学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「自分のために苦労してくれた母への深い想い」

2015-11-18 | 増鏡
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年11月18日(水)09時50分15秒

久しぶりに本郷和人氏の『天皇はなぜ生き残ったか』(新潮新書、2009)を読んでみたのですが、後宇多院と後醍醐天皇の父子関係について、本郷氏は村松剛氏(1929-94)の『帝王後醍醐』(中央公論社、1978)と全く同じように考えておられるのですね。(p163以下)

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 上皇と天皇の不和には、理由は二つあったように思う。一つは政治手法の違いである。上皇は歴代の治天の君の中でも、とくに幕府との融和を心がける人であった。先に記したように、上皇の腹心の六条有房は、幾度も鎌倉に下向している。文書では済まさず、交渉を密に行う。上皇はそれにより、皇位も東宮の地位も独占する(天皇は後醍醐、皇太子は邦良親王)など、大覚寺統の利益確保に多大な貢献をしていた。これに対し、天皇の幕府嫌いは有名であった。これでは父子がうまくいくわけがない。
 不和の理由の二つめは、情緒的なことである。後宇多天皇の妻の一人は、参議藤原忠継の娘で忠子という女性であった。二人の間には尊治親王が生まれたが、忠子は天皇の愛情を確信できなかったらしい。このままでは、自分が生んだ可愛い皇子が皇位を得ることは覚束ない。そう判断するや、何と彼女は後宇多の父、大覚寺統の統主であった亀山上皇のもとに奔った。実権を掌握する上皇の寵愛を得るために。やがて尊治親王はみごと皇太子の座を射止めたが、それが忠子に閨房でねだられ、相好を崩した亀山上皇の後援に拠っていたことは想像に難くない。
 忠子は亀山上皇に細やかに奉仕する。上皇が亡くなると、菩提を弔うため出家した。尊治親王には、自分のために苦労してくれた母への深い想いがあったのだろう。即位して後醍醐天皇となるや、直ちに母を女院に列し、談天門院の号を贈った。さしたる家の出ではない忠子は、女性としての栄誉を極めた。だがこうしたことは、事ごとに後宇多上皇に負の刺激を与えただろう。亀山と後宇多、後宇多と後醍醐。大覚寺統の父子はそれぞれに不和であった。やがて、これに後醍醐天皇と護良親王の対立が加わる。
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「やがて尊治親王はみごと皇太子の座を射止めたが、それが忠子に閨房でねだられ、相好を崩した亀山上皇の後援に拠っていたことは想像に難くない」とありますが、尊治親王が皇太子となったのは1308年で、亀山院はその3年前に亡くなっていますから、直接的な「後援」はありえないですし、最晩年の亀山院は尊治親王など全く無視して1303年に生まれたばかりの恒明親王の立坊を図っていた訳で、ちょっと奇妙な書き方ですね。
また、「母を女院に列し、談天門院の号を贈った」のが直接には後醍醐天皇の意向によるものだったとしても、それが「後宇多上皇に負の刺激を与えた」んですかね。
本当に忠子が無力な後宇多院の下にいることに嫌気がさして「大覚寺統の統主であった亀山上皇のもとに奔った」のなら、臣下の前で大恥をかかされた後宇多院は忠子を嫌って「女性としての栄誉を極め」させるようなことはやめさせるのではないかと思いますが、後宇多院政下であるにも拘らず、後宇多院は拒否・妨害はしていません。
同時期の女院号授与の例を見ると、忠子が談天門院の号を得た翌元応二年(1320)、談天門院と同年(1268)の生まれの一条頊子という女性が万秋門院の号を得て、「女性としての栄誉を極め」ていますが、この人は後醍醐天皇とは全く縁がありませんから、後宇多院の意向としか思えません。
談天門院も万秋門院も後宇多院政下で女院号を得た点は共通ですから、後宇多院の意向に程度の差はあっても、いずれも後宇多院の意思に基づくと考えてよいのではないですかね。
そもそも忠子が「大覚寺統の統主であった亀山上皇のもとに奔った」と考える史料上の根拠を求めると、本郷和人氏の場合も村松剛氏と同様に『増鏡』の叙述に行き着くはずですので、結局は『増鏡』がどれだけ信頼できるのか、という話になりそうですね。

村松剛「忠子の恋」

>JINさん
森茂暁氏の講談社メチエの本は、恒明親王に関する限り、氏が既に発表されていた論文に新しいことは付加していないはずですが、読み直してみます。
永井路子氏の『歴史の主役たち―変革期の人間像』は1978年刊行とのことなので、当時の公家社会研究のレベルを考えると、正直あまり期待できないのですが、探して読んでみます。

※JINさんの下記投稿へのレスです。
「南朝全史-大覚寺統から後南朝まで(講談社選書メチエ)」
コメント
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