだと思います。せめて1本でも道があれば、教頭先生も迷わず指示を出されたと思います。それだけに、最後に山に行きましょうと強く言っていればと思うと、悔やまれて胸が張り裂けそうです」
その後の調査で倒木はなかったことが分かっている。改めて教諭に聞き取りを行うよう市教委に求める保護者は多いが、この教諭は精神状態が不安定になったとして休職中だ。
最終的に教頭は三角地帯への移動を決断した。
(後略)
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