投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年12月26日(土)13時10分40秒
ということで、着到状の方です。(p43)
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では、尊氏が証判して返却した着到状は、どのような役割を果たしていたのだろうか。尊氏の受理した着到状は、七〇通にも及ぶ多数が現存している。この数値は護良の六倍近い。さらに、尊氏と護良の両者に着到状を提出している事例では、現存する四通中の前後が不明な一通を除いた三通が護良に提出した後で尊氏へと提出されている。これらのことは、尊氏によって着到認定を受ける必要があったことを伺わせる。
尊氏の受理した着到状の中には、五月七日前後の京都合戦の戦闘に直接関係したものと、五月七日以降の京都への着到に関係したものの二種類が存在する。五月七日以前の三通は、合戦以前のもので厳密な意味での京都合戦の着到状といえる。これに対して五月七日以降の六七通には、京都合戦の着到状と京都への着到状が混在しているはずである。両者の峻別は困難であるが、少なくとも後醍醐が帰京した六月五日以降の五一通は京都合戦の着到状とは考え難く、「馳参京都候」の文言がなくても京都への着到状と考えられる。何故に地方から上京してきた諸士は、尊氏へ積極的に着到状を提出したのだろうか。このことについて、認定者側と申請者側の二つの視点から考えてみたい。
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うーむ。
この部分はもう少し厳密に書いてほしいですね。
「五月七日以前の三通」と「五月七日以降の六七通」とありますが、五月七日付の着到状は存在するのか、仮に存在するとしたら、吉原氏はそれを「三通」の方に入れたのか、それとも「六七通」の方なのか。
五月七日といえば京都合戦の戦闘が実際に始まり、そして僅か一日の戦闘で敗北した六波羅探題側の軍勢が光厳天皇・後伏見院・花園院等を伴って東国に向けて落ちて行った日ですね。
軍記物語の話になってしまいますが、元弘三年(1333)四月二十七日に足利尊氏が篠村に移動して以降、『太平記』に最初に「降参」が登場するのは五月七日、尊氏が「篠村の新八幡宮」に願文を捧げてから京へ向かう場面です。(兵藤校注『太平記(二)』、p59)
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明けければ、前陣進んで後陣を待つ。大将大江山〔おいのやま〕の手向〔とうげ〕を打ち越え給ひける時に、山鳩一番〔ひとつが〕ひ飛び来たつて、白旗の上に翩翻す。「これは八幡大菩薩の立ち翔〔かけ〕つて守らせ給ふ験〔しるし〕なり。この鳩の飛び去らんずるまま向かふべし」と、下知〔げじ〕せられければ、旗差〔はたさし〕馬を早めて鳩の跡に付いて行く程に、この鳩閑〔しず〕かに飛んで、大内〔おおうち〕の旧跡、神祇官の前なる樗〔おうち〕の木にぞ留まりける。官軍この奇瑞に勇んで、内野を指して馳せ向かひける道すがら、敵五騎、十騎、旗を巻いて甲〔かぶと〕を脱いで降参す。足利殿、篠村を立ち給ひし時までは、わづかに二万余騎なりしかども、右近の馬場を過ぎ給ひし時は、その勢五万余騎に及べり。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d431b73290254e3e146776bbfd35042e
五月七日に「お味方いたします」と尊氏方に転じても、恩賞をもらえるどころか「降参」扱いで、下手をすれば処刑される可能性もあったはずですから、七日より前か後かは大事ですね。
吉原氏は「両者の峻別は困難であるが、少なくとも後醍醐が帰京した六月五日以降の五一通は京都合戦の着到状とは考え難く、「馳参京都候」の文言がなくても京都への着到状と考えられる」とされていますが、これはずいぶん呑気な話で、「五月八日以降の〇〇通は京都合戦の着到状とは考え難く」とすべきではないかと思います。
もちろん五月八日以降の尊氏証判の軍忠状を持っている人は「降参」扱いされた訳ではなく、おそらく地理的な関係で七日の戦闘には参加できず、戦闘が一応終息した後に京都に到着した人で、かつ尊氏に敵ではないと認めてもらった人ということになるのでしょうが。
ま、それはともかく、吉原論文の続きです。
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認定者側の視点に立てば、六波羅陥落後の京都において、治安維持のため諸国より続々と上京してきた諸士を掌握する必要があったことは想像に難くない。着到認定は、洛中警固のうえからも不可欠だったのだ。当時、護良が大和に在ったのに対して、尊氏は京都に在って洛中を実質的に統括していた。少なくとも後醍醐が帰京するまでは、足利氏が洛中警固を担当していたはずである。後醍醐が帰京した後も足利氏から直ちに検非違使庁・武者所などへ引き継がれたとは考え難く、一定期間は足利氏が継続して洛中警固を担当していたと考えられる。必然的に着到認定も、尊氏が担当していたはずである。
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「当時、護良が大和に在ったのに対して」に付された注(44)を見ると、
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(44) 『大日本史料』は、護良の所在について大和の志貴山にあり元弘三年六月十三日に入京したとする(『大日本史料』六─一、一〇一~一〇九頁)。
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とありますが、同書101~109頁というと、
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是ヨリ先キ、護良親王志貴山ニ在リテ、足利高氏ヲ除カンコトヲ企図セラル、天皇諭シテ之ヲ止メ給フ、是日、親王入京シテ、征夷大将軍ニ補セラル、尊澄法親王モ亦讃岐ヨリ還ラセラレ、万里小路藤房以下モ亦相踵ギテ配所ヨリ至ル、
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5725c255cb83939edd326ee6250fe7a
と記した後、『増鏡』『太平記』『保暦間記』『職原抄』『歯長寺縁起』を引用したもので、『増鏡』『太平記』以外の史料には志貴山(信貴山)や大和云々は登場しません。
ということは、「当時、護良が大和に在った」ことをしっかり裏付ける一次史料はなさそうですね。
ま、別にそこまで疑っている訳ではありませんが。
また、「一定期間は足利氏が継続して洛中警固を担当していたと考えられる」に付された注(45)を見ると、
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(45) 森茂暁「建武政権の構成と機能」(『南北朝期公武関係史の研究』文献出版、一九八四年、初出は一九七九年、一二九~一三四頁)において、足利氏譜代被官の高師直が洛中警固を担当した武者所の構成員だったことを指摘されている。このことは、足利氏による洛中警固の延長として位置づけられる。
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とありますが、まあ、これは合理的な推論ですね。
ということで、着到状の方です。(p43)
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では、尊氏が証判して返却した着到状は、どのような役割を果たしていたのだろうか。尊氏の受理した着到状は、七〇通にも及ぶ多数が現存している。この数値は護良の六倍近い。さらに、尊氏と護良の両者に着到状を提出している事例では、現存する四通中の前後が不明な一通を除いた三通が護良に提出した後で尊氏へと提出されている。これらのことは、尊氏によって着到認定を受ける必要があったことを伺わせる。
尊氏の受理した着到状の中には、五月七日前後の京都合戦の戦闘に直接関係したものと、五月七日以降の京都への着到に関係したものの二種類が存在する。五月七日以前の三通は、合戦以前のもので厳密な意味での京都合戦の着到状といえる。これに対して五月七日以降の六七通には、京都合戦の着到状と京都への着到状が混在しているはずである。両者の峻別は困難であるが、少なくとも後醍醐が帰京した六月五日以降の五一通は京都合戦の着到状とは考え難く、「馳参京都候」の文言がなくても京都への着到状と考えられる。何故に地方から上京してきた諸士は、尊氏へ積極的に着到状を提出したのだろうか。このことについて、認定者側と申請者側の二つの視点から考えてみたい。
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うーむ。
この部分はもう少し厳密に書いてほしいですね。
「五月七日以前の三通」と「五月七日以降の六七通」とありますが、五月七日付の着到状は存在するのか、仮に存在するとしたら、吉原氏はそれを「三通」の方に入れたのか、それとも「六七通」の方なのか。
五月七日といえば京都合戦の戦闘が実際に始まり、そして僅か一日の戦闘で敗北した六波羅探題側の軍勢が光厳天皇・後伏見院・花園院等を伴って東国に向けて落ちて行った日ですね。
軍記物語の話になってしまいますが、元弘三年(1333)四月二十七日に足利尊氏が篠村に移動して以降、『太平記』に最初に「降参」が登場するのは五月七日、尊氏が「篠村の新八幡宮」に願文を捧げてから京へ向かう場面です。(兵藤校注『太平記(二)』、p59)
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明けければ、前陣進んで後陣を待つ。大将大江山〔おいのやま〕の手向〔とうげ〕を打ち越え給ひける時に、山鳩一番〔ひとつが〕ひ飛び来たつて、白旗の上に翩翻す。「これは八幡大菩薩の立ち翔〔かけ〕つて守らせ給ふ験〔しるし〕なり。この鳩の飛び去らんずるまま向かふべし」と、下知〔げじ〕せられければ、旗差〔はたさし〕馬を早めて鳩の跡に付いて行く程に、この鳩閑〔しず〕かに飛んで、大内〔おおうち〕の旧跡、神祇官の前なる樗〔おうち〕の木にぞ留まりける。官軍この奇瑞に勇んで、内野を指して馳せ向かひける道すがら、敵五騎、十騎、旗を巻いて甲〔かぶと〕を脱いで降参す。足利殿、篠村を立ち給ひし時までは、わづかに二万余騎なりしかども、右近の馬場を過ぎ給ひし時は、その勢五万余騎に及べり。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d431b73290254e3e146776bbfd35042e
五月七日に「お味方いたします」と尊氏方に転じても、恩賞をもらえるどころか「降参」扱いで、下手をすれば処刑される可能性もあったはずですから、七日より前か後かは大事ですね。
吉原氏は「両者の峻別は困難であるが、少なくとも後醍醐が帰京した六月五日以降の五一通は京都合戦の着到状とは考え難く、「馳参京都候」の文言がなくても京都への着到状と考えられる」とされていますが、これはずいぶん呑気な話で、「五月八日以降の〇〇通は京都合戦の着到状とは考え難く」とすべきではないかと思います。
もちろん五月八日以降の尊氏証判の軍忠状を持っている人は「降参」扱いされた訳ではなく、おそらく地理的な関係で七日の戦闘には参加できず、戦闘が一応終息した後に京都に到着した人で、かつ尊氏に敵ではないと認めてもらった人ということになるのでしょうが。
ま、それはともかく、吉原論文の続きです。
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認定者側の視点に立てば、六波羅陥落後の京都において、治安維持のため諸国より続々と上京してきた諸士を掌握する必要があったことは想像に難くない。着到認定は、洛中警固のうえからも不可欠だったのだ。当時、護良が大和に在ったのに対して、尊氏は京都に在って洛中を実質的に統括していた。少なくとも後醍醐が帰京するまでは、足利氏が洛中警固を担当していたはずである。後醍醐が帰京した後も足利氏から直ちに検非違使庁・武者所などへ引き継がれたとは考え難く、一定期間は足利氏が継続して洛中警固を担当していたと考えられる。必然的に着到認定も、尊氏が担当していたはずである。
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「当時、護良が大和に在ったのに対して」に付された注(44)を見ると、
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(44) 『大日本史料』は、護良の所在について大和の志貴山にあり元弘三年六月十三日に入京したとする(『大日本史料』六─一、一〇一~一〇九頁)。
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とありますが、同書101~109頁というと、
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是ヨリ先キ、護良親王志貴山ニ在リテ、足利高氏ヲ除カンコトヲ企図セラル、天皇諭シテ之ヲ止メ給フ、是日、親王入京シテ、征夷大将軍ニ補セラル、尊澄法親王モ亦讃岐ヨリ還ラセラレ、万里小路藤房以下モ亦相踵ギテ配所ヨリ至ル、
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5725c255cb83939edd326ee6250fe7a
と記した後、『増鏡』『太平記』『保暦間記』『職原抄』『歯長寺縁起』を引用したもので、『増鏡』『太平記』以外の史料には志貴山(信貴山)や大和云々は登場しません。
ということは、「当時、護良が大和に在った」ことをしっかり裏付ける一次史料はなさそうですね。
ま、別にそこまで疑っている訳ではありませんが。
また、「一定期間は足利氏が継続して洛中警固を担当していたと考えられる」に付された注(45)を見ると、
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(45) 森茂暁「建武政権の構成と機能」(『南北朝期公武関係史の研究』文献出版、一九八四年、初出は一九七九年、一二九~一三四頁)において、足利氏譜代被官の高師直が洛中警固を担当した武者所の構成員だったことを指摘されている。このことは、足利氏による洛中警固の延長として位置づけられる。
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とありますが、まあ、これは合理的な推論ですね。