投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月10日(火)08時22分56秒
続きです。(p44以下)
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中田 私は、平泉先生と教学局は元々仲が悪いと思っています。後世の人は一緒に見ていて、平泉先生を皇国史観の元凶のように言うけれども、平泉先生は学問的であり、教学局の方が短絡的で浅薄な史観です。しかも、平泉先生の下には朱光会という右翼学生運動が存在していて、教学局思想課ではチェック対象になっていました。そうしたことからも、相容れない関係だったのでしょう。
国史舘や国史編修院などの重要な案件で代表的な先生方を各大学から集めるとなれば、平泉先生は主任教授ですから必ず呼ばれます。そこで堂々と反対意見を展開をされるだけの勢いがある先生でした。他の人はみな皇国史観にハイハイと従うだけで、あとは山田【孝雄】先生が『大日本史料』を批判する程度でした。
伊藤 そのへんをもう少し説明してください。
中田 戦後追放されないで東大に残った和辻哲郎先生などと、教学局はかなり接触を持っています。そういう意味ではやはり教学局長は一廉の学者でした。
しかし、あの頃の方が今より、インテリ層の間ではマルクス、エンゲルスその他の研究はずっと熱心でしたね。マルクスの著作を持っていると没収されるし、官憲にひっぱられたでしょう。しかしなんとか底辺に、とあの頃は熱心だったですね。今の学生にはそういった雰囲気はないですね。
竹内 あの時代はみな大学生のときに一番勉強したのではないですか。
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伊藤氏が「そのへんをもう少し説明してください」と言っているにも拘らず、中田氏は和辻哲郎と教学局の関係について少し触れただけで、その後はずいぶん変な展開になります。
「あの頃」は一体いつ頃を念頭に置いているのか。
竹内氏の「あの時代」も戦争末期とは思えず、妙に間延びした応答ですね。
ま、もう少し続けてみます。
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中田 みんなそういう勉強をしていたと思うのですが、それを指導するのが大学なら学生部、専門学校・高等学校は生徒課、生徒主事です。そのポストはだいたい文部省の人間が行っている場合が多く、文部省から高等学校・専門学校へ入るのは一つのルートでした。
私が教学局に行ったときは、国史の卒業生は三島善鎧(良兼)、田名部貞宣、後藤四郎など四、五人いましたが、その連中と朱光会の関係は今もって分からない。われわれの時代には和辻色が非常に強く、平泉先生を一歩避けていましたね。今は皇国史観がもっぱら集中攻撃を受けていますが、本当は文部省が『国体の本義』(昭和十二年刊行、全国の学校・官庁に配布)を出したのが悪いのです。当時は悪いと思っておらず、大先生はみな皇国史観に異議がなかったのです。そういう時代だったのでしょう。戦前がみんな悪いと見なされているのは、占領政策の指導の結果です。
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ここまで読んでも中田氏の言う「リベラル」の意味が今ひとつ分かりません。
和辻哲郎に親和的であれば「リベラル」なのか。
反平泉なら「リベラル」なのか。
このあたり、伊藤氏の問いを中田氏がはぐらかしているような感じもして、あるいは中田氏はアクの強い伊藤氏が嫌いなのかなとも思いましたが、すぐ後で伊藤氏が平泉澄にインタビューした話をすると、「伊藤さんはポケットに手を入れて話を聞いていたので怒られたそうですね(笑)」などとあるので、別にそんなこともなさそうですね。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月10日(火)07時32分48秒
中田易直氏は昭和16年に東京帝大文学部美術史学科に入学し、一年後に国史学科に移りますが、「その頃、私は和辻哲郎先生に心酔していました」とのことで、平泉澄を仰ぐ主流派とは距離を置き、「なんとなく主流でないところでうろうろして」、卒論(「近世武士道の成立」)の指導教授も中村孝也だそうですね。
そして昭和18年9月に繰り上げ卒業して文部省に入った一ヵ月後に入隊するも「ちょっと心臓が弱かったものですから、即日帰郷」となり、文部省に復帰して小沼洋夫(なみお)の下で『国史概説』の編纂を行ったそうです。
ということは、戦前の文部省を知っているといっても下っ端で二年間足らずであり、また、明らかに政治向きの性格ではない方なので、全体的にちょっと物足りない感じは否めません。
ま、それはともかく、興味深い箇所を少し引用してみます。(p43以下)
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伊藤 皇国史観についてもう少し具体的にご説明くださいますか。
中田 皇国史観は、そもそも文部省教学局が推進したもので、平泉澄先生を待つまでもないのです。ですから、平泉史学に責任を全部かぶせるのは間違っていると思います。ただ、教学局もどちらかというとリベラルな性格があって、軍部と合わないところがありました。
当時、岡部長景文部大臣が軍部から東大と京大の某教授の首を切れと言われたことがありました。担当である近藤寿治教学局長がそれに該当する人間がいるとは思えないとして、事情を聞くために武藤章軍務局長に面会を申し入れたのです。
指定された時刻に近藤局長と小関紹夫思想課長の二人が行くと、陸軍省の大きな部屋に関係諸官が大勢並んでいた。近藤局長が、左右極端な思想を持つ教育に堪えない者がいれば私に一番早く情報が寄せられるはずなので、どういうことですかと聞いたそうです。武藤局長は聞きたいことがあれば自由に言いなさいと秘書官に言ったところ、どこからも質問が出なかったので、そのまま帰ってきたことがあったそうです。そういう話が出て来るぐらい、教学局と軍部は合わなかったのです。
伊藤 今の説明で一般読者が理解しにくいのが、文部省がリベラルであり皇国史観であったということですね。それと平泉さんとの関係です。
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「皇国史観」という用語を通俗的な意味ではなく、あくまで当時の史料に即して考察すると、平泉澄とは特に関係がないということは昆野伸幸氏が明らかにされていますが(『近代日本の国体論』)、中田氏の回想も昆野氏の理解に沿ったものですね。
ま、引用部分に限れば、中田氏の用いる「リベラル」の意味が分かりにくくて、単に軍と親和的でなかっただけのようにも読めます。
平泉澄は「皇国史観」の理論的リーダーか?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1a390811d4a697b38ca1690a0451ca93
さて、やり取りの中で「国民精神文化研究所」が出てきたので、おおっ、と思ったのですが、中田氏自身は特に関係がなかったそうで、あっさりした記述になっていますね。(p38以下)