学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「世直し一揆の指導者の復元には、民俗学的手法の援用を必要とする」(by 中島明)

2018-10-09 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月 9日(火)10時48分26秒

前回投稿の後、中島明氏の『上州の百姓一揆』(上毛新聞社、1986)、『上州の明治維新』(みやま文庫、1996)、『八州廻りと上州の無宿・博徒』(みやま文庫、2004)を読んでみました。
中島氏は1933年生まれ、法政大学法学部卒、専修大学大学院経済学研究科博士課程修了という経歴の持ち主で、専修大学では文学部の林基・松本新八郎の指導も受けたそうですね。
『幕藩制解体期の民衆運動』には、今ではかなり古風な印象を与えるマルクス主義的な語彙も多く見られますが、『八州廻りと上州の無宿・博徒』あたりはずいぶんさばけた文章になっています。
さて、前回投稿では、

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まあ、「博徒の本場」という土地柄から、素性の良くない人も相当参加していたようですが、中島明氏も明確には書いていないものの、「頭取」はかなりの人数がいて、数からいえば博徒ではない普通の農民が多いように思えます。
須田氏の書き方だと「上州世直し騒動」全体の指導者が博徒であったように誤解する読者も多そうですね。
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などと書いてしまったのですが、中島氏は『幕藩制解体期の民衆運動』の「第二章 西上州世直し一揆とその構造」「第二節 世直し一揆の指導と貧農的経験」の冒頭において、

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 以上が西上州における世直し一揆の基盤であるが、つづいてその「指導」に関する問題に移りたいと思う。結論的にいえば、西上州世直し一揆の指導層は、いわゆる「博徒」、あるいは「無宿」といわれているような人物である。
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と明確に書かれていますね。(p107)
「序章 方法と構成」においても、

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 歴史学、とりわけ日本近世史は、おおむね書かれた文書記録を根本史料として採用し、それの解釈を通じて歴史的な復元を試みるのが主流をなしている。本書もそれにしたがって素朴な実証主義と批判されるような方法を採用している。【中略】
 とりわけ本書の中心項目をなしている世直し一揆について史料は、単なる暴徒の打ちこわしというだけで、その具体的様子を書き残すことが少なく、また遺跡や遺物として痕跡をとどめないことが多い。そのような中で博徒や無宿、あるいは悪党と称される世直し一揆の指導者については、その感がとりわけ強い。史料に残っているものは「博徒」「無宿」という為政者側の記述のみであって、彼らがなぜ世直し一揆の頭取となり、そしてあのように大勢の世直し勢が博徒や無宿の指示にしたがって整然たる行動を示したかについては、何ら語ってくれない。史料に記されているのは、忌まわしい印象がきわめて強い「博徒」、あるいは「無宿」という悪の紋章のみである。それも為政者が一方的に押しつけたレッテルであって、後年になるとそれは一人歩きをし、それを聞くだけで「悪」の印象をわれわれの頭脳に想起させる。そのため世直し一揆の指導者の復元には、民俗学的手法の援用を必要とする。伝承の発掘である。
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と書かれていて(p13)、世直し一揆の指導者層が「博徒」「無宿」とレッテルを貼られている者たちであることは中島氏にとって自明の前提ですね。
しかし、「民衆」に同情的な中島氏は、彼らは「悪」ではないのだ、と主張するために「民俗学的手法」を採用します。

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 その具体的実例として「岩戸村無宿常五郎」がいる。通称「ボロ常」である。彼の実像については、すでに明らかにしたが、その手法は民俗学的手法の全面的採用であり、作品はその成果である。佐久世直し一揆において西上州、それに佐久農民の指導者でもあった常五郎は、世直し終了後無宿として小幡藩の追及を受けて逮捕され、斬首の刑に処せられた。彼について文書史料は何も語らず、ただ「無宿」と記すのみである。それも一人の無宿が藩の掟にそむいた罰で川原で刑死したという記録を残すのみである。
 これに対し地域の民衆は、ボロ常を世直し一揆の有能な指導者として密かに言い伝え、地下水脈的に彼を顕彰しつづけ、それを決して表にだすことはなかった。民衆は、ボロ常を民衆の指導者として民衆の心のなかにだけとどめたのである。このような事例は、他にもあげることができる。第二部第三章に登場する矢川村の宝十郎と野栗沢村の倉十郎、そして第三部第一章で論及する星尾村の市川実五郎などは、そのよき例である。
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ということで、この部分だけ読むと、一昔前の古臭い左翼歴史学者の「民衆」幻想、「民衆」ポエムのようにも見えますが、実際に中島氏の「民俗学的手法」の実例を見ると、相当に堅実な検討を重ねており、なるほどな、と思えるものが多いですね。
ま、私にもほんの僅かながらの郷土愛があるので、ついつい須田氏の文章に感情的に反発してしまったのですが、中島説の紹介としては須田氏が正しかったですね。

>筆綾丸さん
>サイトの管理人(玄松子)がどういう人なのか

ご紹介のサイト、私も以前から時々利用させてもらっています。
玄松子氏は特に自己紹介的な文章は書かれていないようですが、「参考文献」を見ても、大変な努力家であることが分かりますね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話 2018/10/07(日) 10:58:42
小太郎さん
http://www.genbu.net/data/kouzuke/karasina_title.htm
サイトの管理人(玄松子)がどういう人なのか、知りませんが、ずいぶん詳しいですね。

「鎮座地名、および社家の神保は、「神領」の意味だろうか。」
たぶん、そうなのでしょうね。
「神紋 抱茗荷(社家神保氏裏家紋)」
私は、そーめんの汁には胡瓜と茗荷を刻んだものを入れて食べます。
「社家 神保氏
鎌倉時代「吾妻鏡」承久三年(一二 二一)の承久の変の際の宇治合戦に上野 國の鎌倉幕府御家人として神保与一、 与三、太郎の名が見える
文和三年(一三五四)の「足利義詮御教書 案」に多胡郡地頭職として神保太郎左衛門 尉の名がある。家紋は○に縦二引」
宇治川畔で翩翻とはためいていたのは、 抱茗荷の紋か、○に縦二引の紋か。多胡郡地頭職・神保太郎左衛門尉の名から推測すると、与一と与三の家は廃れて、太郎の家が残った、あるいは、太郎が正嫡で与一と与三は庶子だ、というようなことか。意味のある推測ではありませんが。
コメント
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