学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その6)

2020-12-26 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月26日(土)13時10分40秒

ということで、着到状の方です。(p43)

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 では、尊氏が証判して返却した着到状は、どのような役割を果たしていたのだろうか。尊氏の受理した着到状は、七〇通にも及ぶ多数が現存している。この数値は護良の六倍近い。さらに、尊氏と護良の両者に着到状を提出している事例では、現存する四通中の前後が不明な一通を除いた三通が護良に提出した後で尊氏へと提出されている。これらのことは、尊氏によって着到認定を受ける必要があったことを伺わせる。
 尊氏の受理した着到状の中には、五月七日前後の京都合戦の戦闘に直接関係したものと、五月七日以降の京都への着到に関係したものの二種類が存在する。五月七日以前の三通は、合戦以前のもので厳密な意味での京都合戦の着到状といえる。これに対して五月七日以降の六七通には、京都合戦の着到状と京都への着到状が混在しているはずである。両者の峻別は困難であるが、少なくとも後醍醐が帰京した六月五日以降の五一通は京都合戦の着到状とは考え難く、「馳参京都候」の文言がなくても京都への着到状と考えられる。何故に地方から上京してきた諸士は、尊氏へ積極的に着到状を提出したのだろうか。このことについて、認定者側と申請者側の二つの視点から考えてみたい。
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うーむ。
この部分はもう少し厳密に書いてほしいですね。
「五月七日以前の三通」と「五月七日以降の六七通」とありますが、五月七日付の着到状は存在するのか、仮に存在するとしたら、吉原氏はそれを「三通」の方に入れたのか、それとも「六七通」の方なのか。
五月七日といえば京都合戦の戦闘が実際に始まり、そして僅か一日の戦闘で敗北した六波羅探題側の軍勢が光厳天皇・後伏見院・花園院等を伴って東国に向けて落ちて行った日ですね。
軍記物語の話になってしまいますが、元弘三年(1333)四月二十七日に足利尊氏が篠村に移動して以降、『太平記』に最初に「降参」が登場するのは五月七日、尊氏が「篠村の新八幡宮」に願文を捧げてから京へ向かう場面です。(兵藤校注『太平記(二)』、p59)

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 明けければ、前陣進んで後陣を待つ。大将大江山〔おいのやま〕の手向〔とうげ〕を打ち越え給ひける時に、山鳩一番〔ひとつが〕ひ飛び来たつて、白旗の上に翩翻す。「これは八幡大菩薩の立ち翔〔かけ〕つて守らせ給ふ験〔しるし〕なり。この鳩の飛び去らんずるまま向かふべし」と、下知〔げじ〕せられければ、旗差〔はたさし〕馬を早めて鳩の跡に付いて行く程に、この鳩閑〔しず〕かに飛んで、大内〔おおうち〕の旧跡、神祇官の前なる樗〔おうち〕の木にぞ留まりける。官軍この奇瑞に勇んで、内野を指して馳せ向かひける道すがら、敵五騎、十騎、旗を巻いて甲〔かぶと〕を脱いで降参す。足利殿、篠村を立ち給ひし時までは、わづかに二万余騎なりしかども、右近の馬場を過ぎ給ひし時は、その勢五万余騎に及べり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d431b73290254e3e146776bbfd35042e

五月七日に「お味方いたします」と尊氏方に転じても、恩賞をもらえるどころか「降参」扱いで、下手をすれば処刑される可能性もあったはずですから、七日より前か後かは大事ですね。
吉原氏は「両者の峻別は困難であるが、少なくとも後醍醐が帰京した六月五日以降の五一通は京都合戦の着到状とは考え難く、「馳参京都候」の文言がなくても京都への着到状と考えられる」とされていますが、これはずいぶん呑気な話で、「五月八日以降の〇〇通は京都合戦の着到状とは考え難く」とすべきではないかと思います。
もちろん五月八日以降の尊氏証判の軍忠状を持っている人は「降参」扱いされた訳ではなく、おそらく地理的な関係で七日の戦闘には参加できず、戦闘が一応終息した後に京都に到着した人で、かつ尊氏に敵ではないと認めてもらった人ということになるのでしょうが。
ま、それはともかく、吉原論文の続きです。

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 認定者側の視点に立てば、六波羅陥落後の京都において、治安維持のため諸国より続々と上京してきた諸士を掌握する必要があったことは想像に難くない。着到認定は、洛中警固のうえからも不可欠だったのだ。当時、護良が大和に在ったのに対して、尊氏は京都に在って洛中を実質的に統括していた。少なくとも後醍醐が帰京するまでは、足利氏が洛中警固を担当していたはずである。後醍醐が帰京した後も足利氏から直ちに検非違使庁・武者所などへ引き継がれたとは考え難く、一定期間は足利氏が継続して洛中警固を担当していたと考えられる。必然的に着到認定も、尊氏が担当していたはずである。
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「当時、護良が大和に在ったのに対して」に付された注(44)を見ると、

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(44) 『大日本史料』は、護良の所在について大和の志貴山にあり元弘三年六月十三日に入京したとする(『大日本史料』六─一、一〇一~一〇九頁)。
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とありますが、同書101~109頁というと、

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是ヨリ先キ、護良親王志貴山ニ在リテ、足利高氏ヲ除カンコトヲ企図セラル、天皇諭シテ之ヲ止メ給フ、是日、親王入京シテ、征夷大将軍ニ補セラル、尊澄法親王モ亦讃岐ヨリ還ラセラレ、万里小路藤房以下モ亦相踵ギテ配所ヨリ至ル、

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5725c255cb83939edd326ee6250fe7a

と記した後、『増鏡』『太平記』『保暦間記』『職原抄』『歯長寺縁起』を引用したもので、『増鏡』『太平記』以外の史料には志貴山(信貴山)や大和云々は登場しません。
ということは、「当時、護良が大和に在った」ことをしっかり裏付ける一次史料はなさそうですね。
ま、別にそこまで疑っている訳ではありませんが。
また、「一定期間は足利氏が継続して洛中警固を担当していたと考えられる」に付された注(45)を見ると、

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(45) 森茂暁「建武政権の構成と機能」(『南北朝期公武関係史の研究』文献出版、一九八四年、初出は一九七九年、一二九~一三四頁)において、足利氏譜代被官の高師直が洛中警固を担当した武者所の構成員だったことを指摘されている。このことは、足利氏による洛中警固の延長として位置づけられる。
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とありますが、まあ、これは合理的な推論ですね。
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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その5)

2020-12-26 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月26日(土)11時01分56秒

「二 元弘の乱の戦功認定」に入ります。
ここはちょっと複雑な話なので、先ず冒頭部分を引用しておきます。(p41以下)

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 中央における主要な戦功認定者は、護良親王と足利尊氏の二人である。表Ⅱは、現存する護良と尊氏の戦功認定関係の史料を整理したものである。以下、二人を比較しながら元弘の乱の戦功認定について検討していきたい。
 両者の総数を比較すれば、護良のものが二九通なのに対して、尊氏のものは七四通と二倍以上の数値となる。両者を比較できる五月以降に限定すれば、二二通対七四通と三倍以上の数値となる。戦功認定の中で感状は、五月以降には護良のものが二通しか確認されず、尊氏の四通は全て守護級の人物宛の特殊なものである。そこで本稿では、特殊な感状を除いた軍忠状・着到状を中心に分析することとしたい。
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表Ⅱは「認定者」を護良親王と足利尊氏の二人、文書の「種別」を感状・軍忠状・着到状の三種、そして認定期間を元弘三年の四月以前と四月~十二月の九期間に分けて、合計103通を分類したものですね。
護良親王については感状9・軍忠状8・着到状12の合計29通で、尊氏の方は感状4・軍忠状0・着到状70の合計74通です。
尊氏証判の軍忠状が皆無なのがひとつのポイントですね。
なお、「護良のものが二九通なのに対して、尊氏のものは七四通と二倍以上の数値となる。両者を比較できる五月以降に限定すれば、二二通対七四通と三倍以上の数値となる」とありますが、正確には前者は2.55倍、後者は3.36倍なので、間違いではないものの、あまり意味のある数字ではないですね。
続きです。

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 護良の場合は、軍忠状と着到状の両方への側近(中院定平・四条隆貞・某定恒)による証判が確認される。これに対して尊氏の場合は、着到状への尊氏自身による証判のみが確認され、軍忠状へ証判したものは確認されない。この認定内容の差は、一見すると尊氏の権限が護良に劣っていたことを示していると考えられなくもない。しかし、戦功認定における尊氏の権限が、護良に劣っていたとは考え難い。このことについて、小早川氏の事例を通して検討しておこう。
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ということで、「史料J」、即ち建武三年二月七日付の「小早川景宗が尊氏へ元弘没収地返付令に基づいて竹原荘の返付を申請した申状」と「康永元年(一三四二)八月十五日付の鹿島利氏申状写」(p42)が検討されます。
その検討過程は省略しますが、結論として、尊氏が「京都合戦の戦功を認定し、恩賞の申請と給付にまで深く関与していた」(p42)こと、そして「尊氏による恩賞申請への介在は、尊氏が当事者だった京都合戦の戦功認定に限定されるもの」ではなく、「関東合戦の恩賞申請においても仲介役を務めていた」(p43)ことが判明します。
このような尊氏の役割にも関わらず、なぜに尊氏証判の軍忠状が皆無なのか。

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 このように尊氏は、実効性を伴った恩賞の仲介者として恩賞と直結する戦功認定をしていたのである。恩賞と直結するほどの戦功は、当然軍忠状を介して申告されていたはずである。しかし、尊氏が証判した軍忠状は一通も(存在した形跡すら)確認されず、代わりとなるものの発給も確認されない。この場合申請者は、恩賞申請に際して戦功の証拠となる書類を提出することはできない。戦功を裏付ける証拠書類なくして、恩賞の審理は基本的にできないはずである。にもかかわらず、現実には小早川氏・鹿島氏へ恩賞が給付されている。とすれば、後醍醐(恩賞方)の許には、恩賞審理の基礎となる両氏の戦功に関する資料が存在していなければならない。両氏の戦功に関する資料としては、恩賞申請の仲介を務めていた尊氏に提出されていたであろう軍忠状を想定するのが自然である。尊氏へ提出された軍忠状が申請者に返却されていない以上、尊氏の許で確認作業がなされ、後醍醐(恩賞方)の許へ上申され恩賞審理の基礎となったと考えられる。こう考えれば、尊氏が証判して返却した軍忠状が現存しないのに恩賞が給付されたことの説明もついてくる。
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若干説明がくどいような感じもしますが、要するに尊氏に提出され、尊氏が証判した軍忠状は全て後醍醐(恩賞方)に提出されたので、申請者に返却されず、従って現存していないということですね。
では、現在70通も存在している尊氏証判の着到状の方は何を意味しているのか。
この点は次の投稿で吉原氏の見解を紹介します。
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