投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月19日(水)10時16分45秒
私は今まで石母田正氏の母親のお名前を『石巻市史』に従って「まつ子」としてきましたが、『石母田正著作集』第16巻の「年譜」を見たら「まつ」になってますね。
この部分は明らかにご家族の監修を経ているはずですので、「まつ」が正しいのでしょうね。
また、『石巻市史』には、
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その後荒井が発起して北海道、札幌に電燈事業を経営することとなつたので、石母田は州知事を辞して渡道札幌電燈社々長に就任した。当時第一水力発電所を設けた場所は定山渓であつたが、電気と共に同地に埋もれている温泉開発に着目し、札幌定山渓間の電車を布設した結果、定山渓温泉が一躍遊覧地として繁賑を呈するに至つた。同温泉の業者は、これを石母田社長の恩恵として、今も深く景慕している。
とありますが、「株式会社じょうてつ」の公式サイトによれば、
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やがて、札幌の発展と共に石切山から生産される石材をはじめ、豊平川流域の御料林から 伐出される木材、久原鉱業会社の豊羽鉱山から産出される硫化鉄鉱石、さらに豊平川水系に 開発される水力発電所建設用資材の輸送と、定山渓温泉への行楽客の輸送を目的として、大正2年2月12日松田学氏を中心に札幌区在住の経財界人24名により、札幌区苗穂から豊平町字定山渓まで29kmの軽便鉄道敷設の免許申請が提出され、大正2年7月16日に免許状が下付された。
かくして大正4年12月20日資本金30万円をもって客貨輸送と鉄道ホテルの経営を目的とし定山渓鐡道(株)が創立され、初代社長に松田学氏が就任した。
とのことなので、石母田正輔氏が札幌から石巻に移ったのが大正元年(1912)であることを考えると、『石巻市史』の記述をそのまま信じることはできないですね。
札幌時代の石母田氏が将来予定されていた定山渓鉄道の敷設に何らかの貢献をしたことはあったのかもしれませんが、『石巻市史』の伝えるような中心的な役割とは到底思えず、おそらく地方政界の紛争の中で行われた政治的な宣伝の名残なんでしょうね。
>筆綾丸さん
>石仏
正輔翁が作った漢詩等を集めればヒントが出てくるのかもしれないですが、私としては、無神論者なのに「仏」を名乗るのはある種のユーモアでは、という感じがします。
ユーモアというか、もう少し乾いた諧謔ですかね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
agent provocateur と重力波 2014/03/18(火) 16:12:49
小太郎さん
石は石母田(と石巻)に由来するとして、なぜ仏なのか、仰るとおり興味深いですね。
『公共圏の歴史的創造』をもう少し捲ると、次のような記述がきて、これまた provocative ですね。石母田と浅田と・・・田の字くらいしか共通点がないんじゃないか、というような気もしますが。
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そして、石母田に送れること十一年、この Verhältnis と Verkehr の差にこだわり、そこに共同体と《結社》の明確な分岐点を看破したのが若き日の浅田彰であった。
◇……そのことがあるんで、「ベッタリ型共同体」から「交通の束」へと言ったけれども「交通」というのを「関係」と言いたくないんです。「関係」というと再び《ゼロ記号》に包摂された場のなかで安定しちゃって……。
◇……ノマディックな個、複数性をはらんだ「一」としての個、多数多様な「交通」と生成変化の束としての個が、「交通事故」を繰り返しながら絡み合っていく。それが、マルクスの言う「個のアソツィアツィオン」の現代的可能性だと思う。
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http://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/shosai.php?code=9784784217212
呉座勇一氏の『日本中世の領主一揆』を、 書店でパラパラ立ち読みしてみました。表紙カバーの一揆契状(1376年)の丁寧な解説があり、丸島和洋『戦国大名武田氏の権力構造』の何の説明もない表紙カバーとの差異は歴然としています。
契状の一方の当事者である伊達宗遠は、石母田氏の主筋の遠祖になるのですね。宗遠の花押は将軍家の武家様花押の上部に伊の崩字を鎮座させたもののようにみえ、宗遠には公方への憚りはなかったのか、というようなことを思いました。同氏の『一揆の原理』には、宗遠の子で伊達家中興の祖政宗の一揆契状(1377年)の写真があり(168頁)、この花押は将軍家(あるいは鎌倉公方)に瓜二つで、父の花押とは違うようですね。
http://sankei.jp.msn.com/science/news/140318/scn14031815250006-n1.htm
重力波の痕跡の検出・・・インチキ臭いナントカ細胞とは全く違うものであってほしいですね。むかし、欧米の研究者を招いた講演会の司会を佐藤勝彦氏がされているのを聴きに行って、地味な人だなあ、と思ったものですが。
小太郎さん
石は石母田(と石巻)に由来するとして、なぜ仏なのか、仰るとおり興味深いですね。
『公共圏の歴史的創造』をもう少し捲ると、次のような記述がきて、これまた provocative ですね。石母田と浅田と・・・田の字くらいしか共通点がないんじゃないか、というような気もしますが。
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そして、石母田に送れること十一年、この Verhältnis と Verkehr の差にこだわり、そこに共同体と《結社》の明確な分岐点を看破したのが若き日の浅田彰であった。
◇……そのことがあるんで、「ベッタリ型共同体」から「交通の束」へと言ったけれども「交通」というのを「関係」と言いたくないんです。「関係」というと再び《ゼロ記号》に包摂された場のなかで安定しちゃって……。
◇……ノマディックな個、複数性をはらんだ「一」としての個、多数多様な「交通」と生成変化の束としての個が、「交通事故」を繰り返しながら絡み合っていく。それが、マルクスの言う「個のアソツィアツィオン」の現代的可能性だと思う。
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http://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/shosai.php?code=9784784217212
呉座勇一氏の『日本中世の領主一揆』を、 書店でパラパラ立ち読みしてみました。表紙カバーの一揆契状(1376年)の丁寧な解説があり、丸島和洋『戦国大名武田氏の権力構造』の何の説明もない表紙カバーとの差異は歴然としています。
契状の一方の当事者である伊達宗遠は、石母田氏の主筋の遠祖になるのですね。宗遠の花押は将軍家の武家様花押の上部に伊の崩字を鎮座させたもののようにみえ、宗遠には公方への憚りはなかったのか、というようなことを思いました。同氏の『一揆の原理』には、宗遠の子で伊達家中興の祖政宗の一揆契状(1377年)の写真があり(168頁)、この花押は将軍家(あるいは鎌倉公方)に瓜二つで、父の花押とは違うようですね。
http://sankei.jp.msn.com/science/news/140318/scn14031815250006-n1.htm
重力波の痕跡の検出・・・インチキ臭いナントカ細胞とは全く違うものであってほしいですね。むかし、欧米の研究者を招いた講演会の司会を佐藤勝彦氏がされているのを聴きに行って、地味な人だなあ、と思ったものですが。