投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月30日(月)18時15分51秒
旧サイトのデータは何台か前に使っていたパソコンのハードディスクの中にあり、バックアップ用のフロッピーディスク(!)も手元にないので、図書館で『国史叢説』を見た方が早いのですが、未だに確認できていません。
ただ、昨日の投稿で、
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(二)に<「君が御代にも」とあるのは、上皇ではいえないことである>というのは、岩波古典文学大系の引用部分に「君が御代にも」という表現がないので、ちょっと妙な感じですね。
おそらく八代論文で参照されている『増鏡』の写本には「我御代にしもかかる乱れ出で来て、まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき」の冒頭に相当する部分に「君が御代にも」とあったのでしょうが、今は『国史叢書』が手元にないので、ちょっと確認できません。
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と書いた点、どうも八代の論文でも「我御代にも」となっていて、川添昭二氏が「君が御代にも」と間違ったようですね。
これは改めて確認することとし、『蒙古襲来研究史論』(雄山閣、1977)から続きを引用します。(p160以下)
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(二)八代説への批判
大正七年(一九一八)四月、龍粛は『史学雑誌』二九編四号に「弘安の御願に就いて」(昭和三二年一二月、春秋社刊『鎌倉時代』下に再録)を発表し、『増鏡』の記事から、この御願は大宮院(後嵯峨天皇の皇后・姞子。西園寺実氏の第一女。後深草・亀山天皇の生母)とことに親密な関係の人物でなければならぬとして種々考証し、それは後宇多天皇ではなくやはり亀山上皇であるとした。また八代説の根拠の一つは、『増鏡』以外の諸史料に、院から大神宮への使いの発遣のことがまったく見えず、『弘安四年日記抄』の記事から、この御願が公卿勅使経任が大神宮に捧げたものに違いないとするところにあった。龍は、これに対して、院使発遣の蓋然性がまったくないとはいえないとし、『弘安四年日記抄』の「希代之御願也、叡慮異他之子細」という表現も単なる形容詞にすぎず、八代説=後宇多天皇説のいうように身を以て国難に代らんとする御願を指すものとは限らないとした。弘安の御願に関して、八代説を批判した龍粛の前掲論文のあと、ひきつづいて、慎重な行論ではあるが、亀山説を支持して新史料を提示し八代説を批判した栢原昌三の論文「弘安御祈願と通海権僧正」(『歴史と地理』二巻一号、大正七年八月)が発表された。八代はその後再びこの問題を大正八年五月の史学会講演で論じた(『史学雑誌』三〇編六号、前掲『国史叢説』に収む)。
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八代国治の論文は『史学雑誌』の大正七年(1918)一月号に載りましたが、同誌の同年四月号で龍粛が八代説を批判し、ついで栢原昌三も八代説を批判します。
八代国治(やしろ・くにじ、1873-1224)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E6%B2%BB
龍粛(りょう・すすむ、1890-1964)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E7%B2%9B
以前調べたときは、栢原昌三については『旗本と町奴』(国史講習会、1922)という著書があることしか分からなかったのですが、朝鮮史編修会に関係していた人のようですね。
検索してみたところ、古川祐貴氏に「朝鮮史編纂委員・栢原昌三の「宗家文庫」調査」(『アジア遊学』177号、2014)という論文があるそうです。
さて、上記論文の中では龍粛のそれが一番分かりやすいので、次の投稿で紹介します。
川添著の上記引用に続く部分は、龍粛の論文を知らないと意味が分かりにくいところがありますが、論点をざっと眺めるには便利なので、先に引用しておきます。
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八代は、栢原が亀山上皇祈願の証として挙げた通海の『伊勢大神宮参詣記』の法楽社の記事を疑わしいとして退けた。また栢原があげた『続門葉集』中の通海の歌の詞書にみえる「公家」というのは、天皇しか指さないと論じ、さらに栢原があげた『弘安百首』中の亀山上皇の御製は『新後撰和歌集』によって弘安元年のものと認められるから、弘安四年の祈願に関係はないと断じた。最後に従前からの自説をまとめ、後宇多天皇説が成立する理由として次の三カ条をあげている。
第一、増鏡の文章のみでも、天皇の御願と解すれば、文章も調ひ、脈絡も貫通して、意味が徹底する様であります、之に反して上皇の御願と解すれば、或は石清水に御祈願、或は伊勢に御祈願、或は御在位中の御祈願と三様に解せられる上に、文章に連絡もなくなりて、難解なものとなるのであります。
第二、勘仲記、弘安四年日記抄等によれば、後宇多天皇が公卿勅使を発遣せられ、且其の御祈願は委しく記されて、之に希代の御願とさへあって、立派な傍証とすることが出来る様に思はれる、然るに亀山上皇が太神宮に御祈願になられたことは、弘安九年太神宮参詣記に、通海法印が院宣を奉じて法楽社に祈ったとあるが、同書は後世のもので信拠すべき史料ではない。従うて上皇太神宮御祈願の証拠は見当たらぬこととなるのであります。
第三、弘安四年閏七月一日の大風雨は、当時の人々は、天皇の御祈願に基づく神風と信じ、弘安四年日記抄に「今出神力給、雖末代猶感涙難押事也」、勘仲記に「今度事神鑒炳焉之至也」と書いてあるのを見ても、天皇の御願であったことの傍証とすることが出来ませう。
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「弘安四年日記抄」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E5%AE%89%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E6%97%A5%E8%A8%98%E6%8A%84