学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

成良親王の征夷大将軍就任時期についての私の仮説

2020-12-04 | 征夷大将軍はいつ重くなったのか
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月 4日(金)10時33分10秒

成良親王が征夷大将軍に就任した時期については、諸史料の記述は概ね次の三つに分類できます。
第一類型は元弘三年(1333)十二月の鎌倉下向の時点で既に任官していたとするものです。
史料としての信頼性が比較的高いとされている『梅松論』には「関東へは同年〔元弘三〕の冬、成良親王征夷将軍として御下向なり」とあり、史料的価値は劣りますが、『武家年代記』には「同十四。御進発。将軍宮并相州直義関東下向」とあって、「征夷将軍」「将軍宮」との表現の違いはありますが、いずれも征夷大将軍と解してよいと思います。
西源院本『太平記』の第十三巻第四節「中先代の事」にも、

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 今、天下一統に帰して、寰中〔かんちゅう〕無事なりと云へども、朝敵の与党、なほ東国にありぬべければ、鎌倉に探題を一人置かでは悪〔あ〕しかりぬべしとて、当今〔とうぎん〕第八宮を、征夷将軍に成し奉つて、鎌倉にぞ置きまゐらせられける。足利左馬頭直義、その執権として東国の成敗を司る。法令皆旧を改めず。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2a3d642e86c00b75693207c4ccd6d3a8

とあって(兵藤校注『太平記(二)』、p321)、『太平記』も第一類型ですね。
ついで第二類型は、建武元年(1334)十月二十二日の護良親王逮捕、そして翌十一月十五日の鎌倉移送に近い時期とするグループです。
同年十一月十四日、「四品上野太守成良親王<九歳。今上皇子。自去年在鎌倉。>有征夷大将軍宣下」と記す『続史愚抄』がその典型ですね。

西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cd19236999a4fdb51b60719f34dea0ca

また、私がツイッターで相互フォローしている可怜さんによれば、

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成良親王が征夷大将軍に補任された時期について、近世には異説もあったらしく、神戸能房(良政)の『伊勢記』は建武元年12月17日、『南朝編年記略』は「将軍家譜」(不明)を根拠に挙げて同年12月7日に置いている。
---『系図纂要』は建武元年12月28日。

https://twitter.com/iokhicjnoakn/status/1333003836017889280

とのことで、いずれも護良親王の動向との関連が伺われます。
そして第三類型は建武二年(1335)八月一日とする『相顕抄』で、これが『大日本史料』に採用され、現在の通説的見解となっています。

西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c570eabc77c671779a06556b40320714

ちなみに義良親王とともに陸奥将軍府に所在し、ライバル的存在である鎌倉将軍府の動向に強い関心を寄せていたと思われる北畠親房の『神皇正統記』は成良が鎌倉に下向した「後にしばらく征夷大将軍を兼させ給ふ」と記しており、親房がもう少し気をきかせて具体的に書いてくれれば何の悩みもなかったのですが、ま、今さら親房に文句を言っても仕方のないことであります。
さて、古文書の分析を踏まえた現在の学説によれば護良親王が征夷大将軍を解任されたのは建武元年九月頃なので、第二類型は根拠を失っているように思われます。
これは具体的典拠に基づく記録ではなく、護良親王が逮捕時まで征夷大将軍の地位を維持したのであろうという思い込みに基づく解釈ではないですかね。
そして、第三類型は中先代の乱という危機状態における対応としては非常に奇妙なので、私としては、第一類型に北畠親房の証言を加味して、下向後比較的早い時期に任官したのではないか、との仮説を立てたいと思います。
果たしてこの仮説が一次史料により根拠づけられるかが次の問題となりますが、その場合、何とも気になってくるのは森茂暁氏が「まさにかつての関東下知状さながらである」と評価される「主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した」建武元年四月一〇日付下知状です。

「御教書以外では、主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状もある」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43276572022babedbef4c94f2e88da7a

この下知状については、亀田俊和氏も『足利直義 下知、件のごとし』(ミネルヴァ書房、2016)で意味深長な言及の仕方をされているので、次の投稿で紹介します。

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足利直義(1307~52) 南北朝期の武将。
兄尊氏を補佐して室町幕府の基礎を固めるものの、高師直らと対立して観応の擾乱をもたらした足利直義。本書では、後世の評価が劇的に変化してきた直義の、とくに政治家としての事跡を辿り、その実像を明らかにする。
[ここがポイント]
◎ 本格的な足利直義伝記として、最新の研究成果に基づき、網羅的に彼の事蹟に言及する。
◎ 特に観応の擾乱の記述が充実している。
[副題の由来]
不動産訴訟(所務沙汰)を司り、多数の裁許下知状を発給した直義は、その書止文言を「下知、件のごとし」としていた(本書76頁参照)。

https://www.minervashobo.co.jp/book/b244221.html
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