投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月26日(金)21時55分34秒
ま、そんなに悪いことばかりでもなくて、婚約解消後の失意の山本の前に『生き抜く悩み』の読者だったという若い女性が登場し、『葦』の編集者となります。
そして、その女性は唐突に山本に「結婚して下さい」と言い、十六歳の年の差を理由に山本はいったん断るものの、結局、出会って僅か一年後の1959年(昭和34)4月に二人は結婚します。
ところが、その数か月後、「葦社」のオーナーである「文教洋紙店」が倒産、山本が新たに探して来た新オーナーの「八雲書店」も内情は火の車で、その社長はあちこちから借金をしまくっており、山本も運転資金を借りるための担保提供を求められます。
やむなく山本は、「結婚に際して松本の母や弟、親戚、私〔和加子氏〕の実家の両親らが出してくれたなけなしの金で、神奈川県の小田急線東林間駅近くに」購入していた「唯一の財産」である五十坪の土地を担保として提供したのですが、その土地は「間もなく八雲書店の債権者に渡されてしまった」(p198)のだそうです。
1960年、『葦』はとうとう廃刊となり、山本は失業します。
おまけに『葦』廃刊時に和加子氏は妊娠中だったのだそうで、まあ、殆ど戦前の生糸相場並みの乱高下であり、波瀾万丈としか言いようのない展開ですね。
さて、『葦』を失った山本は雑誌のフリーライターとなり、『週刊女性』『婦人画報』『主婦と生活』『太陽』『人物往来』などに記事を書く傍ら、長編物の取材も始めます。
そして日本交通公社の『旅』の取材で全国を廻る際にテーマのひとつとして野麦峠を取り上げ、次第にこれを自分のライフワークとして強く意識するようになります。
1962年(昭和37)以降、取材を重ねるうちに資料も溜り、作品の構想が次第に出来上がってきたので、長篇に取り掛かる準備として書いたのが「野麦峠を超えた明治百年」であり、
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約三十枚の小品に仕上がったものをどこの出版社にあたるか、ある知人に相談したら文藝春秋社はどうかと薦められたので、かけあってみると意外に簡単に承諾されて、『文藝春秋』昭和四十一年九月号に載った。対応したのはA氏という若い編集次長だった。もちろん初対面で、山本のことを知らない次長は原稿を読んで「着眼点がよい、筆も立つ人だ」と評したという。
予期していた以上に評判はよく、「文藝春秋読者賞」年間ベスト四位にもなった。これで自信を得て、たくさん溜った資料や写真やカセットテープを整理して、一年間かけて数百枚の予定で本格的な長篇執筆に取り組むことになった。
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のだそうです。(p214以下)
やっと一安心と思いきや、ここに盗作問題が勃発し、
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それからわずか一か月後、次長A氏から山本に電話がかかってきた。「至急社に来て下さい」と、何か切迫した用件のようであった。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9eccb1af4d1eed6ec1c217810431a58d
という展開となります。
ま、そんなに悪いことばかりでもなくて、婚約解消後の失意の山本の前に『生き抜く悩み』の読者だったという若い女性が登場し、『葦』の編集者となります。
そして、その女性は唐突に山本に「結婚して下さい」と言い、十六歳の年の差を理由に山本はいったん断るものの、結局、出会って僅か一年後の1959年(昭和34)4月に二人は結婚します。
ところが、その数か月後、「葦社」のオーナーである「文教洋紙店」が倒産、山本が新たに探して来た新オーナーの「八雲書店」も内情は火の車で、その社長はあちこちから借金をしまくっており、山本も運転資金を借りるための担保提供を求められます。
やむなく山本は、「結婚に際して松本の母や弟、親戚、私〔和加子氏〕の実家の両親らが出してくれたなけなしの金で、神奈川県の小田急線東林間駅近くに」購入していた「唯一の財産」である五十坪の土地を担保として提供したのですが、その土地は「間もなく八雲書店の債権者に渡されてしまった」(p198)のだそうです。
1960年、『葦』はとうとう廃刊となり、山本は失業します。
おまけに『葦』廃刊時に和加子氏は妊娠中だったのだそうで、まあ、殆ど戦前の生糸相場並みの乱高下であり、波瀾万丈としか言いようのない展開ですね。
さて、『葦』を失った山本は雑誌のフリーライターとなり、『週刊女性』『婦人画報』『主婦と生活』『太陽』『人物往来』などに記事を書く傍ら、長編物の取材も始めます。
そして日本交通公社の『旅』の取材で全国を廻る際にテーマのひとつとして野麦峠を取り上げ、次第にこれを自分のライフワークとして強く意識するようになります。
1962年(昭和37)以降、取材を重ねるうちに資料も溜り、作品の構想が次第に出来上がってきたので、長篇に取り掛かる準備として書いたのが「野麦峠を超えた明治百年」であり、
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約三十枚の小品に仕上がったものをどこの出版社にあたるか、ある知人に相談したら文藝春秋社はどうかと薦められたので、かけあってみると意外に簡単に承諾されて、『文藝春秋』昭和四十一年九月号に載った。対応したのはA氏という若い編集次長だった。もちろん初対面で、山本のことを知らない次長は原稿を読んで「着眼点がよい、筆も立つ人だ」と評したという。
予期していた以上に評判はよく、「文藝春秋読者賞」年間ベスト四位にもなった。これで自信を得て、たくさん溜った資料や写真やカセットテープを整理して、一年間かけて数百枚の予定で本格的な長篇執筆に取り組むことになった。
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のだそうです。(p214以下)
やっと一安心と思いきや、ここに盗作問題が勃発し、
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それからわずか一か月後、次長A氏から山本に電話がかかってきた。「至急社に来て下さい」と、何か切迫した用件のようであった。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9eccb1af4d1eed6ec1c217810431a58d
という展開となります。