学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「石巻市史 第二十七篇 人物 石母田正輔」

2014-03-02 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月 2日(日)16時00分57秒

石母田正輔翁の略歴について、今まで石巻ウィキに頼ってきましたが、参考までに『石巻市史 第五巻』(石巻市史編さん委員会、昭和38年)の「第二十七篇 人物」に立項されている「石母田正輔」も載せておきます。

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石母田正輔
 石母田家の祖はもと伊達郡石母田荘の郷士であつたが、伊達政宗に使えて宮城県大沢村芋沢に移つて、三千石の知行を与えられ、代々大番士、奉行職勤仕の名門であつた。正輔は文久元年一月二十五日勘定奉行石母田寛衆の長孫として芋沢に生れ、家父九郎の勧めで師範学校を卒業、教育界へ身を投ずべきであつたが、これを嫌つて新聞記者を熱望し、奥羽日日新聞社へ入社した。然るに薄給生活の資を償うに足らざる故、官界に移つて千葉県龍ヶ崎警察署長となり、次いで島根県警察部長に栄転した。松江日報主幹であった藤原銀次郎と肝胆相照らしたのが、即ち当時のことであつた。日清戦後台湾総督府の民政長官として、新領土開発に大功を樹てたのは後藤新平であるが、石母田は同じ仙台藩のよしみから後藤と、製糖事業を経営中の荒井泰治の推挽をうけて渡台の上、新竹州知事に就任した。同地にあること数年、その間州政の開発振興に貢献するところ多大なものあり、特に本島民の撫育訓練に全力を注いだ結果、恰かも救世の慈父の如く尊敬と信頼を博したという。その後荒井が発起して北海道、札幌に電燈事業を経営することとなつたので、石母田は州知事を辞して渡道札幌電燈社々長に就任した。当時第一水力発電所を設けた場所は定山渓であつたが、電気と共に同地に埋もれている温泉開発に着目し、札幌定山渓間の電車を布設した結果、定山渓温泉が一躍遊覧地として繁賑を呈するに至つた。同温泉の業者は、これを石母田社長の恩恵として、今も深く景慕している。
 大正元年仙北軽鉄の開通と、北上改修の着手によつて、石巻町も漸く開発の曙光に接したが、折柄、町長の人選難という事態に当面したため、町会協議の上、その人選を荒井軽鉄社長に一任、そこで荒井が無理に石母田を説得して町長就任を承諾せしめたのであつた。町長、町会議員、郡会議員、商工会々長、市長としての石母田の公共事蹟は、前篇各章に記述した通り、特に水道事業の完成と市制実現の事蹟はまことに偉大なものあり、石巻町制施行以来歴代町長市長中最高の殊勲殊功を樹てた偉大な人材であつた。
 石母田は武家育ちのため、資性剛毅らい落にして清廉、学殖深く石仏と号して漢詩をよくし、歌句の風流を解し、また書画骨董の鑑識につた。明るかつた。その容貌は偉躯長髯を蓄えて堂々大人の風格があり、万人畏敬の的とされた。市長満期後は住吉の自邸聴潮閣に悠々自適していたが、昭和十六年五月八日、老衰のため瞑目した、享年八十二。遺骨は仙台の江厳寺に葬られたが昭和十八年一六会々員によつて、同藩の先輩漢学の大家国分青崖が石母田に寄せた堅貞石維の詩碑を住吉公園に建てられ、さらに二十八年には市が市制二十周年記念として、その胸像を同公園に建設し、佐藤露江撰、山内習書にかかる左の表章碑文を台座に刻した。

太白山人題 堅貞石維
 金 華 仙 嶽 秀 而 霊  治 不 誇 功 士 典 型
 記 昔 江 楼 同 被 臥  潮 声 鞺 鞳 夜 闌 聴
 憶 倒 金 尊 唱 鳳 兮  間 来 大 志 托 幽 棲
 浮 雲 冨 貴 須 臾 事  不 説 牛 刀 且 割 鶏
  昭和十八年二月
 青崖国分先生寄懐石母田石髯詩
                     所南 千葉郁書

 石仏石母田正輔翁は剛直にして卓識の先覚者、石巻町長初代市長を歴任し市政建設に幾多不朽の功績を遺さる 仍市制二十周年に際り翁の高風を景仰し其偉業欽慕の章表として茲に此像を建つ
                     露江撰、山内習書
  昭和二十八年四月       石巻市

 なお石母田家の遺族まつ子夫人、五男何れも東京へ移住し、二男正は現在法政大学教授、新進歴史学者として、斯界に重きをなしている。

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石母田五人兄弟

2014-03-02 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月 2日(日)10時05分13秒

長男の石母田俊(しゅん)氏はなかなか軽妙洒脱な文章を書く人ですね。
『東京から江戸へ』(桃源社、1968年)というエッセイ集の著者略歴を見ると、

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1908年 北海道札幌市に生まる。父とともに宮城県石巻町に移住。仙台市東北学院卒業。上京、速記習得し速記事務に従事す。満州国管理として在満州生活8年。現地召集を受け陸軍二等兵。3ヶ月にして終戦、シベリアに3ヵ年の抑留生活を送る。復員後、東京都庁に勤務現在に至る。
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となっています。
三男の節(せつ)氏は1915年生まれ。
何故か桐朋学園演劇科同窓会サイトに詳しい経歴が載っています。
それによると、

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石母田さんは大正4年(1915年)10月31日宮城県石巻生まれの89歳、来年は90歳になられます。今の電気通信大学の前身の無線電信講習所を卒業後、大阪商船に入社。国際一級無線技士として、主に外国航路で客船や貨客船に乗船、戦時中は海軍の御用船に。戦後も貨物船に乗船していらっしゃいましたが、28年間の船乗り生活に別れを告げられた後、昭和43年(1968年)1月1日(当時53歳)から演劇科の担当として、桐朋に入られました。以来、一期生から六期生ぐらいまでが主にお世話になりました。そして昭和54年(1979年)3月31日、63歳で桐朋を退職されました。とにかく演劇科の授業や公演のスタッフとして、切符のもぎりから稽古場の掃除に至るまで、それはそれは懸命に演劇科を支えて下さいました。桐朋の草創期を語る上でなくてはならない方として、又大変お世話になった我々は、今お住まいの石巻に足を向けては寝られません。そんな大切な方なのです。
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とのことです。
前半生と後半生のつながりが全く理解できませんが、これは、

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たまたまうちの姪っ子が桐朋女子にお世話になっていましてね。私はそのころ新宿の紀伊国屋ビルの中にある、ある会社をお手伝いしておりまして、桐朋教育は素晴らしいという話を聞いていたんです。あれは八月の夏休みの時だったかなー。どなたもいらっしゃらないところを外からそーっとのぞかせてもらおうと仙川まで足を運んだんですよ。そしたら偶然にも千葉先生が短パン姿で出てらっしゃって。実は千葉先生と私は石巻で幼なじみでね。私のほうが年上なんだけれど、それでお部屋に案内されて。その時に何を話したのかはもう覚えてませんけど、20分くらい話をしたのかなー。それから二ヵ月後の10月頃でしたかね。私の兄で法政大学の教授をやってた石母田正が、生江先生と千葉先生、それに会計係の高橋金雄さんの三人に呼ばれましてね。「演劇科が出来たんだけれど、そこで節ちゃんに手伝ってもらえないだろうか。」という話が出たそうなんですよ。私は船に乗っていて無線通信士を戦争中も合わせて28年間やってたもんだから。それが全くの畑違いの演劇でしょう、ましてや学校の中で、しかも新しく短大の中に演劇科が出来て、その仕事のお手伝いをしろというお話だった。
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という事情だそうですね。
「うちの姪っ子」は、おそらく正氏の三人の娘さんの内のどなたかではないかと思います。

桐朋学園芸術短期大学芸術科演劇専攻同窓会
http://ameblo.jp/tomogeki/entry-10051702858.html

四男の(白沢)純氏は1920年生まれ。
この掲示板でも以前少し触れましたが、東京商科大学を卒業し、歌舞伎を裏方で支える藤浪小道具の社長となった方ですね。

白沢純(マキペディア)
http://makipedia.jp/mediawiki/index.php?title=%E7%99%BD%E6%B2%A2%E7%B4%94

そして1924年生まれの達(たつ)氏は共産党の衆議院議員。
但し、一度だけ神奈川一区でトップ当選したものの、以後は連続落選ですね。

石母田達(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%AF%8D%E7%94%B0%E9%81%94

このように五人の略歴を見てから石母田正輔翁の生涯と照らし合わせると、やはり一番不思議なのは親子間の年齢差ですね。
石母田正輔翁は1861年生まれなので、長男の俊氏が生まれた1908年には既に数えで48歳、五男の達氏が生まれた1924年には実に64歳ですね。
まあ、お元気だなとは思いますが、警察署長や台湾の州知事を勤めた当時、独身だったのか、五人兄弟の母であるまつ子氏とは初婚だったのか、札幌出身のまつ子氏は何年に生まれて正輔翁との年齢差はどれくらいだったのか、等々の疑問も生じてきますね。

石母田正輔(石巻ウィキ)
http://www.ishinomaki-wiki.jp/index.php/%E7%9F%B3%E6%AF%8D%E7%94%B0%E6%AD%A3%E8%BC%94
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