学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「あゝ山本茂実─ある農民哲学徒哀史」(その6)

2018-10-31 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月31日(水)15時12分4秒

棚からぼた餅のように超弩級の攻撃材料を得た山本は、一挙に攻勢に出ます。(『「あゝ野麦峠」と山本茂実』、p230以下)

-------
 山本と朝日東京本社との戦いはすでに一年以上、膠着状態になっていた。
 山本は今度は社会部長ではなく、広岡社長、中川専務、増田常務宛てに「質問状」を提出するという手段に出た。

私は昨秋発表した作品を貴紙から社会面トップで、盗作とたたかれ社会的に葬られた者であります。今日まで死にまさる苦しさの中で、盗作でないことを立証しつづけて闘ってきました。ところが今回その朝日新聞がこともあろうに盗作だといった拙稿を、そっくりそのまま盗作して朝日新聞紙上に登載したのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。

 もちろん何日たってもトップメンバーからの返答が来るはずがない。山本の手紙に対しては、いつも伊藤社会部長が対応に当たっていた。
-------

ということで、標的を企業トップに絞って揺さぶりをかける巧みさは見事ですね。
このあたりになると、かつて『哲學随想録 生きぬく悩み』で泥臭い人生論を語り、『人生記録雑誌 葦』の「主幹」として悩める民衆の指導者づらをしていた頃の鬱陶しい青年哲学徒の面影は全く消えて、戦前の生糸相場並みの人生の浮き沈みの中で社会の裏表を知り尽くした山本は、恐るべき文章力で武装した超有能なクレーマーとしての相貌を見せます。
そして、山本が朝日新聞から引き出した成果は次のようなものです。

-------
 暮れも迫ったころ、伊藤部長が丁重な姿勢で面会を申し込んできた。どうやら最終結果のようだった。面会場所はいつもの有楽町の喫茶店。伊藤部長はおもむろに「友好的提案」を出してきた。山本にとっても有利な条件だとして、次のような案を提示した。

 一、単行本『野麦峠』ができた時は、朝日新聞社から出版する。
 一、明治百年の記念行事として野麦峠に碑を建てる。『野麦峠』は新聞の学芸欄でも記事にする。

 この二つの提案を考えてもらいたい、とのこと。盗作の謝罪など一切ないが、誇り高い朝日新聞社として"全面降伏"であることは間違いない。つねに牙城の楯として孤軍奮闘してきた伊藤部長も疲労が見えていたという。ちなみに、長野支局の盗作問題が最初に伊藤部長の耳に入ったとき、彼の怒りは電光のように全身に走った。「日本刀を脇にして長野支局に斬り込んでいこうと思った」と言ったとか言わなかったとか─。
-------

ということで、絶対に謝罪はしない点、いかにも朝日新聞らしいですね。
さて、朝日新聞との示談が成立した1967年(昭和42)12月18日以降、山本は「単行本『野麦峠』」の再執筆に取り掛かり、翌1968年10月10日、『あゝ野麦峠─ある製糸工女哀史』が朝日新聞社から出版されます。
そして翌11月3日「文化の日」、野麦峠において、岐阜県高根村と長野県奈川村の両村が準備を進めていた「あゝ野麦峠の碑」の除幕式が盛大に執り行われます。
碑の題字は「天声人語」の荒垣秀雄によるもので、この碑は野麦峠を歩いた飛騨の製糸工女の記念碑であるとともに、山本の朝日新聞社に対する熾烈な戦いの勝利の記念碑でもある訳ですね。

「野麦街道を行く」(風工房「風に吹かれて」サイト内)
http://blowinthewind.net/kaido/nomugi/nomugi.htm
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「あゝ山本茂実─ある農民哲学徒哀史」(その5)

2018-10-31 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月31日(水)11時43分20秒

告訴と同日付で謝罪の内容証明郵便を送付するという産経新聞社の対応も些か不思議ですが、朝日との関係は更に謎です。
山本は産経新聞の責任者二名と「念書」を交わして同社への告訴を取り下げた後、朝日新聞の社会部長・伊藤牧夫宛てに「朝日の記事によって被害を受けて泣き寝入りしている人たちと、朝日新聞社前、有楽町付近にみんなで座り込み、『泣き寝入りを止めよ』と目的を達するまで何か月でも訴え続ける」という「剣幕」の「抗議書」を送ったそうですが、これに対し、朝日の伊藤部長は6月28日付で、

-------
 「野麦峠を越えた百年」につきましては、いろいろな問題がありましたが、率直な話し合いを通して相互の誤解もとけ、充分な了解点に達したものと信じております。
 今回の事件はまことに不幸なことでありました。貴兄の作家活動に思わざる打撃を与える結果となりましたことを遺憾に思います。しかし私は人間の善意というものを信じたい。─禍を転じて福となし、今後多くの困難を克服され、作家として一層ご発展のほどお祈りいたします。
-------

という手紙を送ってきたのだそうです。(『「あゝ野麦峠」と山本茂実』、p227以下)
判断材料が山本夫人の著書しかないので詳しい事情は分かりませんが、「盗作」の被害者、蒲幾美氏の主張自体はもっともであり、蒲氏との関係では、刑事はもちろん民事でも名誉毀損など全く問題にならないはずです。
おそらく朝日・産経とも周辺事情で言い過ぎの部分があり、そこを山本側に厳しく突かれたのでしょうね。
想像を逞しくすると、「法務省に勤める温厚な官吏で、高橋翠という人」は元検察官の優秀な弁護士を山本に紹介して、その弁護士が朝日・産経と強烈な折衝をしたのではないかと思います。
誇り高き朝日新聞の社会部長としては、これだけ丁重な手紙を送ったのだから一件落着と思ったでしょうが、山本は「いろいろな問題とはなんだ」「相互の誤解とは何だ、おれは何も誤解などしていない」「遺憾とは何だ。『お詫びします』ではないか」と「逆上」して怒りの返事を送り返し、ネチネチと言葉尻をあげつらった返信に社会部長も激怒して、両者とも一歩も引かない状態が数か月続いたそうですが、ここで朝日新聞側に珍事が発生します。
10月25日、朝日新聞長野版の「峠」というシリーズ記事に「野麦峠」が取り上げられて、何とその記事が山本の『文藝春秋』記事の盗作だったのだそうです。
長野県の旧葦会の関係者から連絡を受けると、山本は直ちに朝日新聞松本支局に行って支局長と面会し、

-------
「自分の書いた『野麦峠』の作品が盗作問題になったが、それとそっくり同じものが、こちらの新聞に出ている」と記事を示すと、支局長はいぶかしげな顔をしたが、次第に驚き、あわて出した。事態を把握していなかったうえに、山本本人が突然乗込んできたことに戸惑ったのだろう。
 松本支局長は電話でさかんに長野支局と連絡を取り合っていた。長野支局長は電話口で山本に「どんなことでも致しますから、東京の本社へは報せないで下さい」としきりに懇願したというが、どうして秘密裏に納まるか、【後略】
-------

という展開となります。(p230)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする