投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月 2日(月)13時19分58秒
丸山真男の「シュミット『国家・運動・民族 政治的統一体の三分肢』訳者はしがき」はけっこう難しいと思われる人が多いでしょうが、私も別に全部を理解して引用している訳ではありません。
ケルロイターの位置づけを正確に知るためには、その論敵たるカール・シュミットをきちんと理解しなければなりませんが、今の私には全くその準備はありません。
ま、カール・シュミットは一年後くらいの課題として、鵜飼信成の「狡猾」発言に戻りたいと思います。
さて、石川健治氏によれば、鵜飼は「その当時、カール・シュミットこそがナチス法学の代表者と看做されていたのであり、本当にナチスを批判したければ、シュミットを批判しなくてはならなかったのだ」と言ったそうですが、文脈上、「その当時」とは宮沢俊義が『公法学の諸問題─美濃部教授還暦記念』所収の「国民代表の概念」を発表した頃ですね。
同書の出版は1934年8月ですが、執筆に要した時間を考慮すると、前年の1933年から1934年前半くらいを念頭に置けばよいですかね。
丸山によれば、「一時はナチス公法学の指導者として自他ともに許し、ケルロイターなどの学問的攻撃にも拘らず少壮学徒を翕然として傘下に集めたシュミットが、一旦親衛隊の機関誌 Das schwarze Korps の一九三六年十二月の紙上で多分に悪意的な攻撃を受けるや忽ち問題は学問的領域にとどまらずして政治問題と化し、彼はベルリン大学教授の地位を除く一切の公職を退くの止むなきに至った」とのことなので、鵜飼の言う「その当時」は「カール・シュミットこそがナチス法学の代表者と看做されていた」と言ってよさそうですね。
『公法学の諸問題』出版が1934年、天皇機関説事件が1935年で、その翌1936年にカール・シュミットのドイツにおける社会的地位は激変して「ナチスの正統的地位から顛落」し、ケルロイターに取って代わられますが、宮沢俊義が「国民代表の概念」を執筆していた時点ではそんなことは誰も予想できず、あくまでシュミット一番、ケルロイター二番だった訳ですね。
しかし、だからといって私は鵜飼の宮沢評には全く賛成できません。
その理由は以前にも少し書きましたが、そこでは背景的・周辺的な事情に触れたのみで、肝心の「国民代表の概念」の分析は全く行っていませんでしたので、この点を後で少し書くつもりです。
「同時並行的な現象」─「窮極の旅」を読む(その30)
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