学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

護良親王の征夷大将軍解任時期との関係

2020-12-03 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月 3日(木)18時28分28秒

別に桃崎氏の見解の批判が目的ではないのですが、やはり桃崎氏のように佐藤進一説の枠組みの中にいる限り、いくら細部を工夫しても「鎌倉将軍府」の時代を正確に把握できないような感じがします。
さて、問題は成良親王が征夷大将軍に就任した時期ですが、これは前任者である護良親王の任期と重なることはあり得ない、という制約があります。
そこで、まず護良親王が征夷大将軍に就任した時期ですが、この点について亀田俊和氏は『征夷大将軍・護良親王』(戎光祥出版、2017)において、

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 清忠から護良の返答を聞いた後醍醐は困り果てた。倒幕の最大の功労者である尊氏を討つなど、狂気の沙汰としか言いようがない。結局、後醍醐は尊氏討伐を中止するよう息子を諭し、征夷大将軍に任命することでなだめた。
 これでようやく護良も信貴山を下山し、帰京した。その時期は諸説あるが、六月中であったことは確実である。『大日本史料』は、一三日の出来事としている。このときの護良の軍勢は非常に華美で豪勢だったようで(『増鏡』)、幕府打倒直後の彼の権勢を物語っている。
 ちなみに、遅くとも五月一〇日から、護良は令旨で「将軍宮」と称している(案文、摂津勝尾寺文書)。この段階は六波羅探題が滅亡した直後であり、後醍醐もまだ伯耆にとどまっていた。つまり、護良は後醍醐に無断で将軍を自称しており、後醍醐の将軍任命は、その追認にすぎなかったわけである。
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とされています。(p59)
『増鏡』には、

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 十三日大塔の法親王、都に入り給ふ。この月ごろに御髪おほして、えもいはず清らなる男になり給へり。唐の赤地の錦の御鎧直垂といふもの奉りて、御馬にて渡り給へば、御供にゆゆしげなる武士どもうち囲みて、御門の御供なりしにも、ほとばと劣るまじかめり。速やかに将軍の宣旨をかうぶり給ひぬ。

http://web.archive.org/web/20150918011331/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu17-ketumatu.htm

とあって、『増鏡』が六月十三日説の有力な典拠ですね。
次に護良がいつ解任されたかですが、これははっきりしていないものの、佐藤進一氏の『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)には「すでに義良─顕家の赴任前(九月?)に征夷大将軍を解任され」(p45)とあり、就任僅か三ヶ月程度で解任されたことで学説は固まっています。
最新の研究はやはり亀田氏の前掲書で、

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 その後、時期は不明であるが、六月令とは別に、護良令旨を無効化する法令も出されたらしい(年月日欠高野山丹生社神主恒信申状、紀伊高野山『宝簡集』一九)。これと符号するかのように、七月以降は護良令旨の残存数が激減し、しかも、彼が知行国主を務めた和泉・紀伊両国に限定される。そして元弘三年一〇月三日、和泉国上下包近名に対する濫妨を禁じ、同国久米田寺に同名を安堵したものを最後に(和泉久米田寺文書)、護良令旨はついに消滅するのである。
 そして、八月二二日から九月二日の間に、護良は征夷大将軍を解任されたらしい。六月に任命されてから、わずか三ヶ月ほどしか経っていない。令旨の書止文言から「将軍宮」「将軍家」の言葉も消え、右に述べたとおり、令旨自体が消滅してしまう。そのなかで、兵部卿の地位は依然維持し、和泉・紀伊の知行国主も続けたようであるが、護良の勢威が急速に衰えたことは否めない。
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とのことですね。(p60以下)
実は後世の編纂物では護良の解任時期には極めて幅があって、例えば『続史愚抄』には建武元年(1334)十月二十二日、護良が後醍醐の命により逮捕・監禁されたのと同日に解任されたとあります。
古文書の分析を踏まえた現在の歴史学の検証結果とは実に一年以上の差がありますが、まあ、編纂物の信頼性はこの程度ですね。
従って、成良の征夷大将軍就任時期を探るためにも、編纂物は全部駄目で、結局は古文書に頼るしかないと思われますが、この点は次の投稿で論じます。
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「得宗の家格と家政を直義が継承」(by 桃崎有一郎氏)

2020-12-03 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
「建武政権論」の続きです。(p65以下)

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 鎌倉の大慈寺新釈迦堂・山内新阿弥陀堂の供僧職や右大将〔源頼朝〕家法華堂禅衆職、金沢称名寺・浄光明寺の住持職はかつて執権の発する関東御教書で任命されたが、直義はこの権限を全く継承した。鎌倉府の供僧職安堵は、申請書や証拠文書・系図・起請文などを奉行人に提出すると、鎌倉府主君成良の御所で「御下文」を下される形でなされ、幕府的な御恩・奉公関係を強く含意した。また建長寺正続院に「毎月斎料一石一貫」を下行(支払い)した「公文所」は、後に下行米・銭の代替財源として同院に寄進された相模国山内荘秋庭郷信濃村が直義領なので、直義家の家務機関と見なされる。鎌倉末期には得宗家の公文所が得宗領の関東御願所に所務関係の命令を発したから、直義は得宗に准じて家務機関を設置したことになる。
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鎌倉期の足利氏の家政機関に関する先行研究によれば、政所の下部組織として「足利荘公文所」「額田郡公文所」などが置かれていたはずですが、桃崎氏の理解だと「直義家の家務機関」として「公文所」が存在するとのことなので、これは「尊氏家の家務機関」とは別個独立に「直義家の家務機関」が存在していたということなのでしょうか。
ちょっと理解できないので、後で調べてみるつもりです。
ま、それはともかく、寺院関係の諸職が「かつて執権の発する関東御教書で任命されたが、直義はこの権限を全く継承」し、「鎌倉府の供僧職安堵」も「鎌倉府主君成良の御所で「御下文」を下される形でなされ、幕府的な御恩・奉公関係を強く含意した」とのことなので、ここでも限りなく鎌倉幕府に近い何らかの組織が存在していたようですね。
そして、当該組織のトップに位置していた成良の役職名ははっきりせず、史料用語としても講学上の分析概念としてもあまり聞いたことのない「鎌倉府主君」という曖昧な表現を使わざるを得ないようなので、これも森茂暁氏の「主帥」概念と似ていますね。

「御教書以外では、主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状もある」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43276572022babedbef4c94f2e88da7a

さて、続きです。

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 他方尊氏は、鎌倉中期に祖先足利義氏が足利荘の一部を寄進して成立した鶴岡八幡宮両界供僧職などを足利家家督として安堵する一方、かつての執権・得宗と同形式の任命書(公帖)で京都万寿寺や肥後寿勝寺の住持を任命した。政治的経緯のみに基づく得宗の権力は将軍・執権のいずれに回収するか判断が難しかったが、得宗の家格と家政を直義が継承する一方、臨済宗諸寺の寺格設定を行う権力者としての人格は尊氏が継承したと思われる。総じて足利氏による寺社諸職・所領の補任・安堵においては、足利氏家督の尊氏と鎌倉府執権の直義という両系統が並立しており、初期室町幕府において尊氏が主従制的な支配権を、直義が統治権的な支配権を分掌したという著名な二元的構造が、すでに明瞭に現れている。
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「政治的経緯のみに基づく得宗の権力は将軍・執権のいずれに回収するか判断が難しかったが」とありますが、ここで言う「将軍」は尊氏のようですね。
まあ、確かにこの時期の尊氏は「鎮守府将軍」という称号を得てはいますが、「鎮守府将軍」としての尊氏の権力とは何なのでしょうか。
また、「得宗の権力」を尊氏・直義兄弟が「回収」できる根拠は何かあるのでしょうか。
北条一門の上に君臨した得宗は、実質的に鎌倉幕府全体を支配し、かつ朝廷にも干渉できる強大な権力を有していた訳ですが、建武の新政で「公武一統」の世になった以上、「得宗の権力」を総体的に獲得できたのは後醍醐ではなかろうかと思います。
尊氏も直義も、後醍醐から僅かな権力を分配してもらえただけで、二人の権力は合算しても得宗より遥かにショボい権力なのではないですかね。
正直、私には「得宗の家格と家政を直義が継承」などという事態は想像もできませんが、桃崎氏の理解によれば、「得宗の家格と家政」を「鎌倉府執権の直義」が継承し、それが初期室町幕府の「統治権的な支配権」と結びつき、他方、「臨済宗諸寺の寺格設定を行う権力者としての人格」を「足利氏家督の尊氏」が継承し、それが初期室町幕府の「主従制的な支配権」と結びつくようですね。
まあ、私には全く異なるレベルの問題がごちゃ混ぜになっているようで全く理解できませんが、とにかく桃崎氏が佐藤進一の「著名な二元的構造」説の影響を極めて強く受けているらしいことは確認できました。
「2 鎌倉府執権足利直義」はこれで終わりです。
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