投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月 7日(土)11時42分38秒
憲法学者は昔も今も生真面目な人が多く、あまり憲法モノばかり読んでいると息が詰まるので最近は音楽関係に逃避することが多いのですが、今日は岡田暁生氏の『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』(中公新書、2009)を読んでみました。
ショパンの作品を論じたシューマンのエッセイに対するショパンの反応は面白いですね。
まず、シューマンについて。(p42)
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ロマン派における「音楽についての語り」は、詩的神秘化とも言うべき、一種独特のレトリックを駆使する。例えば批評活動も精力的に行っていたシューマンは、次のような文体をしばしば用いた。【中略】
あるいは「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」の言葉で始まる、有名なショパン評を見てみよう。モーツァルトの《ドン・ジョバンニ》の中の二重唱「お手をどうぞ」によるショパンの変奏曲(作品二)の紹介である。
「僕はなにげなく〔楽譜を〕ぱらぱらとめくってみた。この音のない音楽の、ひそやかな楽しみというものには、何かこう、魔法のような魅力がある。〔中略〕この時はまるで見覚えのない眼、何というか、花の眼、怪蛇(バジリスク)の眼、孔雀の眼、乙女の眼が妖しく僕をみつめているような気がした。そうしてところどころそれが特に鋭く光るのだ」。
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これだけ熱くショパンを語るシューマンに対し、ショパンは辛辣です。(p47以下)
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もちろん一九世紀に生まれた神学的な音楽批評の中に、ある種の胡散臭さを感じ取っていた人もなかったわけではない。例えばショパンは、右に引用した自作(作品二)についてのシューマンのエッセイを読んで、文学青年シューマンの想像力過剰に辟易し、次のような手紙を友人に送っている(『ショパンの手紙』白水社、一四一ページ)。
「長い序論のあとで彼〔=シューマン〕は一小節一小節を分析してこれはただ普通にある変奏曲ではない、幻想的な絵画的な描写だといっています。第二ヴァリエーションはドン・ジョバンニがレポレロとかけまわるのだとか、第三はツェルリーナが接吻されていて、それを見て怒るマゼットを左手がえがいているのだとか、─またアダージオの第五小節では変ニ音がドン・ジョバンニがツェルリーナと接吻するのをあらわしているのだと彼は主張するのです。〔中略〕このドイツ人の想像力にはほんとうに死ぬほど笑った。」
シューマンとは対照的にショパンには、詩的/宗教的な夢想癖はなかった。彼にとって音楽は、音楽以上でも以下でもなかった。
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ここでまた憲法の話に戻って恐縮ですが、シューマンの文章は清宮四郎を熱く語る石川健治氏の華麗な文章を連想させますね。
仮に清宮四郎が「窮極の旅」を読んだら、どんな感想を抱くのか。
まあ、清宮にはショパンのような辛辣さはありませんから、「死ぬほど笑った」りはしないでしょうが、俺ってそこまで偉い学者なのかなあと、ちょっときまりの悪い思いをするかもしれません。
ちなみに文学青年シューマンはライプツィヒ大学で法律を学んだ法律青年でもありました。
憲法学者は昔も今も生真面目な人が多く、あまり憲法モノばかり読んでいると息が詰まるので最近は音楽関係に逃避することが多いのですが、今日は岡田暁生氏の『音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉』(中公新書、2009)を読んでみました。
ショパンの作品を論じたシューマンのエッセイに対するショパンの反応は面白いですね。
まず、シューマンについて。(p42)
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ロマン派における「音楽についての語り」は、詩的神秘化とも言うべき、一種独特のレトリックを駆使する。例えば批評活動も精力的に行っていたシューマンは、次のような文体をしばしば用いた。【中略】
あるいは「諸君、脱帽したまえ、天才だ!」の言葉で始まる、有名なショパン評を見てみよう。モーツァルトの《ドン・ジョバンニ》の中の二重唱「お手をどうぞ」によるショパンの変奏曲(作品二)の紹介である。
「僕はなにげなく〔楽譜を〕ぱらぱらとめくってみた。この音のない音楽の、ひそやかな楽しみというものには、何かこう、魔法のような魅力がある。〔中略〕この時はまるで見覚えのない眼、何というか、花の眼、怪蛇(バジリスク)の眼、孔雀の眼、乙女の眼が妖しく僕をみつめているような気がした。そうしてところどころそれが特に鋭く光るのだ」。
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これだけ熱くショパンを語るシューマンに対し、ショパンは辛辣です。(p47以下)
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もちろん一九世紀に生まれた神学的な音楽批評の中に、ある種の胡散臭さを感じ取っていた人もなかったわけではない。例えばショパンは、右に引用した自作(作品二)についてのシューマンのエッセイを読んで、文学青年シューマンの想像力過剰に辟易し、次のような手紙を友人に送っている(『ショパンの手紙』白水社、一四一ページ)。
「長い序論のあとで彼〔=シューマン〕は一小節一小節を分析してこれはただ普通にある変奏曲ではない、幻想的な絵画的な描写だといっています。第二ヴァリエーションはドン・ジョバンニがレポレロとかけまわるのだとか、第三はツェルリーナが接吻されていて、それを見て怒るマゼットを左手がえがいているのだとか、─またアダージオの第五小節では変ニ音がドン・ジョバンニがツェルリーナと接吻するのをあらわしているのだと彼は主張するのです。〔中略〕このドイツ人の想像力にはほんとうに死ぬほど笑った。」
シューマンとは対照的にショパンには、詩的/宗教的な夢想癖はなかった。彼にとって音楽は、音楽以上でも以下でもなかった。
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ここでまた憲法の話に戻って恐縮ですが、シューマンの文章は清宮四郎を熱く語る石川健治氏の華麗な文章を連想させますね。
仮に清宮四郎が「窮極の旅」を読んだら、どんな感想を抱くのか。
まあ、清宮にはショパンのような辛辣さはありませんから、「死ぬほど笑った」りはしないでしょうが、俺ってそこまで偉い学者なのかなあと、ちょっときまりの悪い思いをするかもしれません。
ちなみに文学青年シューマンはライプツィヒ大学で法律を学んだ法律青年でもありました。