学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「持明院殿」考

2018-04-20 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月20日(金)23時10分51秒

前回、前々回投稿で『増鏡』の「持明院殿蹴鞠」の場面と『とはずがたり』のそれを比較しましたが、両者で一番大きな違いはこの行事が行なわれた時期で、『とはずがたり』は文永十二年(建治元年、1275)の出来事としているのに対し、『増鏡』では弘安元年(1278)のことのように書かれています。
そして『増鏡』は『とはずがたり』の記事をかなりふくらませて書いているので、『増鏡』作者を二条良基とする通説、あるいは丹波忠守を作者、二条良基を監修者とする小川剛生説の場合は、『増鏡』作者が追加部分についての情報をどこから入手したのかが問題となります。
また、その際には二条を「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」などと好意的に描いた理由についても説明が必要となりそうです。
まあ、全般的にこのエピソードは、『増鏡』作者が『とはずがたり』作者と同一であって、その人は公的な歴史物語に自分の宮廷生活日記を織り込んでいるという私の考え方に適合的なのですが、ただ、私の立場から見て唯一引っかかるのが、『増鏡』においてこの行事の舞台が「持明院殿」となっている点です。
仮に建治元年ないし弘安元年に実際にこの行事があったとしたら、その舞台は後深草院御所の冷泉富小路殿以外考えられません。
実は「持明院統」と邸宅としての「持明院殿」に関係が出来るのはかなり遅くて、正安四年(1302)に入ってからです。
近藤成一氏の「内裏と院御所」(五味文彦編『中世を考える 都市の中世』、吉川弘文館、1992)から少し引用してみます。(p83以下)

-------
持明院殿
 持明院統とその名称の由来する持明院殿との関係は意外に新しい。正安四年(一三〇二)伏見上皇が持明院殿に移りその御所として用いたのが始まりである。
 ここはもと持明院基家の殿第であった。基家の娘陳子が後高倉院の妃となったために、後高倉院は持明院殿に寄住し、「持明院宮」と称された。後高倉院・北白河院(陳子)の没後はその皇女の式乾門院を経て室町院が伝領する。室町院は後堀河天皇皇女、すなわち後高倉院・北白河院にとっては孫にあたる。正安二年(一三〇〇)室町院が死去すると、その遺領の伝領をめぐって持明院統と大覚寺統が相争うことになり、正安四年、幕府の口入により両統の間で折半することとなる。このような経緯を見るならば、伏見上皇は室町院の遺領として持明院殿を伝領したと考えてよいのではなかろうか。
 徳治元年冷泉富小路殿が焼亡した後、持明院殿は伏見・後伏見・花園などの本所御所として用いられる。この皇統を持明院統と称しうるのはこの時期以後のことである。
-------

ということで、建治元年ないし弘安元年の時点では後深草院と「持明院殿」との間には全く関係がありません。
そして、この点を後深草院二条が間違えるはずもありません。
私としては、『増鏡』作者は「持明院殿」という表現は使用していなかったけれども、転写の過程において、後世の誰かが後深草院の御所だから持明院殿だろうと誤解して本文に入れてしまったのではなかろうか、などと想像しています。
ちなみに『増鏡』の十七巻本では「持明院殿」という表現は七回使われていて、最初の二回は既に紹介しました。

「巻十 老の波」(その2)─煕仁親王の元服
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af02591474e8999927ac718ebb3934f9
「巻十 老の波」(その8)─「上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9da95b5daaaca1845c2e80637a4ee1d1

三回目は正安三年(1301)、「巻十一 さしぐし」の後伏見天皇譲位の場面に、

-------
 持明院殿には、世の中すさまじく思されて、伏見殿に籠りおはしますべくのたまへれど、二の御子、坊に定まり給へば、又めでたくて、なだらかにておはしますべし。
-------

とありますが(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p407)、井上氏はこの「持明院殿」について「後深草・伏見院をさす」(p409)とされています。
この前に亀山院を「禅林寺殿」とする記述があるので、あるいは後深草院を「持明院殿」と言っているのではないかとも思われますが、はっきりしません。
また、四回目は徳治三年(1308)、「巻十二 浦千鳥」の花園天皇即位の場面で、

-------
持明院殿にはいつしかめでたき事どものみぞ聞ゆる。大覚寺殿には遊義門院の御事にうちそへて、御涙のひる世なく思さるべし。
-------

とあり(井上宗雄『増鏡(下)全訳注』、p32)、井上氏は邸宅としての「持明院殿」の説明の後、「この場合は主として伏見院をさす」(p35)とされています。
この時期には後深草院は既に亡くなり、持明院統と邸宅としての「持明院殿」の関係も成立しているので、「後伏見・花園を含め持明院統の人々」と解してもよさそうですが、その中心人物は伏見院ですから、井上氏の考え方でよさそうです。
五例目以下は明らかに邸宅としての「持明院殿」の用例となっており、省略します。

>筆綾丸さん
>「第3章 躁うつ病とはどんな病気か」
私は與那覇氏に全く好意を持たずに読み始めたのですが、確かに第3章までは、なるほどなあ、と感心することばかりでした。
直りかけが一番危ないとも言いますから、あまり無理せず、過度の使命感を抱かず、治療を優先して欲しいですね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話 2018/04/20(金) 13:26:04
小太郎さん
ご紹介の與那覇潤氏『知性は死なない─平成の鬱をこえて』を、やっと、半分まで読みました。
「第3章 躁うつ病とはどんな病気か」は、こんな言い方をすると失礼かもしれませんが、とても面白いですね。デリダに言及したところ(120頁)は、サラサラと簡単に書かれていながら、なるほどなあ、と思いました。ほかの個所も同じですが、氏の従来の文体とはまるで違っていて、ちょっと驚きました。
半分ほど読んだ印象では、大学という閉鎖社会の中で陰に陽にボコボコ苛められて発病したのかな、と思いました(マヌケな印象かもしれません)。まあ、多かれ少なかれ、どんな組織にもあることですが。
こういう本を読むと、足利尊氏に精神異常を疑う佐藤説が、いかにふざけたものか、よくわかりますね。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『とはずがたり』に描かれた「持明院殿」蹴鞠(その2)

2018-04-20 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月20日(金)13時14分53秒

続きです。(次田香澄『とはずがたり(上)全訳注』、p286以下)

-------
 ことさら式の供御〔くご〕まゐり、三献はてなどしてのち、東宮入らせおはしまして御鞠あり。半ば過ぐるほどに、二棟の東の妻戸へ入らせおはしますところへ、柳筥〔やないばこ〕に御土器〔かはらけ〕を据ゑて、かねの御ひさげに御柿浸し入れて、別当殿、松襲の五つ衣に紅の打衣、柳の表着、裏山吹の唐衣にてありしに持たせて参りて、取りて参らす。「まづ飲め」と御言葉かけさせ給ふ。暮れかかるまで御鞠ありて、松明とりて還御。
-------

【私訳】特に正式のお膳を設け、三献が終った後、東宮がお出ましになって御鞠が始まった。半ば過ぎの頃に、二棟の御所の東の妻戸へお入りになったところへ、柳筥にお杯を据え、金物の御ひさげに柿浸しを入れて、別当殿─松襲の五つ衣に紅の打衣、柳の表着、裏山吹の唐衣を着ていた─に持たせて参り、私が杯を取って差し上げた。亀山院は「まずあなたから飲みなさい」とお言葉をおかけになる。暮れかかるまで御鞠があって、松明をともさせて新院はお帰りいなった。

ということで、『とはずがたり』には「別当殿」も衣装の説明付きで登場していますが、『増鏡』では名前だけになっています。
また、『増鏡』では、

-------
上臈だつ久我の太政大臣の孫とかや、樺桜の七つ、紅のうち衣、山吹のうはぎ、赤色の唐衣、すずしの袴にて、銀〔しろがね〕の御杯〔つき〕、柳箱にすゑて、同じひさげにて、柿ひたし参らすれば、はかなき御たはぶれなどのたまふ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9da95b5daaaca1845c2e80637a4ee1d1

ということで、『とはずがたり』の「まづ飲め」という些かぶっきらぼうな表現が、「はかなき御たはぶれなどのたまふ」と優雅な表現に変えられています。
この後、『増鏡』では、

-------
暮れかかる程、風少しうち吹きて、花もみだりがはしく散りまがふに、御鞠数多くあがる。人々の心ち、いと艶あり。ゆゑある木かげに立ち休らひ給へる院の御かたち、いと清らにめでたし。春宮も若ううつくしげにて、濃き紫の浮織物の御指貫、なよびかに、けしきばかり引きあげ給へれば、花のいと白く散りかかり、紋のやうに見えたるもをかし。御覧じあげて、一枝押し折り給へる程、絵にかかまほしき夕ばえどもなり。その後も、酒などらうがはしきまで聞し召しさうどきつつ、夜ふけてかへらせ給ふ。
-------

という具合になかなかの名文で綴られた優雅な描写が続きますが、『とはずがたり』には「暮れかかるまで御鞠ありて、松明とりて還御」とあるだけで、『増鏡』作者は『とはずがたり』の素っ気ない表現をずいぶん膨らませています。
他方、『とはずがたり』の次の記述は『増鏡』には全く登場しません。

-------
 つぎの日、仲頼して御文あり。
  いかにせんうつつともなき面影を夢とおもへばさむるまもなし
紅の薄様にて柳の枝をつけらる。さのみ御返りをだに申さぬも、かつはびんなきやうにやとて、はなだの薄様に書きて、桜の枝につけて、
  うつつとも夢ともよしや桜花咲き散るほどと常ならぬ世に
そののちも、たびたび打ちしきり承りしかども、師親の大納言すむ所へ、車こひて帰りぬ。
-------

【私訳】次の日、仲頼を使いとして亀山院からお手紙があった。
  いかにせん……(どうしたらよいだろう。うつつに見たとも思えない美しいあなたの
  面影を、夢かと思えば覚める間もなく、あなたを恋しく思う)
紅の薄様の紙に書いて柳の枝がつけられている。お返事さえ差し上げないのも失礼かもしれないと思って、薄藍色の薄様を桜の枝につけて
  うつつとも……(うつつでも夢でもどちらでもよろしいのです。桜が咲いてすぐに散って
  しまう間ほど移ろいやすいこの世ですから、あなた様のお言葉も儚いお戯れかと思います)
とお返事した。
亀山院からはその後もたびたび、引きつづいてお手紙があったが、……師親の大納言が住んでいる所へ牛車を頼んで帰った。

ということで、「仲頼」は二条の傅(めのと)の藤原仲綱の末子で、亀山院に仕えていた人物です。
最後は文章の繋がりがおかしく、何か欠落があるようですが、「師親の大納言」は村上源氏の北畠師親(1241-1315)のことで、曾祖父が源通親なので二条とは又従兄妹の関係となります。
師親は二条より十七歳年上ですが、『とはずがたり』では「粥杖事件」にも登場しており、二条とは親しい関係だったようです。
なお、師親の子の師重(1270-1322)は『とはずがたり』の跋文の少し前に二条と和歌の贈答を行なった人として登場します。
そして師親の孫、師重の子に親房(1293-1354)がいて、二条は『神皇正統記』の作者とも近い関係ですね。

北畠師親(1241-1315)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%95%A0%E5%B8%AB%E8%A6%AA

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする