学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「巻十 老の波」(その7)─後宇多天皇の内裏

2018-04-18 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月18日(水)11時57分55秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p251以下)

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 内にはなかなか女御・更衣もさぶらひ給はず。いとさうざうしき雲の上なり。西園寺の女御参り給ふべしと聞えながら、いかなるにか、すがすがとも思し立たぬは、思ふ心おはするなめりとぞ、世人もささめきける。新院の御位のとき参り給へりし西園寺の中宮は院号ありて、今出川の院と聞ゆなり。かの御覚えなどのいと口惜しかりしより、この院の御方ざまをつらく思ひ聞え給ふなめりなどぞ、いひなす人も侍りけるとぞ。
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【私訳】後宇多天皇方では、亀山院御所と反対に女御・更衣もおありにならない。とても寂しい宮中である。西園寺家から女御が参られるだろうなどという評判もあったが、どうした事情か、すらすらとも入内を思い立たれないのは、何か考えるところがあるのだろう、などと世人も噂する。亀山院が御在位中に参内された西園寺の中宮(嬉子)は女院号宣下があって今出川院と申し上げる。この方への亀山院の愛情が薄く、口惜しいことであったので、亀山院の御系統の方を薄情であるとお思い申し上げているのであろう、などといっている人もあったということだ。

ということで、亀山院御所のにぎやかさから一転して、後宇多天皇の内裏の寂しい様子が描かれます。
西園寺嬉子(1252-1318)に今出川院の女院号宣下があったのは文永五年(1268)のことで、この記事は弘安元年(1278)頃ですから、既に十年も前の話です。
ちなみに後深草院二条の父・中院雅忠(1228-72)は西園寺嬉子が中宮となった弘長元年(1261)八月以降、その女院号宣下のときまで一貫して中宮大夫であり、また叔父の四条隆顕(1243-?)は同じく一貫して中宮権大夫でした。
仮に西園寺嬉子への亀山天皇の寵愛が篤く、その間に皇子が生まれていたならば中院雅忠・四条隆顕の人生も良い方向に相当変わっていたのではないかと思われます。

「巻七 北野の雪」(その5)─西園寺嬉子
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/853053e3a64d9fb7a4655e1b35872dc0
「巻七 北野の雪」(その12)─「久我大納言雅忠」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/66d3b8d098bb9a94b965e39d20708597
「巻七 北野の雪」(その14)─「たとひ御末まではなくとも、皇子一人」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7dda16ba09f5989fc63ee20f418bcb06
「巻八 あすか川」(その6)─世仁親王(後宇多天皇)立太子
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7885e7c90387db705407950f115813eb

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「巻十 老の波」(その6)─下野・讃岐その他

2018-04-18 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月18日(水)11時10分52秒

続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p245以下)

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 また北白河殿の女院に、大納言の君とてさぶらひし人の曹司に、下野〔しもつけ〕といひし者は、田楽とかやいふことするあやしの法師の、名をばそのこまといふが女〔むすめ〕なりき。かの女院は新院の御母代〔ははしろ〕にて、常に御幸もなりしかば、おのづから御覧じそめけるにや、ことのほかにときめき出でて、この院に召し渡されて、花山院の太政大臣の御子になされ、廊の御方とぞつけさせ給ふ。その御腹にも宮生まれ給ひぬ。
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【私訳】また、北白河殿の女院(安嘉門院)に大納言の君としてお仕えしていた人の曹司(部屋)にいた下野という者は、田楽とかいうことを演ずる身分の低い法師で、名を「そのこま」という者の娘であった。この女院は亀山院の御母代りで、亀山院は常にその御所に御幸があったので、自然と下野を見初められたのであろうか、ことのほかにご寵愛があって、院の御所に召し移されて、花山院太政大臣(通雅)の御養女となって、「廊の御方」と名づけられた。その御腹にもお子様がお生まれになった。

安嘉門院(1209-83)は後高倉院(1179-1223)の皇女で、母は北白河院(持明院陳子、1173-1238)ですね。
年齢は亀山院より四十歳上です。
亀山院が安嘉門院から継承した荘園群は大覚寺統の重要な財産となりました。

安嘉門院(1209-83)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A6%E5%AD%90%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B

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 大宮女院に讃岐とてさぶらひし、西園寺の御家の者、景房といひしが娘なり。いみじう思いて、これも召しとりて西園寺の大臣の御子になして二品〔にほん〕の加階たまはる。若宮生まれ給ひにき。帥中納言為経の女の帥典侍〔そちのすけ〕殿といひしが御腹にも、あまた生まれ給ふ。九条殿の北の政所、また梨本・青蓮院の法親王など大納言の典侍の御腹、昭慶門院中納言の典侍、十楽院法親王は帥典侍殿の腹、かやうにすべて多くものし給ふ。昔の嵯峨の大王こそ、八十余人まで御子もたまへりけると承り伝へたるにも、ほとほと劣り給ふまじかめり。
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【私訳】大宮院に讃岐という名前で仕えていたのは西園寺家の侍で景房という者の娘である。たいそう御寵愛になって、これも御所に召し移されて、西園寺の大臣(公相)の養女にして二位を賜った。この腹にも若宮がお生まれになった。帥中納言為経の娘、帥典侍殿といった者の御腹にも沢山のお子様がお生まれになった。九条殿の北政所、梨本の(覚雲)法親王、青蓮院の(良助)法親王などは大納言の典侍の御腹、昭慶門院は中納言の典侍の御腹、十楽院(慈道)法親王は帥典侍殿の腹といった具合に、沢山の子がお生まれになった。昔の嵯峨天皇は八十余人まで御子をお持ちになったと承り伝えているが、それにもほとんど劣りなさらないような御様子である。

ということで、「讃岐」については『皇胤紹運録』、叡雲法親王の注に「母讃岐局寿子、大膳大夫藤原景房女」とあります。
その他、あまりに煩雑になるので解説は省略しますが、良助法親王は黒田智氏が勝軍地蔵の関係で熱心に研究されていて、この掲示板でもずいぶん前に何度か取り上げたことがあります。
この中で『増鏡』に直接関係するのは下から二番目の「『増鏡』と良助法親王」ですね。

間違い探し
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dab75b7df7c483c0bf119aeff56fab09
間違いさがし・解答編
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dbb245e5d89cb5bfa2df3b91d6dadd6f
『承久三年四年日次記』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4283eccf9242ca2cc14d4865ed73ce37
安富道行って何者?
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a2d2fc6bb0c2f4c02d950a98a37e6048
春のあやまち
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1de1b4a13d725cf9a1e6dee24741fe36
春のあやまち・解説
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3d499a0bb4a6ad7788cc6384ce5596d1
『増鏡』と良助法親王
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f55d8299604ea652e69a90827d16bf02
勝軍地蔵と「日輪御影」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/86131d9bdf61b583609a5e0dcb62fbc0

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