投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月19日(木)22時17分33秒
『増鏡』に描かれた「持明院殿」蹴鞠と比較するために『とはずがたり』を見てみます。
後深草院とその異母妹の長いエピソードで巻一が終った後、『とはずがたり』の巻二は文永十二年(建治元年、1275)正月、二条がしみじみとした元旦の感慨を述べることで始まります。
「巻八 あすか川」(その17)─後院別当の花山院通雅
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d6824d812a9cc9d7f93f1f6ccf17721
『とはずがたり』に描かれた後院別当の花山院通雅
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe672068d6739278f7b411ecbde2fe35
しかし、一転してコメディ「粥杖事件」のにぎやかな騒動となり、ついで三月の後白河院御八講の際に、二条に一目ぼれした「有明の月」が二条に恋の告白をするという忙しい展開となります。
この後、『増鏡』の「持明院殿」蹴鞠に相当する場面となりますが(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p285以下)、『とはずがたり』では「持明院殿」という表現は出て来ません。
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さるほどに、両院、御仲心よからぬこと、悪しく東〔あづま〕ざまに思ひ参らせたるといふこと聞えて、この御所へ新院御幸あるべしと申さる。かかり御覧ぜらるべしとて、御鞠あるべしとてあれば、「いかで、いかなるべき式ぞ」と、近衛大殿へ申さる。「いたく事過ぎぬほどに、九献、御鞠の中に御装束なほさるるをり、御柿浸しまゐることあり。女房して参らせらるべし」と申さる。「女房は誰にてか」と御沙汰あるに、「御年頃なり、さるべき人がらなれば」とて、この役をうけたまはる。かば桜七つ、裏山吹の表着、青色唐衣、くれなゐの打衣、生絹〔すずし〕の袴にてあり。浮織物の紅梅のにほひの三つ小袖、唐綾の二つ小袖なり。
御幸なりぬるに、御座を対座に設けたりしを、新院御覧ぜられて、「前院の御とき定めおかれにしに、御座の儲けやうわろし」とて、長押の下へおろさるるところに、あるじの院出でさせ給ひて、「朱雀院の行幸には、あるじの座を対座にこそなされしに、今日の出御には御座をおろさるる、異様〔ことやう〕に侍る」と申されしこそ、「優〔いう〕にきこゆ」など、人々申し侍りしか。
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【私訳】そのうちに、本院(後深草)・新院(亀山)の御仲がよろしくないと悪しざまに関東で思い申し上げているという噂が聞こえたので、こちらの院の御所へ新院が訪問されることとなった。新院が蹴鞠のお庭を御覧になりたいとのことで、蹴鞠を行なうこととなり、後深草院が「さて、どのようなやり方がよいか」と近衛大殿にお尋ねになる。大殿は「あまり進行してしまわないうちにお酒を、鞠の途中で御装束を直される折に、柿浸しを召しあがるのが例であります。女房に御給仕させましょう」と申された。「女房は誰がよいか」とお尋ねがあり、「ちょうどお年頃であり、然るべき家の人であるから」ということで、私がこの役を承った。衣装は樺桜の七つ衣、裏山吹の表着、青色の唐衣、紅の打衣、生絹の袴であった。下に浮織物の紅梅の匂いの三つ小袖、唐綾の二つ小袖を着る。
新院がおいでになり、両院の御席を対座に設けてあったのを御覧になって、「前院(後嵯峨)が御在世のとき、順序を定められておられたのに、この配置は宜しくない」といって、御自身の座を長押の下の方に降ろされたところに主人の院がお出ましになって、「(『源氏物語』の)朱雀院の行幸のときには、六条院の座を引き上げて対座にされたのに、今日のお出ましには御座を下げられるのは変わっていて面白いですね」と申されたのは、「とても優雅なお言葉だ」と人々が申したことだった。
ということで、『増鏡』と比べると、まず、両院の不仲を関東が懸念していることに配慮して、二人の良い関係を印象づける行事が必要となったとの背景事情の説明は『増鏡』にはありません。
また、『増鏡』には「近衛大殿」(鷹司兼平)も登場しません。
他方、『増鏡』には桜が満開に咲く中で御随人や下北面の武士が着飾って伺候し、女房たちの出し衣も格別に見事だったという描写がありますが、『とはずがたり』の記述はずいぶんそっけないですね。
ところで、『とはずがたり』が発見されるまでは、『増鏡』の「朱雀院の行幸には、あるじの座をこそなほされ侍りけるに、今日のみゆきには、御座をおろさるる、いと異様に侍り」という叙述は「天暦元年(九四七)三月九日村上天皇が朱雀院に行幸の折、朱雀上皇は東向、天皇は西向で対座したことか、とかつて考えられて」いました。(井上、p256)
そして「『増鏡』のここの部分が『とはずがたり』によっていることが明らかになり、その記事が『源氏物語』藤裏葉に基づいている点から、ここも源氏を踏まえた話と見なされるようになった。すなわち、朱雀院と冷泉帝とが光源氏の六条院を訪ねた折、主の源氏の座を下に設けてあったのを、宣旨によって同列にしたこと」(同上)という事情があります。
この井上氏の説明でも若干分かりにくいので、岩波大系の補注276を紹介すると、
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朱雀院の行幸には云々(三六一頁)
詳解には「天暦三年三月九日村上帝朱雀院に行幸の際、朱雀上皇は東向、村上帝は西向にて御対座の事、花鳥余情に引ける李部王記に見えたり」とある。これは、花鳥余情第十八「うへはひんがしのなかのはなち出に御しつらひことにふかうしなさせ給て」の注に「放出事、李部王記(中略)又天暦元年三月九日、車駕幸朱雀院、其殿装束母屋放出南辺対鋪両主御座<各畳上敷二枚加茵>太上皇東向、今上西向」とあるのを、さすのであろうが、どうも、この場合の典拠とするのには、ふさわしくないような気がする。この部分は、あるいは源氏物語、藤裏葉の巻に、冷泉帝と朱雀院が源氏の六条院を訪問した際に、源氏の座席が下座に設けてあったのを、宣旨で同列に直させた事を記してあるのを念頭においた言葉と解すべきかも知れない。藤裏葉の巻には「神無月の廿日あまりのほどに、六条院に行幸あり。紅葉のさかりにて、興あるべきたびのみゆきなるに、朱雀院にも御せうそこありて、院さへ、わたりおはしますべければ、世にめづらしく、ありがたきことにて、(中略)御座ふたつよそひて、あるじの御座は下れるを、宣旨ありて、なほさせ給ふほど、めでたく見えたれど」とあって、六条院への行幸の時の事を記してあるのであるが、この六条院を皇室の後院である朱雀院と思い違えて書いたためか、あるいは、朱雀院が六条院へ御幸になったことを「朱雀院の行幸には」と表現したものと解すれば、源氏物語を念頭においた言葉と解する方が妥当のように思う。この部分は「とはずがたり」によって書いているのであるが、同書二には「朱雀院の行幸には、あるじの座を、たい座にこそ、なされしに、今日の出御には、御座をおろさるる、ことやうに侍る、と申されしこそ、いうにきこゆなど、人々申侍りしか云々」とある。この部分の解釈について、水原一氏も「とはずがたり考説」において「朱雀院の行幸」の典拠は、源氏物語、藤の裏葉である旨を論じておられる(駒沢国文、第三号、昭和三十九年五月)。
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ということで、岩波大系は1965年の発行で、今となっては解決済みの古い論点ですが、まあ、「六条院を皇室の後院である朱雀院と思い違えて書いた」というよりは、「朱雀院が六条院へ御幸になったことを「朱雀院の行幸には」と表現したもの」と捉えた方がよさそうですね。
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月19日(木)13時28分24秒
続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p252以下)
井上宗雄氏はこの場面のタイトルを「持明院殿蹴鞠」としています。
『増鏡』で「持明院殿」という表現が最初に出てくるのは煕仁親王の元服の場面で、「持明院殿より、女房、二なくきよあととらにしたてて、十二人参る」とあります。
「巻十 老の波」(その2)─煕仁親王の元服
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af02591474e8999927ac718ebb3934f9
井上氏はこの「持明院殿」について「一条通りより四筋北、町尻小路を北に延長した辺にあった後深草院の御所で、いま上京区新町通上立売上ル安楽小路町にあった。光照門院跡がそのあとといわれる。川上貢『日本中世住宅の研究』に規模・沿革が詳しい」(p240)と解説されていて、この蹴鞠の場面でも同様に考えておられるはずですが、これは誤りと思われます。
この点、後で検討します。
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弥生の末つ方、持明院殿の花盛りに、新院わたり給ふ。鞠のかかり御覧ぜんとなりければ、御前の花は梢も庭も盛りなるに、ほかの桜さへ召して、散らし添へられたり。いと深う積りたる花の白雪、跡つけがたう見ゆ。上達部・殿上人いと多く参り集まる。御随身・北面の下臈など、いみじうきらめきてさぶらひあへり。わざとならぬ袖口ども押し出だされて、心ことにひきつくろはる。
寝殿の母屋〔もや〕に御座〔おまし〕対座にまうけられたるを、新院いらせ給ひて、「故院の御時、定めおかれし上は、今更にやは」とて、長押〔なげし〕の下へひきさげさせ給ふ程に、本院出で給ひて、「朱雀院の行幸には、あるじの座をこそなほされ侍りけるに、今日のみゆきには、御座〔おまし〕をおろさるる、いと異様に侍り」など、聞え給ふ程、いと面白し。むべむべしき御物語は少しにて、花の興に移りぬ。
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【私訳】三月末頃、持明院殿の花盛りに、亀山院の御幸があった。蹴鞠の庭を御覧になりたいとのことであったので、御前の花はこずえのも庭のも盛りであったが、よその桜さえお取り寄せになって散らし加えられた。たいそう深く積った花の白雪は、足跡をつけにくいほど美しく見えた。公卿・殿上人がたいへん多く参集した。御随身や下北面の武士などもたいそう美々しく着飾って伺候した。美しい袖口が御簾の外に自然に押し出されていて、女房たちも、特に心をこめて、装いを整えておられる。
寝殿の母屋に、両院の御座を相対して設けられたのを、亀山院がお入りになって、「故後嵯峨院が御在世の時、(対面の儀は朝覲に准ずるようにと)お決めになった以上は、今更それを変えることはできない」とおっしゃって、御自分の席を長押の下にお下げになったところに後深草院がお出ましになって、「(『源氏物語』の)朱雀院の行幸では、(下座にあった)主人の座を(同列に)直されましたのに、今日の御幸では(お客の)座をお下げになるというのは、まことに珍しいお取扱いですね」などとおっしゃるご様子は本当に面白い。儀式ばったお話はほどほどにして、すぐにお花見となった。
ということで、この場面は『とはずがたり』に依拠したものですが、よその桜を取り寄せたなど、『とはずがたり』にはない情報が追加されています。
『とはずがたり』の該当部分は後で紹介します。
なお、「故院の御時、定めおかれし」云々は後嵯峨院の遺詔の場面に出てきます。
「巻八 あすか川」(その16)─後嵯峨院の遺詔
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9987f4c5e8c030e45a36f6e5321ba012
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御かはらけなど良き程の後、春宮おはしまして、かかりの下にみな立ち出で給ふ。両院・春宮立たせ給ふ。半ば過ぐる程に、まらうどの院のぼり給ひて、御したうづなど直さるる程に、女房別当の君、また上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや、樺桜の七つ、紅のうち衣、山吹のうはぎ、赤色の唐衣、すずしの袴にて、銀〔しろがね〕の御杯〔つき〕、柳箱にすゑて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぶれなどのたまふ。
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【私訳】お杯が程よく廻った後、春宮がお出ましになって、蹴鞠の庭の懸りの木の下にみなお立ちになる。両院・春宮も御立ちになる。蹴鞠の半ばが過ぎた頃、お客様の亀山院が(御殿に)お上りになって御したうづなどを直される折に、女房別当の君、またいかにも上臈風に見える久我の太政大臣の孫とかいう人(二条)が、樺桜の七つがさね、紅のうち衣、山吹の表着、赤色の唐衣、生絹の袴という装束で、銀の御杯を柳箱にのせて、同じ銀のひさげで柿ひたしを差し上げると、(亀山院は)ちょっとした御冗談などをおっしゃる。
ということで、「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」という形で二条が登場します。
このあたりの記述は衣装の詳細などを含め『とはずがたり』の丸写しですね。
『とはずがたり』では亀山院が二条に「まづ飲め」と言葉をかけたとありますが、『増鏡』では「はかなき御たはぶれなどのたまふ」と上品な表現になっています。
また、『とはずがたり』ではこの機会に二条に眼を付けた亀山院が手紙を贈ってきて、二条も返事を出したという話になっていますが、『増鏡』では削除されています。
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暮れかかる程、風少しうち吹きて、花もみだりがはしく散りまがふに、御鞠数多くあがる。人々の心ち、いと艶あり。ゆゑある木かげに立ち休らひ給へる院の御かたち、いと清らにめでたし。春宮も若ううつくしげにて、濃き紫の浮織物の御指貫、なよびかに、けしきばかり引きあげ給へれば、花のいと白く散りかかり、紋のやうに見えたるもをかし。御覧じあげて、一枝押し折り給へる程、絵にかかまほしき夕ばえどもなり。その後も、酒〔みき〕などらうがはしきまで聞し召しさうどきつつ、夜ふけてかへらせ給ふ。
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【私訳】日が暮れかかる程、風が少し吹いて花もひどく散り乱れる中、お鞠が数多く上がる。人々も本当にうっとりした気持ちになる。趣ある木陰に御休みになる亀山院の御容姿はたいそう美しく立派である。春宮も若く美しげで、濃い紫の浮織物の御指貫をしなやかに召し、それを少し引き上げておられると、そこへ花がたいそう白く散りかかり、紋のように見えたのは趣があった。春宮が桜を仰がれて、一枝お折りになったご様子は絵にも描きたいような夕映えの景色である。その後もお酒を乱りがわしいほど召しあがり、騒ぎ立てつつ、夜が更けてからお帰りになった。
ということで、『とはずがたり』と比較すると、『増鏡』の方が全体的にかなり上品な雰囲気になっていますね。