学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

松沢裕作『生きづらい明治社会』(その7)

2018-10-17 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月17日(水)20時24分19秒

2014年に私の地元の富岡製糸場が世界遺産に登録されたこともあって、私は製糸業の歴史について、素人に毛の生えたレベルではありますが、ある程度詳しいんですね。
そのため、『生きづらい明治時代』の、

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特に、生糸をつくる製糸業では、若い女性が苛酷な条件で働いていたことはよく知られているでしょう。労働時間は長く、提供される食事は貧しく、そして彼女たちは寄宿舎に閉じ込められて生活していました。
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という記述を見た瞬間、私の心の中のチコちゃんが、「莫迦言ってんじゃねーよ!」、「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と叫んだのですが、おそらく岡谷市の歴史に詳しい人が同書を読めば私以上に激怒されるであろうと思います。
しかし、一般にはこうした「女工哀史」的な、「あゝ野麦峠」的な製糸工女観が今なお根強いと思いますので、私の乏しい知見の範囲で少し批判しておきたいと思います。
そこで、最初に松沢裕作氏が依拠する中村政則氏の『日本の歴史第29巻 労働者と農民』(小学館、1976)の記述を紹介しておきます。(p93以下)

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 話をすこしのちの時代にすすめすぎたので、ここでふたたび明治期にもどして、製糸会社と女工との雇用契約の実態をみてみることにしたい。まずその一例として、日本最大の製糸会社であった片倉組とのあいだの雇用契約書を左にかかげよう。

製糸工女約定書〔やくじょうしょ〕/ スワ郡長池村(岡谷市)/ 戸主八幡伴蔵長女/ 工女同ヤス/ 十八年(歳)/ 一金五円也約定証/ 右之者、貴家製糸工女トシテ明治卅年三月ヨリ同年十二月迄、製糸開業中就業之約定致シ、前記ノ約定金正ニ請取〔うけとり〕候。然〔しか〕ル上ハ成規・御家則堅〔かた〕ク遵守〔じゅんしゅ〕致スベク候。期間中ハ何等〔なんら〕ノ事故出来〔しゅったい〕候共〔そうろうとも〕決シテ他ノ製糸家ヘ就業致サズ候。万一右約定ヲ違変候節ハ、違約ヨリ生ズル損害金ハ御請求ニ応ジ、必ズ弁償可致〔いたすべく〕為後日〔ごじつのため〕約定書。仍〔よっ〕テ如件〔くだんのごとし〕。/ 明治卅年六月二日/ 右戸主八幡伴蔵/ 片倉兼太郎殿

 これから気づくことは、第一に父親たる戸主が雇主にたいして一方的に誓約するというかたちをとっていること、また、女工が雇主にとって不都合なことをしたばあいには戸主が責任を負う、となっていることである。ここでは、女工本人が契約主体となっていないことに注目すべきである。
 第二に、前貸金とか手付金ともいわれた「約定金」の存在である。これは女工の争奪が激しくなった明治三〇年前後に一般化したようであるが、大製糸資本家が女工を有利に獲得するための有力な募集手段であった。その手続きは、つぎのようにしておこなわれた。各工場の募集人は年始と春挽〔はるびき〕まえに二度ずつ、まえの年に自己の工場に働いていた女工はもちろんのこと、他の工場の女工であった者、あるいは工場勤めを希望している者を問いあわせ、その家を歴訪する。そのさい募集人はいろいろの甘言をもって父兄ないし当人を勧誘するわけであるが、貧しい農家にとって、この前借金はたいへん魅力のあるものであった。
 石井寛治の『日本蚕業分析』によれば、この前貸金は明治二五年当時、山梨県では一人二円であったが、明治三四年ごろになると四、五円内外をつねとするようになり、明治三九年の山梨県の例では五円から一〇円くらいをだすようになったという。そして、同氏はいくつかの製糸場の事例を検討した結果、前貸金の分布は「一円と五円の二極集中型」になっていること、また五円以上の前貸金は、主として未経験女工をひきだすばあいか、他の製糸場へ勤めた女工をひきぬくさいに用いられる例が多かったことをあきらかにしている。また『生糸織物職工事情』によれば、雇い入れようとする女工が熟練女工で、かつ、他工場との募集競争がはげしい場合には、五、六十円もの前貸金を給する例さえあったという。この前貸金は女工の就業中の賃金からさしひかれるものであったが、明治三二年当時の小作農家(家族五人、小作田畑一町歩耕作)の年間現金支出が全国平均で一六六円であったことをみても、農閑期の一、二月に、女工一人につき五円前後の現金がはいることは、貧農にとっては大きな魅力であっただろう。親にとってたいせつな娘を遠く、見も知らぬ他県の製糸会社へだすことは心配であったが、この前借金ほしさに、契約を結ぶ農家が何戸もあったのである。
 第三に注目しなければならないのは、「何等ノ事故出来候共決シテ他ノ製糸家ヘ就業致サズ候」という条項であり、かつ、万一違約したばあいには工場主の請求に応じてかならず弁償する、という規定である。ここにはたんに賠償するとだけあって金額を明示していないが、おなじ明治三〇年の林国蔵の工場のばあいをみると、なんと二〇倍の損害金を要求している例さえある。
 このように前貸金はたんに女工募集の有力な手段であっただけではなく、女工の移動の自由を事実上禁止した足どめ手段としても機能していたわけであり、製糸業における雇用関係の前近代的性格をうきぼりにしているといえよう。こうして明治三〇年代になると、女工はいわば借金つきで工場にはいるのが一般化し、女工は親に迷惑をかけたくないの一心から、苛酷な労働条件にもじっとたえて、糸引きに精をだしていたのである。
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ここに述べられた見解は、1976年当時の「戦後歴史学」の水準としては普通の出来ですが、現時点では相当に問題がありますね。
というか、間違いだらけです。

中村政則(1935-2015)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%94%BF%E5%89%87
コメント
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