学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

定山渓鉄道と石母田正輔氏の関係

2014-03-19 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月19日(水)10時16分45秒

私は今まで石母田正氏の母親のお名前を『石巻市史』に従って「まつ子」としてきましたが、『石母田正著作集』第16巻の「年譜」を見たら「まつ」になってますね。
この部分は明らかにご家族の監修を経ているはずですので、「まつ」が正しいのでしょうね。
また、『石巻市史』には、

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その後荒井が発起して北海道、札幌に電燈事業を経営することとなつたので、石母田は州知事を辞して渡道札幌電燈社々長に就任した。当時第一水力発電所を設けた場所は定山渓であつたが、電気と共に同地に埋もれている温泉開発に着目し、札幌定山渓間の電車を布設した結果、定山渓温泉が一躍遊覧地として繁賑を呈するに至つた。同温泉の業者は、これを石母田社長の恩恵として、今も深く景慕している。

とありますが、「株式会社じょうてつ」の公式サイトによれば、

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 やがて、札幌の発展と共に石切山から生産される石材をはじめ、豊平川流域の御料林から 伐出される木材、久原鉱業会社の豊羽鉱山から産出される硫化鉄鉱石、さらに豊平川水系に 開発される水力発電所建設用資材の輸送と、定山渓温泉への行楽客の輸送を目的として、大正2年2月12日松田学氏を中心に札幌区在住の経財界人24名により、札幌区苗穂から豊平町字定山渓まで29kmの軽便鉄道敷設の免許申請が提出され、大正2年7月16日に免許状が下付された。
 かくして大正4年12月20日資本金30万円をもって客貨輸送と鉄道ホテルの経営を目的とし定山渓鐡道(株)が創立され、初代社長に松田学氏が就任した。

とのことなので、石母田正輔氏が札幌から石巻に移ったのが大正元年(1912)であることを考えると、『石巻市史』の記述をそのまま信じることはできないですね。
札幌時代の石母田氏が将来予定されていた定山渓鉄道の敷設に何らかの貢献をしたことはあったのかもしれませんが、『石巻市史』の伝えるような中心的な役割とは到底思えず、おそらく地方政界の紛争の中で行われた政治的な宣伝の名残なんでしょうね。

>筆綾丸さん
>石仏
正輔翁が作った漢詩等を集めればヒントが出てくるのかもしれないですが、私としては、無神論者なのに「仏」を名乗るのはある種のユーモアでは、という感じがします。
ユーモアというか、もう少し乾いた諧謔ですかね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

agent provocateur と重力波 2014/03/18(火) 16:12:49
小太郎さん
石は石母田(と石巻)に由来するとして、なぜ仏なのか、仰るとおり興味深いですね。

『公共圏の歴史的創造』をもう少し捲ると、次のような記述がきて、これまた provocative ですね。石母田と浅田と・・・田の字くらいしか共通点がないんじゃないか、というような気もしますが。
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そして、石母田に送れること十一年、この Verhältnis と Verkehr の差にこだわり、そこに共同体と《結社》の明確な分岐点を看破したのが若き日の浅田彰であった。
◇……そのことがあるんで、「ベッタリ型共同体」から「交通の束」へと言ったけれども「交通」というのを「関係」と言いたくないんです。「関係」というと再び《ゼロ記号》に包摂された場のなかで安定しちゃって……。
◇……ノマディックな個、複数性をはらんだ「一」としての個、多数多様な「交通」と生成変化の束としての個が、「交通事故」を繰り返しながら絡み合っていく。それが、マルクスの言う「個のアソツィアツィオン」の現代的可能性だと思う。
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http://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/shosai.php?code=9784784217212
呉座勇一氏の『日本中世の領主一揆』を、 書店でパラパラ立ち読みしてみました。表紙カバーの一揆契状(1376年)の丁寧な解説があり、丸島和洋『戦国大名武田氏の権力構造』の何の説明もない表紙カバーとの差異は歴然としています。
契状の一方の当事者である伊達宗遠は、石母田氏の主筋の遠祖になるのですね。宗遠の花押は将軍家の武家様花押の上部に伊の崩字を鎮座させたもののようにみえ、宗遠には公方への憚りはなかったのか、というようなことを思いました。同氏の『一揆の原理』には、宗遠の子で伊達家中興の祖政宗の一揆契状(1377年)の写真があり(168頁)、この花押は将軍家(あるいは鎌倉公方)に瓜二つで、父の花押とは違うようですね。

http://sankei.jp.msn.com/science/news/140318/scn14031815250006-n1.htm
重力波の痕跡の検出・・・インチキ臭いナントカ細胞とは全く違うものであってほしいですね。むかし、欧米の研究者を招いた講演会の司会を佐藤勝彦氏がされているのを聴きに行って、地味な人だなあ、と思ったものですが。
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ピンクの田中角栄

2014-03-19 | 石母田正の父とその周辺
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 3月19日(水)10時07分9秒

小熊英二の『<民主>と<愛国>』と『石母田正著作集』第16巻に掲載された終戦から安保闘争あたりまでの石母田氏の文章を併せ読むと、石母田氏は左翼版のコンピューター付ブルドーザー、ないし「ピンクの田中角栄」といった趣きがありますね。
とにかくエネルギッシュに様々な組織を運営し、参加する人々を激励し、困難な状況の下でも決して思いやりを忘れず、実に細やかな配慮をされています。
若い労働者や農民への手紙は、まるで蓮如上人の「御文」のようで、もらった人は喜びのあまり思想・信条を同じくする仲間に読み上げたりしたのでしょうね。

蓮如上人記念館
http://honganjifoundation.org/rennyo/rennyo/rennyo05.html

ただ、ご本人の意図とは別に、客観的には政治的活動は学問上マイナスの面が多く、その矛盾が露呈したのが国民的歴史学運動とその挫折のような感じがします。
石母田氏の学問的業績は国民的歴史学運動の前後で分けて考えるべきで、前期の代表作である『中世的世界の形成』は、厳密には「社会科学」と呼ぶのも躊躇われる種類のものではないですかね。
著作集の月報では実に多くの人がこの本を絶賛していますが、中には「内容は理解できなかったけれど、この本は私の人生を決定した」みたいなことまで言われている人もいて、さすがにちょっと引きますね。
第4巻月報において大町健氏は、

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(前略)
 私たちとその後の世代では、私のように『日本の古代国家』にまず取り組んだ人が多いのではないかと思う。先日、石母田氏の提起された在地首長制について研究史をまとめる機会があったが、そこで感じたことのひとつが、それ以前の業績を前提に、その延長線上で『日本の古代国家』を読む読み方と、『日本の古代国家』からそれ以前の諸論文に遡って業績を追いかけた者とでは、石母田氏の見解の理解の仕方が違うのではないか、ということであった。石母田氏の思想・歴史学それ自体が、石母田氏の意思を越えてすでに研究の対象であり、その研究視角によってその理解の仕方が違うのは当然であることからすれば、それを単に世代の問題とすることはできないのかもしれない。しかし、石母田氏と共に生き、その発表された論文を読み、『日本の古代国家』をそれらの延長として受け入れた世代と、私のように『日本の古代国家』に著された石母田氏の歴史学がどう形成されたのかを遡っていった者の違いは大きいという感はまぬがれ得なかった。
(後略)
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と言われていて、「石母田氏の思想・歴史学それ自体が、石母田氏の意思を越えてすでに研究の対象」という部分には傍線を引きたいような気分ですね。
ただ、実際には大町氏の後の世代でも、『中世的世界の形成』を出発点とする研究者は多いですね。

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