学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

無神論者の「石仏」氏

2014-03-16 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月16日(日)18時06分31秒

石母田正氏が「外国語は、今でもぼくの最大の苦手」と言われているのは「父と子と」(『石母田正著作集』第16巻)というエッセイにおいてですが、このエッセイは他にも興味深い点があるので、少し引用してみます。

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(前略)
 保守的で、情がこまやかで、学校の通信簿などは一度もみようともせず、出世するよりは、まめでたっしゃに生きることが大事だと考えていた庶民的な母は、いまでもぼくの敬愛してやまない人である。古い型の母親だが、学者は借金しても一度は外国で勉強してこなければならないと今でも信じきっているところなどは、やはり明治の時代に育った女性であることをしめしている。
(中略)
 父は典型的な明治の人間であった。子供のときから「英学」─英語の学修のことを父は英学といった─と数学と漢学が、勉強の基本であることを繰返し教えこまれた。小学五年のときから、ぼくは父の友人で、屋根裏に貧しい暮しをたてている老人の「英学者」のところへ通わされた。今かんがえれば、発音は旧式で、訳はまったくの直訳であった。テキストは今の高校生程度のもので、小学生のぼくがわかろうとわかるまいと先生はおかまいなしだった。外国語は、今でもぼくの最大の苦手であるが、そのときはそんなにいやだとは思わず、まじめに通ったとおもう。父は同時に漢学も学ばせようとした。これは高等学校にはいってからもつづいて、先生をみつけてきては、漢学の勉強を強要した。私はこれにたいしては徹底的に反抗したが、後で日本史を学ぶようになってみると、少しは勉強しておいた方がよかったかなと後悔するときもある。
 英学と数学と漢学をかねそなえることは、明治人の教育の理想だったにちがいない。今にしておもえば、その理想の教育を父はぼくを材料として試みようとしたのだろうが、もちろん失敗であった。また父は無神論者でもあった。この点は今でも理解しかねるほど徹底していた。家に神棚があったかどうか記憶がないし、母が仏壇に灯明をあげれば吹き消すというふうで、八四歳まで生きながら、信仰のない現世的な人間として終わった。迷信を一切排して科学しか信じなかった父には、明治の啓蒙主義の強い影響があったのかもしれない。
(後略)
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「八四歳まで生きながら」とありますが、『石巻市史』によれば石母田正輔氏は文久元年(1861)1月25日生まれで、逝去は昭和16年(1941)5月8日とのことなので、数えで81歳、満年齢では80歳ですね。

「石巻市史 第二十七篇 人物 石母田正輔」

『石巻市史』が「享年八十二」としているのはご愛嬌ですが、石母田氏が「八四歳まで生きながら」としているのはどうしたことなのか。
自分の父親の年齢を数えで3歳、満年齢で4歳間違うというのは、息子としてちょっとまずいのでは、という感じもします。
ま、それはさておき、石母田正輔氏の性格で一番面白いのは、マルクス主義者の息子すら驚くほどの無神論者としての徹底振りですね。
「母が仏壇に灯明をあげれば吹き消す」というのは半端ではありません。
しかし、これも仏壇の存在自体、そして妻のまつ子氏が仏壇に灯明をあげること自体を阻止している訳でもなさそうなので、自己の無神論の主張と他人の権利との調整の具合が何とも面白いですね。
石母田正輔氏の号は「石仏」で、最初は何か宗教的な背景があるのかと思いましたが、それは皆無であることが分かると、逆にでは何で徹底した無神論者なのに「石仏」などという号をつけたのか、という疑問が生じてきます。
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「札幌番外地」(by義江彰夫)

2014-03-16 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月16日(日)10時04分23秒

「石母田先生と札幌」に関する練習問題の解答は、

[設問1] 札幌番外地
[設問2] (2)仙台
[設問3] (1)義江彰夫氏は軽薄である。
     (2)義江彰夫氏の「冗談」は全然面白くない。

ですね。
佐伯有清氏は1925年生まれ。
石母田正氏よりは13歳下、義江彰夫氏より18歳上で、石母田氏への敬愛の念は義江彰夫氏より相当強い感じがしますね。

佐伯有清

「札幌番外地」に「小躍り」している義江彰夫氏を見つめる佐伯有清氏の視線はシベリアの永久凍土並みに冷たいものだったでしょうが、何も著作集の月報間でバトルを繰り広げなくてもよいのではないか、佐伯氏もちょっと大人気ないのではないか、という感じもしますね。
ま、それはともかく、佐伯氏が引用されている「母についての手紙─魯迅と許南麒によせて─」と石母田五人兄弟の末っ子、石母田達氏の『激動を走り抜けた八十年』(私家版、2006年)を読み比べると、達氏の「母はたまりかねて、次兄を生まれ故郷の北海道につれて行き、その心をひるがえさせようとしたが、成功せず、ついに青函連絡船で兄を海につきおとして自殺しようと決心した。しかし母にはそれができなかった」との記述は聊か信頼性に欠けるな、という私の評価に納得してくれる人も多いのではないかと思います。


共産主義運動に走った息子の母が死を選ぶというストーリーは、武装共産党の指導者・田中清玄(1906-93)の母が、代々会津藩の家老という家門の名誉を傷つけた息子を諌めるために自決した話を思い出させますが、これは息子がピストル2丁を常時携帯して、逮捕しようとする警官から逃げるために東大空手部で鍛えた空手の技を駆使していたような、戦前の共産党史の中でも特に殺伐としていた時期の状況を前提としている話ですね。
石母田正氏が母と札幌に行ったのは、確かに「和歌浦事件」と同年の出来事ですが、当時の石母田氏はまだ18歳で、別に暴力的な事件を起こした訳ではなく単に反体制的な思想団体に加入した疑いがあるだけ、それも初犯ですから、親としても殺して自分も死のう、などと思い詰めるほどの状況ではないですね。
そして石母田達説は、なにより「保守的で、情がこまやかで、学校の通信簿などは一度もみようともせず、出世するよりは、まめでたっしゃに生きることが大事だと考えていた庶民的な母」(「父と子と」)という石母田まつ子氏の人柄と結びつきません。
石母田達氏の話の出典は<一九六八・十二発行「この道」>なので、意図的な創作とまではいいませんが、政治家である達氏が選挙民向けに自己の人物像をアピールする際に、ついつい大げさに話を盛り上げてしまった程度のことではないかと思います。

田中清玄

※追記 更に考えた結果、「これは記憶の混乱ではなく、政治家である達氏が選挙目当てに作った格好良い物語の一部であって、自殺云々は意図的な創作と捉える方が自然」、というのが私の最終的結論です。
「緩募─仙台・江厳寺の石母田家墓地について」

※筆綾丸さんの2008年12月20日の投稿、「自決」

自決 2008/12/20(土) 17:17:47
小太郎さん
「台形史観」は、はじめは悪ふざけかと思いましたが、どうやら本気のようなので、
呆れてしまいました。

『田中清玄自伝』(ちくま文庫)を読み始めました。
母の自決のことが出てくる場面は、こうなっているのですね。

あの年(昭和5)の二月二十六日に「和歌浦事件」というのがありましてね。和歌山市
郊外にある和歌浦というところで、われわれ共産党中央部と官憲が激しく撃ち合った事件
です。当時私は相手を倒すピストルと、自決用のピストルと、いつも二挺持っていた。
事件前の二月五日は薄ら寒い嫌な感じのする日でした。夜になって和歌浦のアジトに帰る
途中、トンネルがあるのだが、このトンネルを抜けて出口に近づいたところで、突然暗闇
の中から、母の顔が浮かび出たんです。
常々、母は私に、
「お前が家門の名誉を傷つけたら、お前を改心させるために、自分は腹を切る」
と言っていた。それをすぐ思い出して「あっ、やったな。母は腹を切ったな」って、その
瞬間、そう思いました。以後、このことは私の心の中に重くのしかかって、その後の人生
の道を決める上で、決定的な影響を与えました。(76頁)
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