学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

岡谷に貼られた「女工いじめの街」のレッテル

2018-10-21 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月21日(日)10時05分29秒

もう少し『岡谷蚕糸博物館紀要』の「聞き取り調査の記録 岡谷の製糸業」の事例を紹介してから山本茂実『あゝ野麦峠』の信頼性に直接関係する会田進氏(元市立岡谷蚕糸博物館学芸員)の「製糸聞き取り調査の総括 山本茂実著『あゝ野麦峠 ある製糸女工哀史』をたどる(1)」(『岡谷蚕糸博物館紀要』13号、2008)を引用しようかなと思っていたのですが、まあ、少なくとも食事に関しては、松沢裕作氏の「提供される食事は貧しく」という指摘は誤解ですね。
もちろん、2018年現在の松沢家の食卓に比べれば貧しいと評価せざるを得ないでしょうが、戦前の日本の生活事情を考えれば製糸工女に提供された食事は平均を相当上回るレベルであり、ご飯を自由に何杯でも食べられるだけで夢のようだと思った人も多いと思います。
『岡谷蚕糸博物館紀要』全14巻の「聞き取り調査の記録 岡谷の製糸業」を見ると、1927年(昭和2)8月に起きたストライキで有名な山一林組については、食事の内容に多少の不満があったという証言があるものの、それもオカズが少ない程度の話ですね。
『あゝ野麦峠』には、工女の集会で「私たちはブタではない、人間の食べ物を与えてください」との発言があったと記されていますが(新版、p267)、これが仮に事実だとしても、一時的な争議の興奮にかられた大袈裟な表現かと思います。
ということで、会田進氏の論文に移ります。
まず、聞き取り調査の趣旨ですが、

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1.岡谷蚕糸博物館の聞き取り調査のあらまし

 映画『あゝ野麦峠』によって、信州、諏訪、そして岡谷の製糸業は著しく暗いイメージになり、日本労働史の中でも、苛酷な、残酷な産業の歴史というイメージを負うことになってしまった。いまだ労働問題が起きるとまず言われることは、「岡谷の製糸業においては」という表現である。こう語られることがすべてを物語っていよう。
 本当に製糸業は工女虐待の経営を行い、いわゆる労働搾取を行なっていたのか、工女哀史ということがあったのか、その実態はどうなのかと様々な疑問が起きる中で、これまでなかなか岡谷の製糸業界から、疑問・反論が出てこなかった。自伝的小説やエッセイなどがないわけではないが、正面から反論することはなかった。
 近代製糸業の歴史は、世界経済の波に翻弄され、艱難辛苦の茨の道であった。栄光の陰に、工女も経営者も栄枯盛衰さまざまな過去を負っている。しかし、日本の産業の近代化に貢献し、外貨の50パーセント以上を獲得、明治政府の殖産興業を担い、維新以後の近代化に大きな役割を果たしたのは製糸業であり、それは製糸家の誇りであった。市立岡谷蚕糸博物館は、そうした製糸業の先人の顕彰を大きな目的の一つにしているのである(紀要創刊号)。当然ながら、なぜ哀史といわれねばならないのかという疑問は蚕糸博物館の初代館長古村敏章をはじめ、常に抱いていた問題である。特に二代館長伊藤正和は、山本氏に分け隔てなく資料を提供し、岡谷の製糸業の歴史を伝えている一人である。
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ということで(p95)、映画『あゝ野麦峠』が岡谷に与えた影響は甚大でした。
永池航太郎氏の「『あゝ野麦峠』に関する研究─「女工哀史」像の解釈をめぐって─」(『信濃』66巻10号(2014)によれば、

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 岡谷の街は、映画「あゝ野麦峠」が上映されて以降、「女工いじめの街」というレッテルが張られ、負のイメージが植えつけられることになる。映画が上映された昭和五四年には岡谷市内の企業への就職希望者数は激減した。
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とのことで(p795)、山本茂実の原作はまだしも、映画『あゝ野麦峠』は本当にシャレにならない事態を惹き起こした訳ですね。
なお、会田論文の上記引用部分だけ見ると岡谷蚕糸博物館の設立自体、映画『あゝ野麦峠』への対抗策のように見えるかもしれませんが、同館設立は1964年(昭和39)だそうで、山本茂実の原作が出た1968年の四年前、映画『あゝ野麦峠』の十五年前ですね。

「岡谷蚕糸博物館 シルクファクト」公式サイト
http://silkfact.jp/
市立岡谷蚕糸博物館
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%B2%A1%E8%B0%B7%E8%9A%95%E7%B3%B8%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8
コメント (7)
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