投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月27日(日)11時36分13秒
着到状に関しての「認定者側の視点」に続いて、「申請者側の視点」が論じられます。(p43以下)
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申請者側の視点に立てば、新政権による所領安堵との関係が注目される。建武政権下の所領安堵では、七月二十五日・二十六日付の官宣旨案(七月令)に「除(北条)高時法師党類以下朝敵与同外、諸国輩当時知行地不可有依違事」とあるように朝敵与同でないことが第一条件であった。この基本方針は、七月令の発布以前から一貫していたはずである。尊氏による着到認定は、朝敵与同ではないことの証明といえる。来るべき所領安堵の申請に備えて諸士は、証判を加えられた着到状を入手しておく必要があったのである。
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「七月令」に関しては吉原氏に「建武政権の安堵に関する一考察─元弘三年七月官宣旨の伝来と機能を中心に─」(『古文書研究』40号、1995)という論文があるそうなので(注46)、後で確認しておきたいと思います。
「来るべき所領安堵の申請に備えて諸士は、証判を加えられた着到状を入手しておく必要があった」との点は争いのないところでしょうね。
さて、では尊氏証判の軍忠状が全く現存していないのに、尊氏証判の着到状が七十通も現存している理由はいったい何だったのか。
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ところで、尊氏による着到認定も、後醍醐へ報告されていたのだろうか。そこで注目したいのが、着到状の「以此旨、可有御披露也」との文言をめぐる認定者と申請者の認識差である。単純に考えれば、申請者が奉行所に上位者(ここでは護良もしくは尊氏)への披露を依頼した文言と解される。護良の場合は、側近が証判を加えていて披露の対象は護良ということになる。これに対して尊氏の場合は、尊氏自身が「承了、(花押)」と証判を加えている。建武二年に尊氏が後醍醐から離反して以後、尊氏自身が直接証判しなくなるのとは対照的である。このことは、元弘三年段階の尊氏が自身を披露の対象者ではなく上位者への仲介者と意識していたことを示している。着到状を受理した尊氏は、着到帳へ記入して上位者である後醍醐に報告していたと考えられる。
尊氏による戦功認定では、軍忠状は恩賞審理に備えて後醍醐へ上申されて申請者へは返却されず、着到状は着到帳へ記入されて後醍醐へ報告され現物は証判を加えて申請者へ返却されたと考えられる。これまで尊氏による着到状の受理は、尊氏との個人的な主従関係の設定のために行われた反政府的な行為と位置づけられてきた。尊氏による着到状の受理が、結果的に尊氏との主従関係の設定としての意味合いを有し、尊氏の勢力拡大に寄与したことは否定しない。しかし、尊氏による着到状の受理は、尊氏の個人的な野望のためではなく、後醍醐への仲介者としての立場で行われていたのである。これに対して護良の戦功認定において、後醍醐との直接的な関係を見出すことはできず、個人的な立場で行われていたと考えられる。この点からしても尊氏による戦功認定は、本来後醍醐もしくは政府機関が行うべき実務を代行していたと位置づけられる。
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「尊氏自身が「承了、(花押)」と証判を加えている」に付された注(48)を見ると、
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(48) 証判の「承了」部分に着目すれば、筆跡に複数パターンのものが存在していて同一人の手になったとは考えられない。少なくとも証判の「承了」部分は、複数の奉行人によって書かれた可能性が高い。このことは、着到状が複数の奉行人によって受理されていたことを意味すると考える。
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とあります。
おそらく尊氏の下に置かれた「着到状受理システム」は相当大規模なもので、複数の奉行人の下にそれなりの人数の補助者もいて、提出された着到状が本当に事実を反映しているのかが調査され、その調査に合格した着到状だけが当該案件についての責任者である奉行人の「承了」を得られたのでしょうね。
また、この「着到状受理システム」は当然ながら「軍忠状受理システム」も兼ねていて、軍忠状についても事実関係が調査され、その調査に合格し、担当奉行人の確認を経た軍忠状だけが後醍醐に上申された訳でしょうね。
なお、「着到状を受理した尊氏は、着到帳へ記入して上位者である後醍醐に報告していたと考えられる」に付された注(49)には、
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(49) 佐藤進一『新版古文書学入門』(法政大学出版局、一九九七年、二三八頁)によれば、「着到状を提出して、着到帳に自分の姓名を登載してもらい、着到状に証判を加えて返付してもらう」というシステムが存在していたとされる。
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とあります。
また、「これまで尊氏による着到状の受理は、尊氏との個人的な主従関係の設定のために行われた反政府的な行為と位置づけられてきた」に付された注(50)には、
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(50) 伊藤喜良「初期の鎌倉府」(『中世国家と東国・奥羽』、一九九九年、初出は一九六九年)、二四九頁。佐藤和彦『南北朝内乱』(小学館、一九七四年)、四八~五〇頁。なお、松井前掲「折紙の着到状について」・松井輝昭「着到状の基本的性格について」(『史学研究』一九五、一九九二年)は、尊氏への着到状提出について「名簿捧呈」の儀礼に似た役割を果たしていたとされる。
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とあります。
佐藤進一氏も『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)において、
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だが、このころ京都とその周辺では、後醍醐にとって意外な情勢が展開していた。一ヵ月前に潰え去ったはずの六波羅探題に代わって、京都奪取の殊勲者である足利高氏が新探題いな新将軍であるかのごとく京都の支配をかためつつあったからである。高氏は、すでに鎌倉幕府に反旗をひるがえした直後から、主として西国方面の守護やそれにつぐ有力な地頭らに密書を送って、倒幕への参加をよびかけてきたのであったが、護良親王軍と連合して京都に進入し、六波羅軍を打破すると、いち早く六波羅に陣を構えた。そして、旧探題配下の職員はじめ多数の御家人を吸収して、京都支配のリーダーシップを握り、さらに地方から続々と上洛する武士の多くを麾下に収めて、完全に護良の軍勢を圧倒し駆逐した。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1452c8580aad085b8670d8d367eb7813
と書かれていますが、「地方から続々と上洛する武士の多くを麾下に収めて」云々という表現は「これまで尊氏による着到状の受理は、尊氏との個人的な主従関係の設定のために行われた反政府的な行為と位置づけられてきた」と同様の認識の反映でしょうね。
いずれにせよ、こうした古い認識は吉原氏の研究によって一掃された訳で、吉原氏の功績は大変なものですね。
ただ、吉原氏の見解にも若干の疑問があるので、その点は次の投稿で検討します。
着到状に関しての「認定者側の視点」に続いて、「申請者側の視点」が論じられます。(p43以下)
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申請者側の視点に立てば、新政権による所領安堵との関係が注目される。建武政権下の所領安堵では、七月二十五日・二十六日付の官宣旨案(七月令)に「除(北条)高時法師党類以下朝敵与同外、諸国輩当時知行地不可有依違事」とあるように朝敵与同でないことが第一条件であった。この基本方針は、七月令の発布以前から一貫していたはずである。尊氏による着到認定は、朝敵与同ではないことの証明といえる。来るべき所領安堵の申請に備えて諸士は、証判を加えられた着到状を入手しておく必要があったのである。
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「七月令」に関しては吉原氏に「建武政権の安堵に関する一考察─元弘三年七月官宣旨の伝来と機能を中心に─」(『古文書研究』40号、1995)という論文があるそうなので(注46)、後で確認しておきたいと思います。
「来るべき所領安堵の申請に備えて諸士は、証判を加えられた着到状を入手しておく必要があった」との点は争いのないところでしょうね。
さて、では尊氏証判の軍忠状が全く現存していないのに、尊氏証判の着到状が七十通も現存している理由はいったい何だったのか。
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ところで、尊氏による着到認定も、後醍醐へ報告されていたのだろうか。そこで注目したいのが、着到状の「以此旨、可有御披露也」との文言をめぐる認定者と申請者の認識差である。単純に考えれば、申請者が奉行所に上位者(ここでは護良もしくは尊氏)への披露を依頼した文言と解される。護良の場合は、側近が証判を加えていて披露の対象は護良ということになる。これに対して尊氏の場合は、尊氏自身が「承了、(花押)」と証判を加えている。建武二年に尊氏が後醍醐から離反して以後、尊氏自身が直接証判しなくなるのとは対照的である。このことは、元弘三年段階の尊氏が自身を披露の対象者ではなく上位者への仲介者と意識していたことを示している。着到状を受理した尊氏は、着到帳へ記入して上位者である後醍醐に報告していたと考えられる。
尊氏による戦功認定では、軍忠状は恩賞審理に備えて後醍醐へ上申されて申請者へは返却されず、着到状は着到帳へ記入されて後醍醐へ報告され現物は証判を加えて申請者へ返却されたと考えられる。これまで尊氏による着到状の受理は、尊氏との個人的な主従関係の設定のために行われた反政府的な行為と位置づけられてきた。尊氏による着到状の受理が、結果的に尊氏との主従関係の設定としての意味合いを有し、尊氏の勢力拡大に寄与したことは否定しない。しかし、尊氏による着到状の受理は、尊氏の個人的な野望のためではなく、後醍醐への仲介者としての立場で行われていたのである。これに対して護良の戦功認定において、後醍醐との直接的な関係を見出すことはできず、個人的な立場で行われていたと考えられる。この点からしても尊氏による戦功認定は、本来後醍醐もしくは政府機関が行うべき実務を代行していたと位置づけられる。
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「尊氏自身が「承了、(花押)」と証判を加えている」に付された注(48)を見ると、
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(48) 証判の「承了」部分に着目すれば、筆跡に複数パターンのものが存在していて同一人の手になったとは考えられない。少なくとも証判の「承了」部分は、複数の奉行人によって書かれた可能性が高い。このことは、着到状が複数の奉行人によって受理されていたことを意味すると考える。
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とあります。
おそらく尊氏の下に置かれた「着到状受理システム」は相当大規模なもので、複数の奉行人の下にそれなりの人数の補助者もいて、提出された着到状が本当に事実を反映しているのかが調査され、その調査に合格した着到状だけが当該案件についての責任者である奉行人の「承了」を得られたのでしょうね。
また、この「着到状受理システム」は当然ながら「軍忠状受理システム」も兼ねていて、軍忠状についても事実関係が調査され、その調査に合格し、担当奉行人の確認を経た軍忠状だけが後醍醐に上申された訳でしょうね。
なお、「着到状を受理した尊氏は、着到帳へ記入して上位者である後醍醐に報告していたと考えられる」に付された注(49)には、
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(49) 佐藤進一『新版古文書学入門』(法政大学出版局、一九九七年、二三八頁)によれば、「着到状を提出して、着到帳に自分の姓名を登載してもらい、着到状に証判を加えて返付してもらう」というシステムが存在していたとされる。
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とあります。
また、「これまで尊氏による着到状の受理は、尊氏との個人的な主従関係の設定のために行われた反政府的な行為と位置づけられてきた」に付された注(50)には、
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(50) 伊藤喜良「初期の鎌倉府」(『中世国家と東国・奥羽』、一九九九年、初出は一九六九年)、二四九頁。佐藤和彦『南北朝内乱』(小学館、一九七四年)、四八~五〇頁。なお、松井前掲「折紙の着到状について」・松井輝昭「着到状の基本的性格について」(『史学研究』一九五、一九九二年)は、尊氏への着到状提出について「名簿捧呈」の儀礼に似た役割を果たしていたとされる。
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とあります。
佐藤進一氏も『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)において、
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だが、このころ京都とその周辺では、後醍醐にとって意外な情勢が展開していた。一ヵ月前に潰え去ったはずの六波羅探題に代わって、京都奪取の殊勲者である足利高氏が新探題いな新将軍であるかのごとく京都の支配をかためつつあったからである。高氏は、すでに鎌倉幕府に反旗をひるがえした直後から、主として西国方面の守護やそれにつぐ有力な地頭らに密書を送って、倒幕への参加をよびかけてきたのであったが、護良親王軍と連合して京都に進入し、六波羅軍を打破すると、いち早く六波羅に陣を構えた。そして、旧探題配下の職員はじめ多数の御家人を吸収して、京都支配のリーダーシップを握り、さらに地方から続々と上洛する武士の多くを麾下に収めて、完全に護良の軍勢を圧倒し駆逐した。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1452c8580aad085b8670d8d367eb7813
と書かれていますが、「地方から続々と上洛する武士の多くを麾下に収めて」云々という表現は「これまで尊氏による着到状の受理は、尊氏との個人的な主従関係の設定のために行われた反政府的な行為と位置づけられてきた」と同様の認識の反映でしょうね。
いずれにせよ、こうした古い認識は吉原氏の研究によって一掃された訳で、吉原氏の功績は大変なものですね。
ただ、吉原氏の見解にも若干の疑問があるので、その点は次の投稿で検討します。