学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その1)

2020-12-21 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月21日(月)11時25分50秒

『古典の未来学』に暫く寄り道していましたが、征夷大将軍の問題に戻ります。

征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61a5cbcfadd62a435d8dee1054e93188

後醍醐の帰洛は元弘三年(1333)六月四日で、この日に東寺に入り、翌五日に里内裏の二条富小路殿に還御となります。
他方、護良親王の動向ですが、西源院本『太平記』によれば、もともと護良の帰洛は十三日と予定されていたけれども、護良が尊氏討伐と征夷大将軍任官を後醍醐に要求し、尊氏討伐など絶対不可とする後醍醐との間で坊門清忠を介しての交渉が続いて、結局、護良は征夷大将軍任官だけで納得して帰洛したことになっています。
ただ、極めて奇妙なのは、後醍醐・護良間の交渉が本当に存在したのならば、護良の帰洛は当初予定の十三日より相当「延引」されるはずなのに、何故か当初予定通りの十三日に帰洛したことになっています。
十三日以外とする『太平記』の諸本もありますが、既に『大日本史料 第六編之一』で田中義成が考証したように、史実としては六月十三日で間違いないですね。
後醍醐帰洛の行列に加わっていた大軍勢の宿舎や食料の手配だけでも大変な騒ぎだったでしょうから、後醍醐と同じく大軍勢を率いていた護良の帰洛が六月十三日だとすると、後醍醐帰洛に伴うひと騒動がちょうど落ち着いた頃合いということで、まことに穏当なスケジュールですね。

護良親王は征夷大将軍を望んだのか?(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5725c255cb83939edd326ee6250fe7a

さて、護良が十三日帰洛で間違いないとすると、ここから導かれる一番シンプルな結論は、後醍醐・護良間の交渉など存在しなかった、護良・尊氏間の対立は『太平記』の創作であって、少なくともこの時期には二人は対立していなかった、ということになります。
では、建武新政期、尊氏と護良はいったいどのような存在であったのか。
この点を探るため、吉原弘道氏の「建武政権における足利尊氏の立場─元弘の乱での動向と戦後処理を中心として」(『史学雑誌』第111編第7号、2002)に即して検討してみたいと思います。
この論文は、

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 はじめに
一 元弘の乱における足利尊氏
(一)足利尊氏の離反過程
(二)元弘の乱の軍勢催促
二 元弘の乱の戦功認定
三 元弘の乱の戦後処理
四 足利尊氏の立場
 おわりに
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と構成されていますが、まずは吉原氏の問題意識を確認するため、「はじめに」を引用します。(p35以下)

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 建武政権は、鎌倉体制から室町体制への移行期に存在しており、その評価は日本中世史の展開を理解するうえでも重要な問題となっている。しかし、建武政権の評価をめぐっては、種々議論されてきたが未だに定説をみていないのが現状である。近年の公家制度研究の進展により、鎌倉期の公家政権から建武政権への連続性が明らかにされつつある。とはいっても、公武を一元的に支配した建武政権の性格に迫るためには、公家制度との比較だけでは不十分で武家政権との比較もしなくてはならない。特に全国規模での軍事・警察権の行使は、鎌倉幕府を倒した建武政権が新たに取り組まねばならなかった課題であった。
 従来の研究では、建武政権の軍事・警察機構についてほとんど手付かずの状態であった。その中で、足利尊氏が鎮西軍事指揮権を公式に有していたとの網野善彦氏の指摘は注目に値する。さらに、網野氏は、通説化してきた政権内における尊氏の否定的な評価に対する見直しの必要性を提言された。その後、鎮西軍事指揮権については森茂暁氏・伊藤喜良氏が研究を進められている。しかし、尊氏の否定的な評価の見直しは進んでおらず、建武政権下の尊氏については十分な検討もなされていない。その原因として、中央政府における尊氏の立場を示す史料がほとんどないことが挙げられる。さらに、比較的史料が残存する元弘の乱での尊氏の役割についても、反政府的なイメージが先行して現在でも十分な評価がなされていない。
 そこで、元弘の乱の関係史料を通して、元弘の乱とその戦後処理で尊氏の果たした役割について明らかにしていきたい。そのうえで、建武政権内での尊氏の立場を再検討し、政権機構の中に尊氏を位置づけたいと考える。
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「足利尊氏が鎮西軍事指揮権を公式に有していたとの網野善彦氏の指摘」に付された注(1)を見ると、

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注(1)「建武新政府における足利尊氏」(『悪党と海賊─日本中世の社会と政治─』、法政大学出版会、一九九五年、初出は一九七八年)。
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とあり、私は『網野善彦著作集 第六巻』(岩波書店、2007)で確認してみましたが、僅か二ページの小論で、史料紹介にほんの少しの解説を加えたものですね。
吉原氏が言われるように非常に示唆的な内容ではありますが、網野氏自身は当該考察を更に深めることはなかったようですね。
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