投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月 9日(日)10時30分37秒
後藤新平の女婿、鶴見祐輔が中心となって執筆した後藤新平伯伝記編纂会『後藤新平』(ただし、藤原書店の『<決定版>正伝後藤新平』の方)を台湾関係を中心に少し見てみましたが、石母田正輔氏の名前は出てきませんね。
しかし、荒井泰治は3箇所、藤原銀次郎は4箇所に登場しています。
例えば次のような場面。(第三巻、p422以下)
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こうして伯は、みずから読書に耽ったばかりでなく、総督府官吏のなかに、読書の風を作興せんがために、みずから率先して読書会なるものをつくった。それは毎月数回、時としては毎週一回、相会して、その読み得たる書物の内容を語り合う会であるが、その書物は、ひとり職務上の必要にとどまらず、文芸、詩歌、奇談、紀行、あらゆる書目にわたった。そしてしまいには、総督府の官吏ばかりでなく、台北居住の市民までもが、聴聞者のなかに列するようになった。
(中略)
しかしあくまでも実際家であった伯は、決して読書のための読書の弊に陥らなかった。読書子の読書は、真の読書にあらず、実務に忙殺される活動家が、寸暇をぬすんで読む書こそ、真の血となり肉となるのだとうのが、伯の意見であった。書は心をもって心を読むべし、目をもって文字を読むべからず。われ凡庸にして、神より宇宙の真理を直伝するの資格なきがゆえに、聖賢の書によりこれを補うにすぎずとは、しばしば伯の語るところであった。
それは後年、伯のいわゆる「学俗接近」の主張の根底をなすものであった。事実伯は、自ら学俗の仲介者をもって、任じていたようであった。したがって読み行くうちに、これはと思う節に行き当たると、伯はそれを天啓となして、すぐに実地に応用するのが常であった。それについて、読書会員の一人たりし柵瀬軍之佐は、次のごとく回顧している。
後藤伯は民政長官時代月一回ずつ、官邸で夜会に読書会なるものを起こしました。これは官吏側では各局長級の人物、民間側では、賀田金三郎、荒井泰治、山下秀実、木下新三郎、藤原銀次郎の諸氏や私等で、みな固くならないで種々の理想論を吐く。それを後藤長官が黙って聴いており、時に意見をも述べる。そしてこれと認めたことはドシドシ実行して行く。いわば私設の行政審議会のようなものでした。
たとえば台湾電灯、市区改正、建物会社、その他目ぼしい事業はみなこの読書会での談話に胚胎したといってもよいくらいでした。後藤伯が衆知を需(あつ)めたり、学者をその配下に集めてその説を聴き、施政に資するというやり方はまったく、前後一貫しています。
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また、藤原銀次郎の回想を引用した部分に、「今自分の住んでいる邸宅は伯の造ったもので、これを伯から譲り受けたものであるが」という一節があり(第三巻、p697)、後藤新平と藤原銀次郎が格別に親しい間柄だったことが分かります。
石母田正輔氏は後藤新平と直接に交わるような間柄ではなく、荒井泰治や藤原銀次郎を介しての間接的な関係だったようですね。
後藤新平の女婿、鶴見祐輔が中心となって執筆した後藤新平伯伝記編纂会『後藤新平』(ただし、藤原書店の『<決定版>正伝後藤新平』の方)を台湾関係を中心に少し見てみましたが、石母田正輔氏の名前は出てきませんね。
しかし、荒井泰治は3箇所、藤原銀次郎は4箇所に登場しています。
例えば次のような場面。(第三巻、p422以下)
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こうして伯は、みずから読書に耽ったばかりでなく、総督府官吏のなかに、読書の風を作興せんがために、みずから率先して読書会なるものをつくった。それは毎月数回、時としては毎週一回、相会して、その読み得たる書物の内容を語り合う会であるが、その書物は、ひとり職務上の必要にとどまらず、文芸、詩歌、奇談、紀行、あらゆる書目にわたった。そしてしまいには、総督府の官吏ばかりでなく、台北居住の市民までもが、聴聞者のなかに列するようになった。
(中略)
しかしあくまでも実際家であった伯は、決して読書のための読書の弊に陥らなかった。読書子の読書は、真の読書にあらず、実務に忙殺される活動家が、寸暇をぬすんで読む書こそ、真の血となり肉となるのだとうのが、伯の意見であった。書は心をもって心を読むべし、目をもって文字を読むべからず。われ凡庸にして、神より宇宙の真理を直伝するの資格なきがゆえに、聖賢の書によりこれを補うにすぎずとは、しばしば伯の語るところであった。
それは後年、伯のいわゆる「学俗接近」の主張の根底をなすものであった。事実伯は、自ら学俗の仲介者をもって、任じていたようであった。したがって読み行くうちに、これはと思う節に行き当たると、伯はそれを天啓となして、すぐに実地に応用するのが常であった。それについて、読書会員の一人たりし柵瀬軍之佐は、次のごとく回顧している。
後藤伯は民政長官時代月一回ずつ、官邸で夜会に読書会なるものを起こしました。これは官吏側では各局長級の人物、民間側では、賀田金三郎、荒井泰治、山下秀実、木下新三郎、藤原銀次郎の諸氏や私等で、みな固くならないで種々の理想論を吐く。それを後藤長官が黙って聴いており、時に意見をも述べる。そしてこれと認めたことはドシドシ実行して行く。いわば私設の行政審議会のようなものでした。
たとえば台湾電灯、市区改正、建物会社、その他目ぼしい事業はみなこの読書会での談話に胚胎したといってもよいくらいでした。後藤伯が衆知を需(あつ)めたり、学者をその配下に集めてその説を聴き、施政に資するというやり方はまったく、前後一貫しています。
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また、藤原銀次郎の回想を引用した部分に、「今自分の住んでいる邸宅は伯の造ったもので、これを伯から譲り受けたものであるが」という一節があり(第三巻、p697)、後藤新平と藤原銀次郎が格別に親しい間柄だったことが分かります。
石母田正輔氏は後藤新平と直接に交わるような間柄ではなく、荒井泰治や藤原銀次郎を介しての間接的な関係だったようですね。