学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

護良親王は征夷大将軍を望んだのか?(その1)

2020-12-13 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月13日(日)12時02分1秒

『大日本史料 第六編之一』(明治三十四年発行、昭和四十三年覆刻、吉川弘文館)の元弘三年(1333)六月十三日条には、『職原抄』の

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征夷使、大将軍一人、<〇中略>中務卿宗尊親王下向已後、四代親王任之、元弘一統之初、兵部卿護良親王暫任之、<〇中略>凡頼朝卿補之後、依重征夷之任、不並任鎮府、元弘以来被並任畢、
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という記事に付した編者の解説に、

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〇護良親王ノ将軍職ニ在ラセラレシハ何ノ頃マデナルカ、詳ナラザレドモ、八月マデノ令旨ニハ、宮将軍令旨、又ハ将軍家令旨トアリ、九月以後ニ至リテハ、カク書セルモノヲ見ズ、且職原抄ニ暫任之トアルヲ合セ考フレバ、御退任アラセラレシハ、是歳秋冬ノ際ナランカ、其後成良親王ノ将軍ニ任ゼラレシコトハ、建武二年八月一日ノ条ニ見エタリ、参看スベシ、
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とあります。
明治三十四年(1901)の田中義成は、「宮将軍」「将軍家」と記された護良親王令旨の残存状況と、北畠親房『職原抄』に護良親王が「元弘一統之初」、征夷大将軍に「暫任之」と記されていることから、護良親王は元弘三年の「秋冬」に征夷大将軍を退任したと推定した訳ですが、学界では田中のこの判断が基本的にずっと維持されて百二十年近く経過しています。
私は、護良が就任僅か三ヶ月程度で征夷大将軍を解任されたにも拘らず、この時点で護良と後醍醐の関係が決裂していないことから、護良と後醍醐双方にとって征夷大将軍はそれほど重大な意味を持つ役職ではなく、あくまで名誉職的なものだったのだろうと想像しますが、しかし、『太平記』第十二巻第一節「公家一統政道の事」には護良が征夷大将軍を強く要求したので後醍醐はやむなく任官させた、とあります。
この『太平記』の記述が本当に史実を反映したものなのか、それとも『太平記』にありがちな創作なのかを原文に即して検討してみたいと思います。
引用は西源院本から行います。(兵藤校注『太平記(二)』、p213以下)

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 元弘癸酉の歳〔とし〕、四海九州の朝敵残る所なく滅びしかば、先帝重祚の後、正慶の年号は廃帝の改元なればとて、これを棄てられて、本の元弘に返さる。その三年の夏の比、天下一時〔いっし〕に評定して、賞罰法令悉く公家一統の政〔まつりごと〕に出でしかば、群俗風〔ふう〕に帰すること、霜を披〔ひら〕いて春の日を照らすが若〔ごと〕く、中華軌〔のり〕を懼るること、刃〔やいば〕を履〔ふ〕んで雷霆〔らいてい〕を戴くが若し。
 同じき年の六月三日、大塔宮信貴の毘沙門堂に御座〔ぎょざ〕ありと聞こへしかば、畿内、近国の勢は申すに及ばず、京中、遠国の輩までも、人より先にと馳せ参りける間、その勢頗る天下の大半をも尽くしぬらんとおびたたし。同じき十三日、御入洛あるべしと定められたりしが、その事となく延引あつて、諸国の兵を召され、楯をはがせ、鏃〔やじり〕を砥いで、合戦の御用意ありと聞こえしかば、誰が身の上とは知らねども、京中の武士、心中更に穏やかならず。
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いったん、ここで切ります。
元弘三年五月七日に六波羅が落ちますが、隠岐から京に戻る途中、兵庫に滞在して「西国、洛中の戦ひに、官軍聊か勝に乗つて、両六波羅を攻め落とすと云へども、関東を攻められん事は、ゆゆしき大事なるべし」(p177)と関東の状況を懸念していた後醍醐のもとへ、五月二十二日に鎌倉を制圧した新田義貞から「相模入道以下一族従類等、不日に追討して、東国すでに静謐の由」(同)を知らせる早馬が到着します。
後醍醐は兵庫に三日逗留した後、六月二日に兵庫を立って五日に入京して東寺に入り、翌六日、二条内裏に還幸します。
他方、六月三日に護良は信貴山に入り、いったん十三日に入洛と決まったものの、何という訳もなく延引されて、諸国の兵が集まり、不穏な雰囲気が漂った、という展開です。

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 これによつて、主上〔しゅしょう〕、右大弁宰相清忠〔きよだた〕を勅使にて仰せられけるは、「天下すでに定〔しず〕まつて、七徳の余威を偃〔のえふ〕し、九功の大化をなす処に、なほ干戈〔かんか〕を動かし、士卒を聚〔あつ〕めらるる条、その用何事ぞや。次に、四海騒乱の程は、敵の難を遁〔のが〕れんために、一旦その容〔かたち〕を俗体に替へらるると云へども、世すでに静謐の上は、急ぎ剃髪染衣の姿に帰つて、門跡相続の業を事とし給ふべし」と仰せられける。
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護良の動きを不審に思った後醍醐は、坊門清忠を信貴山に送り、天下静謐となったのに何故に軍勢を集めているのかを質し、あわせて元のように僧侶に戻れと求めます。

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 宮、清忠を御前〔おんまえ〕近く召して、勅答を申させ給ひけるは、「今、四海一時に定〔しず〕まつて、万民無事を誇る事、陛下休明の徳に依り、微臣籌策〔ちゅうさく〕の功に依れり。しかるに、足利治部大輔高氏、わづかに一戦の功を以て、その志を万人の上に立てんとす。今もしその勢の微なるによつてこれを討たずは、高時法師が逆悪を取つて、高氏が威勢の上に加へたるものなるべし。この故に、兵を挙〔きょ〕し武を備ふ、全く臣が罪にあらず。次に剃髪の事、兆前〔ちょうぜん〕に機を鑑みざる者は、定めて舌を翻〔ひるがえ〕さんか。今、逆徒はからざるに滅びて、天下無事に属〔しょく〕すと云へども、与党なほ身を隠して隙〔ひま〕を窺ひ、時を待たずと云ふ事あるべからず。この時、上〔かみ〕に威厳しなくは、下〔しも〕必ず暴慢の心あるべし。されば、文武の二つの途〔みち〕、同じく立つて治むべきは、今の世なり。われもし剃髪染衣の体〔てい〕に帰り、虎賁〔こほん〕猛将の備へを捨てば、武に於て朝家〔ちょうか〕を全うせん人は、誰ぞや。それ諸仏菩薩の利生方便を垂るる日、折伏〔しゃくぶく〕、摂受〔せつじゅ〕の二門あり。その摂受と云ふは、柔和忍辱の貌〔かたち〕となつて慈悲を先とし、折伏と云ふは、大勢忿怒の相を現じて刑罰を旨とす。況んや、聖明の主、賢佐武備の才を求むるとて、或いは出塵の輩〔ともがら〕を俗体に帰し、或いは退体〔たいてい〕の主を帝位に即け奉る事、和漢その例多し。謂〔いわゆ〕る賈島浪仙〔かとうろうせん〕は、釈門より出でて朝廷の臣となり、天武、孝謙は、法体を替へて重祚の位に登り給ふ。そもそもわれ、台嶺の幽渓に栖〔す〕みてわづかに一門跡を守らんと、幕府の上将〔じょうしょう〕に居して遠く天下を静めんと、国家の用、いづれを能〔よし〕とせん。この両篇、速やかに勅許を下さるやうに奏聞を経べし」と仰せられて、則ち清忠をぞ帰されける。
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少し長くなったので、説明は次の投稿で行います。
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