学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

鈴木敬『中国絵画史』全八冊における伝毛松筆「猿図」の不在

2020-07-21 | 『太平記』と『難太平記』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 7月21日(火)18時43分12秒

鈴木敬『中国絵画史』上巻・中巻之一・中巻之二・下巻(吉川弘文館、1984-1995)は各巻が本文と図版にそれぞれ分かれていて、全部で八冊ですね。
吉川弘文館は2011年に全四巻の新装版を出していて、こちらは合計18万円(税別)だそうです。

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中国絵画の碩学が書き下ろした、日本初の本格的通史。内外の研究成果を踏まえ、新出の素材をも駆使して描かれた大著を、新装版として待望の限定復刊。紀元前から明の時代まで、郭煕・董源・沈周ら著名な画家たちの膨大な作品をもとに、山水画・花鳥画などの様式の成立や画法に迫る。中国絵画はもちろん、日本絵画を学ぶ上でも座右必備の書。


さて、『日本美術全集第6巻 東アジアのなかの日本美術』(小学館、2015)での板倉聖哲氏の「(伝毛松筆「猿図」は)日本に伝来した南宋時代前期の院体畜獣画の最優品であることは確か」という説明が正しいとすれば、鈴木著でも『中国絵画史 中之一(南宋・遼・金)』または『中国絵画史 中之二(元)』のいずれかに言及がありそうだなと思って探してみましたが、ありませんでした。
この絵が「日本に伝来した南宋時代前期の院体畜獣画の最優品」だという説明、ないしそれに類似する主張が確認できなかったのではなく、伝毛松筆「猿図」への言及自体が皆無でした。
なにしろ膨大な分量なので、全巻を隅々まで読んだ訳ではありませんが、伝毛松筆「猿図」が図版に登場しないばかりか、索引にもなく、そもそも「毛松」という人物すら索引に出てきません。
『百科事典マイペディア』によれば、毛松の子だという毛益については、鈴木著にもごく僅かな記述がありましたが、毛松については皆無です。
何だか狐につままれたような気分ですね。

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毛益 中国,南宋の画家。生没年不詳。乾道年間(1165年―1173年)画院の待詔を勤めた。花卉【れい】毛(かきれいもう)をよくし,特に鳥の描写は真に迫ったという。父の毛松も画家として知られ,その筆と伝える《猿猴(えんこう)図》が京都の曼殊院に伝存。


私としては、「某先生」は学士院会員・鈴木敬(1920-2007)で、その晩年の弟子である東京大学東洋文化研究所教授の板倉聖哲氏(1965生)が、「某先生」の名誉を守るために師の説を墨守しているのでは、と邪推したのですが、前提が怪しくなってしまいました。
別の手がかりとしては、国会図書館サイトで検索してみたところ、山下裕二氏が『茶道の研究』(三徳庵)という雑誌に「名画に近づく」という連載を持っていて、531~533号(いずれも2000年)の三回にわたって「伝毛松筆 猿図」を論じているらしいのですが、遠隔複写はできないようなので、入手の手段がありません。
まあ、何が何でも究明したいと思うほどの問題ではないので、とりあえずここまでにしておいて、何か機会があればもう少し調べてみようかなと思います。
正直、私にとって中国絵画自体がそれほど魅力的な研究対象ではなく、西欧中世の装飾写本を見ていた方がよっぽど楽しいですね。
それに中国絵画を論じている人たちの大半は、比較的若い板倉聖哲氏を含め、文章が古臭いというか、陰気というか、とにかく私とは相性があまりよくないので、この種の本ばかり読んでいるのはいささか苦痛になってきました。

>筆綾丸さん
>両者の相違点は、パーマーク(斑点)の数ではなく朱点の有無だ、と朧気ながら記憶しています。

警察官僚の佐々氏はその職業柄、手帳に細かい記録を残していて、尾鷲での出来事の基本的な事実関係は正確だと思います。
しかし、佐々氏自身は生物学には全く興味がないのが明らかですから、あまご・やまめに関する部分は皇太子殿下の発言そのままではない可能性も多分にありますね。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

あめのうお 2020/07/19(日) 17:24:50
小太郎さん
https://tsurihack.com/881
昔、ある書き物をする必要があって、ヤマメとアマゴの違いについて調べたことがあります。両者の相違点は、パーマーク(斑点)の数ではなく朱点の有無だ、と朧気ながら記憶しています。
陛下が食べられたのは、やはり、アマゴだったのではあるまいか。そんな気もします。あるいは、学問的名称はともかくとして、東日本文化圏でヤマメと呼ぶものを西日本文化圏ではアマゴと呼ぶ、というような違いがあるのかもしれず、案外、難しい問題です。

蕪村に、
瀬田降りて 志賀の夕日や 江鮭
という句がありますが、江鮭(あめのうお)はヤマメと同じ陸封型のサクラマスで、琵琶湖の固有種です。
句の眼目は、近江八景のひとつ瀬田の夕照は生憎の雨で見えないが、夕焼けのように美しい琵琶湖名物の天の魚を得た、というところにあるようです。さらに言えば、瀬田川は琵琶湖唯一の流出川なので、天の魚は瀬田川を降らず、流入川(安曇川など)を遡るのだ、といった騙し絵のような仕掛けもあるようです。
現代風に俗っぽく解釈すれば、天の魚なのに天下りしない孤高の存在だ、ということになりますか。

漁師と熊のエピソードは、ご進講の折、南方熊楠が昭和天皇に話したものだ、と読んでも、まったく違和感がありませんね。
コメント
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