学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「あゝ山本茂実─ある農民哲学徒哀史」(その3)

2018-10-28 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年10月28日(日)12時12分33秒

山本茂実は人生に二度、法律がらみの大きなトラブルに見舞われていて、最初が1954年(昭和29)7月、『日本観光新聞』なる週刊新聞に載った「無軌道な人生記録 『葦』をめぐる桃色騒動」「結婚すると欺して奪った私の貞操」「人妻、女事務員等山本茂実を暴く」云々のスキャンダル記事を発端とする一連の騒動です。
『日本観光新聞』は部数僅少の社会的影響力の少ない媒体だったようですが、『サンデー毎日』の後追い記事により『葦』読者にも騒ぎが広く知られることとなり、非難の手紙が殺到したそうですね。
『「あゝ野麦峠」と山本茂実』によれば、

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 人生を真剣に生きようと提言している山本の身に、なぜこのようなスキャンダルが起きたのか。そのころの葦社は世間にも名が知れわたり、出版界を泳ぎ回る情報屋と呼ばれる者たちも出没していたという。女性ファンの中には、山本と個人的に接近することを目的としている人もいて、山本もそれなりに対応していた、というようなこともあったらしい。
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との背景事情があったそうですが(p186)、山本は民事訴訟を提起し、一年後の1955年9月に問題の記事は虚偽であったとの勝訴判決を得て、『日本観光新聞』に謝罪広告を出させます。
しかし、裁判には勝ったものの多くの読者が離れ、葦出版社の経営状態が悪化したことは既に紹介した通りです。
さて、このトラブルを契機に出版社の経営者としての地位を失い、ついで1960年に『葦』そのものが廃刊となって編集長としての地位も失った山本は、フリーライターとして筆一本で新婚の妻と相次いで生まれた二人の子を食べさせて行くことになる訳ですが、編集長時代に培った出版業界での人脈のおかげでそれなりに仕事に恵まれ、生活も安定したようですね。
そして、新たに野麦峠というライフワークのテーマも見つけて張り切っていたときに第二のトラブル、「野麦峠を越えた明治百年」の盗作疑惑が勃発します。
詳しい経緯は省略しますが、この問題で山本は本当に肉体的にも精神的にも追い詰められたようですね。
弁解のために「上申書 「野麦峠」と私の立場」という文書を作成して関係者に送ったものの完全に無視されてしまった山本は、「近隣で山本と気が合って親しくつき合って」いた「法務省に勤める温厚な官吏で、高橋翠という人」から、こういう文書を書いても何の効果もないと言われると、

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 その時、なんということか、山本が大きな声で泣き出した。
「高橋さんまでがそんなこと言わないでくれ、今度の事件はおれにとって大変なことだったんだ。おれは失業して谷底から一歩一歩這い上がって、やっといちばん上の岩に片手が届いて、これで這い上がれると思った途端、その片手を上にいたヤツが足で突き落としてしまったんだ」
 彼は涙声をつまらせながら片手を上に伸ばして岩をつかむ真似をして、もう一つの手で岩をつかむ手を突き落す真似をした。
「おれはもう四十九歳だ、限界ぎりぎりだったんだ、もうおれには奈落の底から這い上がる力はない……」
 また大声で泣いた。高橋も山本の予期せぬ態度に驚いていたが、私も夫の号泣を見たのははじめてだった。この気性の強い、人前で絶対に弱みを見せない鋼鉄のような男が、手放しで泣いている。高橋と私はしばし言葉をなくして山本をじっと見ていた。高橋は夫と私へいたわるような目で会釈をくり返しながら、無言のまま帰っていった。
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のだそうです。(p226)
コメント
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