投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月17日(火)23時15分24秒
続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p244以下)
-------
御心のあくがるるままに、御覧じ過ぐす人なく、みだりがはしきまでたはれさせ給ふ程に、腹々の宮たち数知らず出でき給ふ。大方、十三の御年より宮は出できそめさせ給ひしが、年々に多くのみなり給へば、いとらうがはしきまでぞあるべき。
故皇后宮の御雑仕〔ざふし〕にて、貫川〔ぬきかは〕と言ひし、御霊とかや聞ゆる社〔やしろ〕のみこにてぞありける。さきにも聞えしやうに、位の御程に度々召されて、姫宮生まれ給へりしを、それも御乳母の按察の二位殿の里に、かの五条の院の御腹のと二所〔ふたところ〕、同じ御かしづきぐさにておはせし程に、近衛殿へいらせ給ひぬれば、殿はもとおはせし北の政所〔まんどころ〕をもすさめ給ひて、この宮をたぐひなく思ひ聞えさせ給ふ程に、かひがひしく若君<左大臣経平>出でき給へるをも、いみじうかしづきいたはり給ひて、前の北政所の御腹の太郎君、中将ばかりにて物し給ふをも、よくせずは、おしのけぬべうもてなし奉り給ひけるを、新院聞かせ給ひて、「いといとほしき事なり。これはいまだ稚児なり。ちとおとなしうなり給へるをば、いかでかひき違〔たが〕へるやうはあらん」とのたまはせて、その大臣〔おとど〕はつひに御家も保たせ給へりしなり。
-------
【私訳】亀山院は、恋心のおもむくままに、気に入った女性をお見逃しにならずに、度を過ごすほど手をつけられているうちに、腹違いの宮たちが大勢お出来になった。だいたい、十三の御年からお子様がお出来になり始め、年々増えるばかりであられたので、たいそう乱りがわしいと思われるほどだ。
故皇后宮(洞院佶子)の御雑仕で、貫川といったのは、御霊神社とかいった神社の巫女であった。前に申したように、御在位のときに度々召されて、姫宮がお生まれになったが、その姫宮も御乳母の按察の二位殿の実家に、あの五条院の御腹の姫宮と一緒に大事にお育て申しなさっていたが、(成長された貫川腹の姫宮は)近衛家基公のもとに行かれたので、家基公は元からおられた北政所を捨てられて、この姫宮をこの上なく寵愛された。その甲斐があって若君(経平公)がお生まれになると、この若君をたいへん大事にお育てになって、前の北政所の御腹の太郎君(家平公)が中将ほどにておられたのを、悪くすると押しのけてしまいそうなほどに若君を大事にされたので、亀山院がお聞きになって、「それはたいそう気の毒なことだ。若宮はまだ稚児である。少し大人になっておられる太郎の方と、どうして順序を違えるようなことがあってよかろうか」とおっしゃったので、家平公はとうとう御家をお継ぎになられたのである。
ということで、文応元年(1260)の洞院佶子入内の場面に出てきた御雑仕の貫川がここに再び登場します。
「巻七 北野の雪」(その3)─御雑仕・貫川
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/099e8eceb2f5caac3fdf3388b3f7ebc3
貫川が生んだ姫宮は近衛家基(1261-96)の元の正室を押しのけて新たに正室となったとのことですが、『尊卑分脈』によれば家基の子の経平(1287-1318)の母が「亀山院皇女」となっているので、この女性が貫川の生んだ姫宮ですね。
他方、「太郎君」の家平(1282-1324)の母は『とはずがたり』の「近衛大殿」に比定されている鷹司兼平の娘です。
「前の北政所の御腹の太郎君」の家平が近衛中将であったのは正応五年(1292)十一月から永仁三年(1295)までなので、家平が十一歳から十四歳のときの話ですね。
家平は後に氏長者、関白左大臣となりますが、『増鏡』においては何といっても男色話が目立ちます。
近衛家平の他界
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2240db7a9c314fc232730a9e5fffc723
なお、近衛家基の妹・位子(新陽明門院、1262-96)についても、その不行跡が「巻十一 さしぐし」に描かれていて、『増鏡』作者の近衛家関係者に対する視線は冷ややかですね。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月17日(火)20時30分47秒
続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p243以下)
-------
その頃、大宮院いと久しく悩ませ給へば、本院も新院も常に渡り給ひて、夜などもおはしませば、異〔こと〕御腹の法親王、姫宮たちなども、絶えず御とぶらひにまうでさせ給ふ中に、故院の位の御時、勾当内侍といひしが腹に出で物し給へりし姫宮、のちには五条の院と聞えし、いまだ宮の御程なりしにや、いと盛りにうつくしげにて、切〔せち〕に隠れ奉り給ふを、新院あながちに御心にかけてうかがひ聞え給ふ程に、この御悩みの頃、いかがありけん、いみじう思ひの外にあさましと思し嘆く。
かの草枕よりはまことしう、にがにがしき御事にて、姫宮まで出できさせ給ひにき。限りなく人目をつつむ事なれば、あやしう誰〔た〕が御腹といふこともなくて、院の御乳母〔めのと〕の按察〔あぜち〕の二位の里に渡し奉り給へり。幼き御心にもいかが心え給ひけん、「宮の御母君をば誰〔たれ〕とか申す」と人の問ひ聞ゆれば、「いはぬ事」とのみぞいらへさせ給ひける。
-------
【私訳】その頃、大宮院がたいへん長く御病気になられたので、後深草院も亀山院もいつもお見舞いにお越しになって、夜なども御滞在だった。大宮院と異なる御腹に生まれた法親王や姫宮たちも絶えずお見舞いに伺いなさったなかに、後嵯峨院の御在位中、勾当内侍といった女官の腹にお生まれになった姫宮で、後に五条院と申し上げた方がまだただの宮さまでいらっしゃった時分のことであったか、たいそうお年盛りで美しくて、ひたすら(亀山院の御目にとまらぬように)隠れていらっしゃったのを、亀山院はひたむきにお心をかけて機会を伺っておられるうちに、この御病気のころ、どのような折があったのであろうか(ついに契りを結ばれたので)、姫宮はまことに意外で、ひどいことだとお嘆きになる。
あの後深草院と前斎宮との「草枕」の仮寝にくらべると、こちらの方はより深く苦々しいご関係で、姫宮までお生まれになった。限りなく人目を避けるべきことであるので、妙なことに誰の御腹の姫宮ということもはっきりさせず、亀山院の御乳母の按察の二位の実家におあずけなさった。幼いお心にも、どんなふうにお思いになっておられたのであろうか、「宮のお母様はどなたでいらっしゃいますか」と人が尋ね申し上げると、「それはいわないこと」とだけお答えになった。
ということで、「勾当内侍」は琵琶の名手、藤原孝時女の博子ですね。
この点については、以前検討しました。
「刑部卿の君」考
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b1142af01bd5c7e08644f57dbf5f2558
そして「勾当内侍」が生んだ姫宮は懌子内親王で、五条院の女院号宣下があったのは正応二年(1289)十二月十日のことですから、ずいぶん先の話です。
仮に亀山院と懌子内親王の関係が弘安元年(1278)に生じたとすると、亀山院は三十歳、懌子内親王は十七歳ですね。
なお、懌子内親王が生まれたのは弘長二年(1262)ですから「故院の位の御時」ではありませんが、「後嵯峨院の御在位中」と訳さざるをえないですね。
井上氏も「故後嵯峨が御在位のとき」と訳されています。(p246)
懌子内親王(五条院、1262-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%87%8C%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月17日(火)10時41分37秒
続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p241以下)
-------
新院は、尽きせず皇后宮のおはしまさましかばとのみ、しほたれがちに、思し忘るる世なき御心や慰む、と、これかれ参らすれど、をさをさなずらへなるもなく、新陽明門院も、はじめは御おぼえあるやうなりしかど、次第にかれがれなる御事にて、御ひとり寝がちなり。
故皇后宮の御はらからの中の君も、御面影や通ひたらんとなつかしさに、忍びてねんごろにのたまひしかば、参らせ奉り給へれども、いとしもなくて、姫宮一所〔ひとところ〕ばかり取り出で給へりしままにてやみにき。姫宮をば大宮院の御かたはらにぞかしづき聞え給ふ。
-------
【私訳】新院は、いつまでも皇后宮が御健在であったらとばかり嘆きがちで、思い忘られるときもなかったので、(周囲は)その御心を慰めようと多くの女性をおそばに置くが、なかなか皇后宮に比べられる人もなく、新陽明門院も、初めは御寵愛があるようだったが、次第にお気持ちも離れて、新院は御ひとり寝がちになった。
故皇后宮の御妹の中の君も面影が似ているであろうと懐かしさに、内々懇切に仰せがあったので参られることとなったが、それほどの御寵愛もなく、姫宮お一人ばかり御生みになっただけで終わってしまった。姫宮は大宮院のおそばで大事にご養育なさる。
ということで、亀山院が建治三年(1277)になっても文永九年(1272)に亡くなった皇后宮をいつまでも慕っていたことが強調され、反面、新陽明門院への寵愛は直ぐに薄れたとされています。
「巻八 あすか川」(その15)─小倉公雄
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/66d952eedc3d611fae6247e17e1db6b4
ただ、この時期以降も亀山院が新陽明門院と同車であちこち出かけたという記録がけっこうあって、この部分は『増鏡』作者の新陽明門院への悪意の現われのような感じがします。
また、「巻十一 さしぐし」に出てくる新陽明門院の不行跡のエピソードの伏線でもありますね。
ちなみに皇后宮(京極院、洞院佶子)は寛元三年(1245)生まれで亀山院(1249-1305)より四歳上、新陽明門院(1262-96)は亀山院より十三歳若く、その年齢差は十七歳です。
-------
かくて弘安元年になりぬ。十月ばかり、また二条内裏に火出できて、いみじうあさまし。万里小路殿はありし火の後、また造られて、今年の八月に御わたましにて新院住ませ給へれど、内裏焼けぬれば、この院又内裏になりぬ。うち続き火のしげさ、いと恐ろし。
-------
【私訳】こうして弘安元年(1278)になった。十月ごろ、また二条内裏に火事が起きて、実にひどいことであった。万里小路殿は先の(文永十年の)火災の後、新造となって、今年の八月に御移徙があって新院がお住まいになっておられたが、内裏が焼けたので、万里小路殿がまた内裏となった。火災が頻繁に続き、本当に恐ろしい。
ということで、火事の記事が目立ちます。
ちなみに文永十年の万里小路殿の火災の場面では亀山天皇が大活躍していました。
「巻八 あすか川」(その19)─内裏の火災と円助法親王
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4de832958d81d6cdb165dc7dc4c4f079