学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

国文学と歴史学の境界領域

2022-03-01 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 3月 1日(火)22時09分59秒

「2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説」シリーズ全20回、田渕句美子氏「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」シリーズ全9回プラス補遺2回を踏まえ、次のステップの位置づけについて少しだけ書きます。
私は以前、田渕句美子氏の『人物叢書 阿仏尼』(吉川弘文館、2009)を読んで、

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参考文献に井原今朝男氏の「中世善光寺平の災害と開発」(『国立歴史民族博物館研究報告』96号、2002年)が載っていますが、「中世」がついていなければ土木工事の報告書のような、この武骨なタイトルの論文は、意外なことに阿仏尼研究のみならず後深草院二条研究にとっても必読文献です。
このあたりもきちんと押さえているのはさすがです。


などと書いたことがあります。
ただ、「宮廷女房文学としての『とはずがたり』」(『歴史評論』850号、2021)を見る限り、田渕氏が国文学と歴史学の境界領域に特に独自の見識を持たれているようにも思えないですね。
国文学者で歴史学の文献にも詳しいのは何といっても小川剛生氏で、田渕氏が井原論文を知ったのも、あるいは小川氏からかもしれません。

「小川綱志氏の教示を得た」(by 井原今朝男氏)

しかし、小川氏には『とはずがたり』関係の専論はなく、名著『兼好法師─徒然草に記されなかった真実』(中公新書、2017)においても、『とはずがたり』への言及の仕方には些か奇妙な点があります。

『兼好法師』の衝撃から三ヵ月
「有明の月」は実在の人物なのか。

また、小川氏は『とはずがたり』と密接な関係がある『増鏡』の作者について、「北朝廷臣としての『増鏡』の作者─成立年代・作者像の再検討─」(『三田国文』32号、2000)から『二条良基研究』(笠間書院、2005)を経て、『人物叢書 二条良基』(吉川弘文館、2020)へと変遷を重ね、結局、旧来の通説(二条良基説)に戻ってしまったので、『とはずがたり』についても独創的な見解は期待できません。

小川剛生「『増鏡』の問題」(その1)(その2)
小川剛生「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」(その1)
「北朝廷臣としての『増鏡』の作者」の検討は中止します。

私としては国文学と歴史学の境界領域の研究の進展は、国文学よりむしろ歴史学側から起こるものと予想していたのですが、率直に言ってあまり芳しい進展はなく、例えば佐藤雄基氏(立教大学教授)の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)という論文について、

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「物語やイメージに対して歴史的事実を重視する傾向が伝統的な歴史学にはあったが、たとえ虚構であったとしても、いったん生まれた天皇像が、どのように変容しながら、どのように人びとにリアリティをもたせたのかが重要」として「虚構」の世界に踏み込んで行く佐藤氏の勇気を認めるにはやぶさかではないとしても、佐藤氏が何度か言及されている『増鏡』や『五代帝王物語』などの文学的な世界の複雑さを知っている私にとっては、佐藤氏があまりに無邪気で無防備であるような印象も受けました。


などという感想を抱いたりしました。
結局、私としては佐藤雄基氏などよりも更に若い世代の歴史研究者(の卵)に期待したいので、そうした世代の研究者(の卵)を念頭に、『とはずがたり』と『増鏡』についてもう少し論じ、国文学と歴史学の境界領域に踏み込むケーススタディを提供することとし、併せて、そうした研究における注意点を具体的に指摘して行きたいと思います。
文学的な資料には、実証的な歴史学研究のオーソドックスな手法に馴染まないものがあり、それは特に「笑い」が含まれる文学作品に顕著です。
従来の研究者はあまりに生真面目に『とはずがたり』と『増鏡』を取り扱ってきましたが、

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《かりに真理を女と仮定してみよう─。どうであろう? すべての哲学者は、かれらがドグマの徒であつたかぎり、この女をば理解しなかつたと疑われてもしかたがなかつたのではないか? かれらは真理を手に入れようとするときには、つねに恐るべく厳粛にまた不器用な厚かましさを以てしたが、これこそは女を獲んがためのまさに拙劣不当な方法であつた。》


というニーチェの警句を想起する必要があります。
そして、国文学と歴史学の境界領域には、あの『太平記』が未だに深い謎を秘めて蟠踞しています。
当掲示板でも折に触れて『太平記』を検討してきましたが、これもきちんと整理して行くつもりです。

>筆綾丸さん
>赤橋登子の役割に言及した研究者を一人も知りません。

赤橋登子は南北朝史研究の盲点になっていますね。
専論としては、一応、谷口研語氏に「足利尊氏の正室、赤橋登子」(芥川龍男編『日本中世の史的展開』所収、文献出版、1997)というものがありますが、これは『太平記』の読書感想文に過ぎず、論文ではないですね。

四月初めの中間整理(その13)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

余談 2022/02/28(月) 21:56:17
小太郎さん
鎌倉幕府の滅亡に関して、不勉強のため、赤橋登子の役割に言及した研究者を一人も知りません。

昨日の『鎌倉殿の13人』では、義経はそのへんの頭の悪そうなヤンキーのあんちゃんのようで、なんだかなあ、という感じでした。また、鎌倉における頼朝の御邸を決めるとき、義朝の亀ヶ谷旧邸を避ける理由として、頼朝が、
「亀ヶ谷は亀と同じ名だから、妾宅みたいで、ダメだろ」
とかなんとか言えば笑えたと思います。

『鎌倉殿の13人』の13という数は、いわゆる建久10年(1199)4月の「十三人の合議制」に由来するとされていますが、この時期の鎌倉殿は頼朝ではなく頼家で、しかも、同年10月、十三人の一人である梶原景時は鎌倉を追放され、翌年1月、殺害されているので、「十三人の合議制」など徒花で、政治的にほとんど機能しなかったのではないか。
ではなぜ、三谷幸喜は13という数をタイトルに入れたのか、と考えると、「十三人の合議制」を踏まえたというよりは、人数が一人足りないが、主イエスと十二人の使徒のパロディなのではないか。つまり、十二人の使徒の中にひとり裏切者がいる、イスカリオテのユダという裏切者が、と同じように、十三人の中に裏切者がいる、北条の義時(時政)という裏切者が、と言いたいのではないか。そんな気がします。
コメント
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