学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「あゝ山本茂実─ある農民哲学徒哀史」(その2)

2018-10-26 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月26日(金)21時55分34秒

ま、そんなに悪いことばかりでもなくて、婚約解消後の失意の山本の前に『生き抜く悩み』の読者だったという若い女性が登場し、『葦』の編集者となります。
そして、その女性は唐突に山本に「結婚して下さい」と言い、十六歳の年の差を理由に山本はいったん断るものの、結局、出会って僅か一年後の1959年(昭和34)4月に二人は結婚します。
ところが、その数か月後、「葦社」のオーナーである「文教洋紙店」が倒産、山本が新たに探して来た新オーナーの「八雲書店」も内情は火の車で、その社長はあちこちから借金をしまくっており、山本も運転資金を借りるための担保提供を求められます。
やむなく山本は、「結婚に際して松本の母や弟、親戚、私〔和加子氏〕の実家の両親らが出してくれたなけなしの金で、神奈川県の小田急線東林間駅近くに」購入していた「唯一の財産」である五十坪の土地を担保として提供したのですが、その土地は「間もなく八雲書店の債権者に渡されてしまった」(p198)のだそうです。
1960年、『葦』はとうとう廃刊となり、山本は失業します。
おまけに『葦』廃刊時に和加子氏は妊娠中だったのだそうで、まあ、殆ど戦前の生糸相場並みの乱高下であり、波瀾万丈としか言いようのない展開ですね。
さて、『葦』を失った山本は雑誌のフリーライターとなり、『週刊女性』『婦人画報』『主婦と生活』『太陽』『人物往来』などに記事を書く傍ら、長編物の取材も始めます。
そして日本交通公社の『旅』の取材で全国を廻る際にテーマのひとつとして野麦峠を取り上げ、次第にこれを自分のライフワークとして強く意識するようになります。
1962年(昭和37)以降、取材を重ねるうちに資料も溜り、作品の構想が次第に出来上がってきたので、長篇に取り掛かる準備として書いたのが「野麦峠を超えた明治百年」であり、

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 約三十枚の小品に仕上がったものをどこの出版社にあたるか、ある知人に相談したら文藝春秋社はどうかと薦められたので、かけあってみると意外に簡単に承諾されて、『文藝春秋』昭和四十一年九月号に載った。対応したのはA氏という若い編集次長だった。もちろん初対面で、山本のことを知らない次長は原稿を読んで「着眼点がよい、筆も立つ人だ」と評したという。
 予期していた以上に評判はよく、「文藝春秋読者賞」年間ベスト四位にもなった。これで自信を得て、たくさん溜った資料や写真やカセットテープを整理して、一年間かけて数百枚の予定で本格的な長篇執筆に取り組むことになった。
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のだそうです。(p214以下)
やっと一安心と思いきや、ここに盗作問題が勃発し、

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 それからわずか一か月後、次長A氏から山本に電話がかかってきた。「至急社に来て下さい」と、何か切迫した用件のようであった。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9eccb1af4d1eed6ec1c217810431a58d

という展開となります。
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「あゝ山本茂実─ある農民哲学徒哀史」(その1)

2018-10-26 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月26日(金)11時53分15秒

山本和加子氏の『「あゝ野麦峠」と山本茂実』(角川学芸出版、2010)を読むと、山本茂実は大変な苦労人で、1968年(昭和43)、51歳のときに『あゝ野麦峠』で一発当てるまでは、その生涯は殆ど「山本哀史」の趣がありますね。
まず、子供の頃、抜群に成績優秀であったにも拘らず、経済的事情と農家の長男に教育など必要ないという父親の方針で(旧制)中学に進学できず、山本の正式な学歴は小学校卒業のみです。
1937年(昭和12)、二十歳で「近衛歩兵第三連隊」に入営し、真面目で頑張り屋な山本は僅か一年で「伍長勤務上等兵」になったそうですが(p81)、1939年12月に「近衛第二旅団南支那派遣軍桜田部隊」の一員として仏領インドシナとの国境の町、南寧に行くと、そこで結核に罹患し、腹膜炎も併発して死線を彷徨います。
それでも何とか生き延びて帰国し、金沢の陸軍病院で一年間治療を受けるも完治せず、1941年10月から長野の「若槻療養所」というサナトリウムに移って、以後三年間の療養生活が続きます。
その間、妹みち子がチフスで病死、弟の健巳は「昭和十九年十一月十日、落下傘部隊を指揮して、レイテ島タクロバンで行方不明」(p118)となり、戦死。
1945年(昭和20)正月からは「松本青年学校」の代用教員となり、終戦後も暫くその職を続けるのですが、サナトリウム時代に文学青年の友人と議論し、様々な思想的な書物にも触れて独学を重ねた山本は、田舎の生活に耐えられず、1947年、東京に出奔します。
そして三十歳で早稲田大学哲学科の聴講生となって勉学に励む傍ら、『生き抜く悩み 一哲学青年の記』という本を私家版で出すと、意外にもこれがけっこう売れます。
そこで出版・編集の世界で生きることに決めた山本は同志と「葦会」を組織して雑誌『葦』などを創刊、以後十三年間編集長を勤めます。
1952・3年頃には「人生雑誌」ブームとなり、『葦』の売り上げも安定してきたので山本は「葦会」を有限会社とし、松本での鬱屈した生活に比べれば夢のような時期が暫く続いたそうですが、1954年に「葦出版社山本茂実社長のスキャンダラスな記事」(p185)がゴシップ雑誌に載って、何しろ「人生雑誌」ですから編集部は大混乱、売り上げも急減し、結局は従業員全員解雇という事態となります。
おまけに『葦』の「女性編集員第一号」で、「当時はまだ給料が不安定だった」ため、「ちょうど映画会社大映でニューフェイスを募集しており、それに応募したところ」「南田洋子とともにパスして大映の女優となった」(p190)婚約者の女性との結婚の見通しが立たなくなり、結局は破談。山本は精神的にボロボロになってしまいます。
その後、休刊となった『葦』は郷里の知人の援助で細々と存続し、山本は「雇われマダム」的な編集長として残ったものの、オーナーも安定せず、経済的トラブルが続きます。
そして、『葦』に見切りをつけることができなかった山本は、その存続のために唯一の財産である五十坪の土地を担保として提供し、1960年の『葦』廃刊と同時期に、その土地も失うこととなります。

山本茂実(1917-98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E8%8C%82%E5%AE%9F
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